1:陽の当たらない場所 4
結局、一睡もできなかった。
拷問を受けたからでも、陵辱を受けたからでも、ない。
柔らかい寝台と絹の着物が肌に合わなかったからだ。
セフィーは、部屋の真ん中に座り込んだまま部屋の様子を見回して、大きな溜息をついた。
ここは、フォルザーニー卿の二番目の子息曰く、彼の母親の住む棟の一角、本来は下女にあてがわれる部屋の一つらしい。たまたま先月人減らしをした際に空いた部屋だそうだ。「我が家には牢なんて無粋なものはないからね」とのことである。
セフィーは客になった気分だ。
部屋の面積はセフィーの家全体より一回りは広い。窓には少々褪せてはいるが染みも継ぎはぎもない窓掛けが掛けられている。寝台は柔らかく布団も清潔そうだ。壁にも穴はない。窓掛けを退けるととうとう昇った日の光が入ってきた。
貴人に仕えると下働きでもこんなに良い部屋に住めるとは――自分も雇ってもらえないだろうか。
首を横に振った。化け物である自分が大勢の下男下女と働くことはできない。
戸が叩かれた。
とうとう時が来た。ここに放り込まれた際、卿の息子に「今日はもう眠いから明日の朝にでも君の処遇を考えるよ」と言われていたのだ。セフィーは背筋を正した。
「やぁやぁ、ご機嫌よう」
入ってきたのは、案の定、昨夜のグラーイス・ナジュム・フォルザーニーだ。
彼は細かい刺繍のある着物の上から革の帯を締めていた。長い金の髪は首の後ろで軽く束ねられている。明るいところで見てもやはり美男子だ。
「おや、早起きだね。起こしてやろうと思っていたのに」
起きていたことを口にするのさえためらわれる。セフィーは視線を床に落とした。
「服の着心地はどうだい? 小さかったかい? 僕の弟が十三、四の頃に着ていたお下がりなのだけれども」
問われて、視線を自分の腕へ移した。袖の裾から昨夜縄をかけられた痕が赤紫になってはみ出している。けれど着物自体が小さいわけではない。
「ふむ、こうして見れば、男に見え――ない、ことも、ない……かなぁ……。うーむ、女性に男物の服を着せているような倒錯を感じる」
言いながら彼は寝台の縁に腰掛けた。
「昨日は慌しかったので忘れていた。改めて自己紹介をしよう」
彼のその言葉に、セフィーは驚いて顔を上げた。目が合ってしまった。慌ててうつむき直す。
「……何だい?」
まさか、普通の人間、それも貴族に名乗ってもらえるとは思っていなかった――という言葉も、セフィーには口にできない。
「まあいい、後ほどまとめて質疑応答の時間をあげよう。何はともあれ僕の話を聞きたまえ」
セフィーが沈黙していると、彼は勝手にとうとうと喋り始めた。
「僕はグラーイス・ナジュム・フォルザーニー。君は『ナジュム』と呼ぶといいよ、どうも『グラーイス』は家族のもので『ナジュム』は仕事のものだという感覚があるのでね、フォルザーニー一門の者でない人間に『グラーイス』と呼ばれるのが好きでないのさ。年は次で二十歳。あのエロ貴族の第二夫人の息子だよ。兄弟はひょっとしたらもっといるのかもしれないが確認できている範疇では兄が一人姉が四人妹が一人弟が一人、母親まで同じなのは姉が二人だけ、ちなみにこの姫君がたは両方とも嫁に行ってしまった。仕事はね、次男だからか何なのか数年前から宮殿に奉公に出されてしまってねー。特にこの一年は基本的には宮殿に寝泊まりしていて、たまぁにこうして里帰りをする生活をしているよ」
それにしても――口が裂けても言えないが――よく喋る男だ。
「まだまだいろいろと語りたいことはあるけれどもとりあえずここまでにしておこう。何か質問はあるかい? あ、今は特定の恋人はいないよ! 残念ながら男はまったく好きではない」
質問などできない。そんな身分ではないからだ。それよりも早く処分を言い渡してほしかった。
セフィーが何にも言わないので、ナジュムは「ないのかつまらないなぁ」と溜息をついた。
