第2章 鳥籠の住人
2:鳥籠の住人 1
アルヤ王国の首都エスファーナの中央部に、蒼宮殿と呼ばれる宮殿がある。蒼を基調として白や金の
蒼宮殿の内部には、周囲の壁際から中央の庭に至るまで、人工の小川が網の目状に流れている。砂漠に源を発し砂漠の中に消える奇跡の川ザーヤンドから引いた水だ。砂漠に囲まれた東大陸の南西部において水は富の象徴である。蒼宮殿を流れる水路もまたアルヤ王国が豊かであることの証だ。
水は今日も清らかに流れている。
だが最近その流れに目を留める者はない。ここの住人やその付き人たちには、今、そういった余裕が欠落していた。
「どうしてそう勝手なことをしてくれたんだ!」
北の塔一階の回廊を、二人の青年が乱暴な足音を立てて走っている。
「今はまだラクシュミー皇女の件で気が立っていると言っただろうが!」
一歩手前で後ろの青年を怒鳴っているのは、まだ年若い青年だ。切れ長の目や日焼けした肌が彼の中に流れる異民族の血を連想させる。豊かでまっすぐの黒髪は肩より上でざんばらに切られていた。服も髪の色に合わせた黒を基調として銀糸の縁取りが施されている。腰に下げられた剣の柄も黒い。
瞳の色だけが蒼い。
「でも相手は大臣だ、政治的にも年齢的にも僕よりずっと上だし、断りづらいんだよ」
そう情けない声を上げた一歩後ろの青年は、前を行く青年よりはいくつか年上の二十代半ばほどだ。褐色の髪に栗色の瞳と、典型的なアルヤ人の色をしている。
白い武官の衣装は、王とその都を守る近衛隊、通称・白軍の隊士である証だ。白く輝く聖なる御剣はその白軍を統べるアルヤの軍神の証だ。
「情けないッ! それでも王を守る白将軍か!? もう辞めてしまえ!」
「ライルにそんなことを言う権利はないでしょう? 僕は一応建前上は君たち自称お小姓たちの直属の上司なんだよ」
「自称と言うな自称と! 仕方がないだろうが雑用係兼護衛兼遊び相手兼教育係兼子守をまとめたら小姓が一番しっくりきたんだ、俺だってもうそんな年ではないことくらい分かっている! しかも言い出したのがナジュムなのが余計に腹立つ――話が脱線した」
「とにかく」と言って黒の青年――ライルが立ち止まり、振り返った。そして、後ろの白将軍を睨みつけた。
「ラシードは口を出すな! 王族を守る使命を負いながら王女一人守れなかったくせに、王を守ろうとする俺たちに対してつべこべ言える立場にあると思うな!」
白将軍――ラシードは拳を握り締めた。
「貴様もシャムシャの抹殺に加担していたのだと思え!」
ラシードが何も言わないのに焦れたのか、ライルはそのうち踵を返してふたたび走り始めた。ラシードは無気力な足取りでゆっくりそれに続いた。
「いったい何をお考えかッ!」
ライルとラシードが王の私室の前に辿り着いた時、男の怒声が廊下に響いた。低く渋いおとなの男の声――アルヤ王国の司法の頂点、最高裁判所の副裁判長である裁判大臣エスファーニー卿の声だ。
「ちょっと」と止めようとしたラシードを無視して、ライルが扉を蹴り開けた。
中にいたのは三人だ。
向かって左にいるのは、声の主であるエスファーニー卿だ。黒い服に身を包み、白髪の目立ち始めた黒髪を隠すようにターバンを巻いて、怒りで顔を赤黒く染めている。
向かって右にいるうちの一人は、小柄な、派手な桃色の女官服に身を包んだ少女だ。
そして最後の一人は、
「いい加減ご自分の立場というものをご理解なされよ」
蒼だった。
裾を床に引きずるほど長い衣装も、蒼だった。
何の感情も映さぬ凍っているようにも見える瞳も、蒼だった。
長く伸ばされた腰を越えるほどの三つ編みも、蒼だった。