「それでは本題に入ろう」
身を硬くした。ナジュムは「まぁまぁそう硬くならずに」と笑ったが、とても寛げなかった。
次の時、またもや驚いて顔を上げるはめになった。
「うちのくそったれの父上だけでなく君の話も聞いてから処遇を考えようと思ってね」
とんでもないことだ。貴族が自分のような薄汚い男娼の話を聞くなどあってはならない。そんなことがおおやけになったら、自分は身分不相応のことをしたかどで首を刎ねられる気がする。
しかし――セフィーは途中で気がついた。それは、話をしなければならない、ということでもあるのだ。
セフィーは人前で話すことも苦手だ。職業柄睦言の囁き方だけは覚えたが今はそういう場ではない。貴族が話すことを求めているというのに、もしもうまく話せなかったら――
ナジュムは不安がるセフィーを無視して話を進めた。
「くそったれの父上は、君が誘惑したので、を強調したのだけれども」
衝撃を受けた。自分は求められるがままに応じただけだ。
「君が金銭を要求したので、口止めのために仕方なく払っていたとも言うのだけれども」
彼は何度も愛していると囁いた。まさか本気で愛されているとまでは思っていなかったが、こんな風に切り捨てられるのはさすがに悲しかった。
「反論は?」
それでも、セフィーは間を置かずに首を横に振った。余計なことを言ってこれ以上事を荒立てたくなかった。
「反論なし?」
セフィーは頷いた。
「ぼく、が。してください、って。言いました。お金持ちだから……いいだろう、って……思って……」
「ふぅん」という冷たい声が降ってきた。
「本当に?」
「はい」
即答することはできた。顔を上げることはできなかった。床を見つめた。そこには何もないが仕方ない。ナジュムの顔を見るのが怖い。
怖い、怖い、怖い――早く何もかも終わってほしい。
しばらくの間沈黙が場を支配した。
ややしてから、溜息をつく声が聞こえてきた。
「――なぁんて、僕が信じると思った?」
「え」
思わず顔を上げてしまった。
ナジュムは不愉快そうに表情を歪めていた。
「どうしてあのクソ野郎の片棒を担ぐ気になったのかな? 庇ったところで君は何の得もしないというのに」
そんな風に突っ込まれるとは思っていなかった。
「いいかいセフィード。もしも嘘をつき通したいならば相手の目はずっと見ていた方が良い。顔を上げて僕の目を見て話したまえ。お母様や乳母に人と話をする時は相手の目を見て話せと言われなかったかい?」
彼はきっと言われたと言わせたいに違いない。だが、セフィーは聞いたことがない。
頷くかどうか悩んでいるうちに「言われたでしょう」と急かされた。慌てたセフィーはとっさに首を横に振ってしまった。
「言われなかったのかい?」
その声がどうも責める響きを含んでいるように聞こえた。
「ごめんなさい」
「どうして謝るんだい?」
「ご……ごめんなさい」
「謝らなくていいから質問に答えなさい。言われなかったんだね? 実はこれは僕ら貴族だけの文化だと、そういうことかな?」
セフィーはしばしの間悩んだ。いくら考えても混乱するだけだった。これは観念して素直に答えた方が良さそうだ。
「分かりません。た……たぶん、ぼく、だから」
「……うん? と、言うと?」
「人間との、話し方、は。教わりませんでした」
必要がないからだ。化け物であるセフィーとまともな会話をしたい人間はいないのだ。現に『旅する見世物小屋』の者たち以外の人間と会話らしい会話をしたことはない。客と少し言葉遊びをすることはあるが昔の客にそう演じるよう命じられて覚えたものを他の客に応用しているだけだ。
ナジュムは少しの間黙っていた。ややしてから口を開いた。
「僕には、それでは、君は人間ではないのだ、と、言っているように聞こえるのだけれども。僕の考え過ぎかな」
自分の手を見た。真っ白だった。