蒼は、神聖なる、太陽の色だ。
「貴方様を王位に押し上げるために我々がどれだけ尽力させていただいたのかお忘れになったか? それを――」
「閣下」
ようやくライルとラシードの存在に気がついたらしい。エスファーニー卿は驚いた表情を見せつつ一度口を閉ざした。少し間を置いてからゆっくり開く。
「ライル殿下、ラシード将軍」
ライルは溜息をつき、「今はあなたの息子だ」と応えた。卿は「すまん」と言ってからひとつ咳払いをした。
「これはどういうおつもりだ。陛下にこのようなこと、裁判大臣である
「うむ……そうだな、軽率であった。憤りで我を忘れていたようだ」
溜息をつき、自らの額に手を当てる。
「だがしかし、私は納得がいかんのだ」
「何にだ」
「王はシャムシアス様この方において他にない。だのに例のあの方のなさりようと言ったら――私は悔しくて仕方がない」
ライルも溜息をついた。
「陛下はいまだ御年十六。……そうお思いになられよ」
「今日の仕事はもう終わられたのか」とライルが訊ねた。エスファーニー卿は「うむ」と頷いた。
「早くお帰りになられるといい。怒るのは体に良くないと医者も言っていただろう」
「うむ……私ももう齢五十、自重せねばならんな」
ライルに「アルヴァス」と声を掛ける。ライルが卿の養子になった際に与えられた名だ。本来は卿の幼くして病で亡くした末息子の名前だと言う。
「義父上?」
「たまには里下がりを。家内が寂しがっておる」
それだけ言い残して、彼は部屋を出ていった。ライルは複雑な表情をしてうつむいた。
ラシードは前に向き直った。
ラシードの目線の先で、彼らの王が、静かに拳を震わせていた。
爆発の前触れだ。
「私が……何だと?」
「……シャム――」
次の瞬間だった。
蒼い袖を纏った腕が傍らに立っていた少女を突き飛ばした。少女が「きゃっ」と悲鳴を上げて尻餅をついた。
「ルムアっ」
ラシードが慌てて少女――ルムアの方へ駆け寄り、彼女を抱き起こそうとした。
そうこうしているうちに彼らの王は動き出していた。
王の右腕が窓の掛け布を強く引いた。留め金が弾け飛んだ。布が裂けていった。
掛け布が床に完全に落ちたあと、今度は左腕が傍らの机の上の花瓶を床に叩き落とした。陶器の砕ける派手な音がした。
握り締めた右の拳が棚の上に並べられていた陶磁器の飾り皿たちに殴りかかった。
ライルが走り出して腕を伸ばした。しかしその右の拳はライルを振り払った。直後、砕けた飾り皿の破片に向かって勢いよく振り下ろされた。
「やめろ!」
もう一度振り上げられた。
ライルが後ろから右手でその右の手首をつかみ左腕をその腹に回した。
「離せッ」
蒼い袖が何ヶ所も裂けていた。中の白く細い腕を晒していた。
手首から肘にかけて白い陶器の破片がいくつか食い込んでいる。裂けて血を流している部分もある。ライルは「馬鹿」と顔をしかめた。
「王に向かって馬鹿とは何だ」
「馬鹿は馬鹿だっ、こんなことをして――」
「うるさい私のすることに口を――」
「シャムシャ!!」
ライルに一喝され、王は一度黙って動きを止めた。
その蒼い瞳に透明な雫が宿り始めた。
「みんな、うるさい……」
「今日はもう休め。……俺が、ついているから」
ルムアが駆け寄ってきた。彼女の顔いっぱいに心配の色が浮かんでいた。
「シャムシャさま、血がっ! たいへん、すぐに手当てを致しますからねっ」
「ルムア……」
ライルが腕を離した。
ライルから身を離すと、王は少女の細い肩へ顔を埋めた。ルムアは自らの主を抱き留め「シャムシャさまぁ」とか細い声を上げた。
「お召し替えもしないと。さぁさ、殿方はお出になって」
ライルとラシードが溜息をつきながら頷き合い、それぞれ部屋の出入り口の方へ向かう。ライルは「部屋の外で待ってる」と言ったが、それには誰も反応をしなかった。
二人が出ていったのを確認してから、少女――ルムアの手が主の破れた蒼い袖を引いた。衣装が音を立てて床に落ちた。白い肌が外気に晒された。
華奢な肩は丸みを帯びてなだらかに細い腕へ続いている。やや目立つ鎖骨の下には緩やかに膨らんだ乳房があった。
「ルムア」
疲れた
「はぁい?」
「今お前の目の前にいるのは、誰だ?」
ルムアは素直に、無邪気に、でもどこか残酷に、笑った。
「シャムシャさまですっ。ルムアのだぁい好きな、シャムシャ姫さまですっ!」
シャムシャは泣いた。その他には何もできなかった。今のシャムシャには存在することの他に何もすることがないのだ。
昔、蒼宮殿の北には、三人の王の子が住んでいた。
一人目は、第一王妃の子、明るい茶の髪をした王子だ。学問に秀で、幼い頃から理知的だった王子は、民にさぞかし聡明な王になるであろうと思われていた。名を、ハヴァースといった。
二人目は、同じく第一王妃の子、ほとんど黒に近い褐色の髪をした王子だ。騎馬や剣をたしなんだ強健な王子は、小さい頃から兄を支える立派な宰相になると豪語しては周囲を喜ばせていた。名を、セターレスといった。
最後に末っ子として、上の王子たちとは年の離れた王女がいた。彼女は身分の低い第二王妃の子である上に女児だったため、兄たちとは違い人前にはあまり出されなかった。したがって彼女のことは名前どころか存在すら知らない民も多い。
民は姫がいたことを憶えていない。けれど、近衛隊長として三人の護衛を任されていたラシードやこの国にかくまわれて長く宮殿に滞在していた三人の従兄弟であるライルはよく憶えている。
三人はとても仲の良い兄弟だった。どこかおっとりとした気性の穏やかなハヴァースは弟妹の面倒をよく見た。少年の頃はやんちゃで奔放だったセターレスも、成長にするにしたがって兄に倣い、兄に尽くしては妹を可愛がるようになった。そして妹は、自分を大切にしてくれる兄たちによく懐いていた。
ハヴァースとセターレスは妹を溺愛していた。
好奇心旺盛で負けん気の強い妹は、何でも兄たちの真似をしたがった。兄二人がそれを邪険にすることはなかった。むしろ尊重した。読書をするハヴァースを見ては自分も本を読みたいから文字を教えろとせがむので、ハヴァースは自ら彼女に読み書きを教えた。騎馬をするセターレスを見ては自分も馬に乗りたいから乗り方を教えろとせがむので、初めのうちは自分の前に座らせていたセターレスだったが、いつしか彼は彼女のために馬を買ってしまった。
平和だった。
問題はただ一つだけだった。
姫の髪の色が目の冴えるような蒼だったことだけだ。
王は必ず男児でなければならない。
ある時突然王にはもう一人王子がいることを明かされた。母の身分が低いことを気にして、また、その神聖な身を穢れた俗世に晒すことになるのを恐れて、今日まで黙っていたのだ、と王は言った。民衆は、王にそう言われてしまっては、怪しいとは言えなかった。ましてやその王子の髪が蒼かったら何があっても仕方がない。
兄たちに「我らの太陽」と呼ばれて愛された姫は病死したらしい。しかし女児が一人消えたくらいでは民は騒がないものだ。だいたい顔も名も知らぬお姫様のことなどいったい誰が心配するだろうか。
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