ナジュムの自身の腰に当てられている手を見た。赤みと黄みを微妙に配合したような、桃色に近い、健康的な色をしている。あれが、まともなアルヤ人の肌の色だ。
「に……人間には、見えないと言われます」
「誰が言った」
突然ナジュムの声が低く鋭くなった。
怒られる。
「ごめんなさいっ」
「謝れとは言っていない。誰が君を人間ではないと言った」
「え、あ」
「誰が言ったのかと聞いているんだ」
肩をつかまれた。喉が「ひっ」と詰まった。怖い。早く解放されたい。
「い、いろんな人が――」
「具体的に」
「お母さんですっ!」
毎日毎日言っていた。お前を普通の人間に産んであげられていたら、と――自分が人間に生まれなかったことが彼女を苦しめている。
「お、お母さんが、ちゃんと人間に生まれれば良かったのに、って」
「……そう」
声は穏やかになったが、肩に食い込む指はさらに強くなった気がした。
「僕の母親も、息子に父親の愛人を殺してくれと頼むような阿呆だけれども――」
手が離れた。
そうして、セフィーの頭を撫でた。
「君の母親は、母親として、最低だ」
セフィーは目を丸くした。
人間でない自分のことなら何と言われてもいい。だが母は違う。母は人間であるにもかかわらず人間でない自分をここまで育ててくれた。自分はともかく母の名誉は守らねばならない。
「そんなことはないです」
やっとまっすぐ顔を上げられた。ナジュムは驚いた顔をしていた。
「お、お母さんは、ほんとに、優しくて、良い人、なんです。ぼくを、捨てないで、くれた」
「……は?」
「お母さんは、悪くない、です。ぼくが、人間、だったら」
涙が溢れてきた。いい加減にしてほしいと思いながら目元をこすった。化け物に涙など要らない。こんなところだけ人間でいたくない。
ナジュムの手が完全に離れた。セフィーは涙を堪えるためにまたもやうつむいてしまったので、彼がどんな表情をしているのかは、また、分からなくなった。
「……君は、これを良い機会だと思って、お母さんのところにはもう帰らない方がいいと思うね」
困惑するセフィーを無視して、ナジュムが話を続ける。
「で、だね。僕からの提案なのだけれども」
ナジュムの手が、今度はセフィーの顎をつかんだ。むりやり顔を上げさせられてしまった。驚いているうちにナジュムと目と目が合った。ナジュムはセフィーの顔を品定めするかのように眺めて不敵に笑っていた。その表情は父親によく似ていた。
「な……ナジュム様?」
「うんっ。やっぱりどこからどう見ても美少女だねっ」
「えぅ。男でごめんなさい……」
「そんな君に良い仕事を斡旋してあげようかと思うよ」
「え、仕事?」
仕事があるのは良いことだ。殺されない上に仕事を紹介してもらえるとはなんとありがたいことだろう。
ひょっとしたら罰に相当するきつい仕事なのかもしれない。こわごわ「どんな仕事ですか」と訊ねた。
ナジュムが意地悪そうに笑った。
「なんてことはない僕の仕事のお手伝いさんだよ」
「ナジュム様の?」
「そうっ」
「さっきも言ったけれども」と言うナジュムの声が弾んでいる。
「僕は宮殿でとあるえっらーいお方の付き人をしているのだがこのお方がまた気難しいお方でねー。ひとを増やそうと考えていたところなのだけれども、いったいどんな者を連れてくればかのお方は受け入れてくださるのか考えあぐねていたところなのだよ」
「はぁ」
「君ならば変な後ろ盾もなくすぱっと俗世と縁を切らせられそうだし贅沢もしなさそうだし他人の事情を汲んでとっさに嘘をつく程度の機転もある、おまけに見目も楽しいときた」
ナジュムが片目を閉じて口を尖らせた。
「ぜひとも! 僕と一緒においでよ、アルヤ王国の中心我らがエスファーナ
「もちろん女装して」と付け足された。何がもちろんなのかは、セフィーにはまったく分からなかった。
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