1:陽の当たらない場所 3

 セフィーを買う者にはさまざまな人間がいるが、中でももっとも社会的地位が高いのは、今夜の客であるフォルザーニー卿だ。

 詳しいことは、世間から切り離されたところにいるセフィーには分からない。けれど、彼がとてつもない金持ちで、とても有名な貴族で、宮殿の中、つまり政治の世界で大きな力をもっていることは、知っている。

 出会ったきっかけは彼の使用人だった。道端でセフィーを買った使用人の男が、セフィーを自分の主であるフォルザーニー卿に献上したのだ。以来、セフィーはフォルザーニー卿の大のお気に入りになっている。

「やっと来たか、私の小鳥」

 男は右腕を伸ばした。その腕はいまだ衰えぬたくましい筋肉を纏っていた。左手に持った玻璃の酒杯の中では、紅く香り高い葡萄酒が揺れている。

 年齢は確か四十代後半になるはずだ。しかし趣味で馬と剣をやる体は筋骨隆々としており、短めに整えられた栗色の髪や鼻の下にたくわえられた口ひげもあいまって、セフィーの目には男性的な美を体現しているように映った。垂れ気味の優しい目元には唯一彼の年が若くないことを示す皺が刻まれている。

「会いたかったよ。お前を抱いていないと夜も眠れないのだ」

 「さあ、こちらに来なさい」と命じる重低音が心地良い。この伊達男はそうして何人もの女性を腰砕けにしてきたのだろう。

 香の匂いが部屋じゅうに充満している。揺れる炎の灯りもこの舞台を演出している。

 ここでなら演じられる。

 セフィーは一度、目を閉じた。

 次に目を開いた時、セフィーは娼婦の面をかぶった。

 すべてを忘れて演じ切れる。

 夜は自分の時間だ。

「旦那様……」

 音もなく歩み寄って寝台に腰掛けた。自らの白い手で頭を覆っていた布を引き床に放り出した。セフィーの長い白髪が炎の光を弾いて金色に煌めいた。

「嘘つき……旦那様には三人も奥方様がいらっしゃるのに」

「そんなことは言わないんだよ、私の小鳥」

 耳元で囁く声から酒精アルコールの香りがする。それだけで酔えそうな気がする。

「私の愛のすべてがお前のものだ」

「本当に?」

「もちろんだとも」

 酒杯が寝台の脇の机に置かれた。セフィーは白い手を甘えるように卿のたくましい胸に置いた。

「さあ、今宵もさえずりたまえ」

 卿の右手がセフィーの服の合わせ目を開く。白く透き通る肌が外気に晒される。指先が胸を撫でる。下着を身につけるという習慣のないセフィーのからだが少しずつあらわになっていく。

「あぁ……」

 触れた指先から生まれた熱を吐息に乗せて吐き出した。

 次の時、目の端で、卿の左手が密かに動いているのを見つけた。内心で、またか、と舌打ちした。

 麻縄が握られている。

 フォルザーニー卿は苛虐趣味の持ち主だ。セフィーの白い肌に無粋な縄が食い込み赤い痕を刻みつけていくのを見るのが好きなのだ。

 縛られるだけでいいなら、セフィーは別に構わない。だが、痕が残るのは困る。セフィーの白い肌は内出血をとても鮮やかに表現する。

 しかしセフィーに拒否権はない。物言わずに迫ってきた唇を唇で受け止めるだけだ。

「ああ……セフィーダ……」

 縄の擦れる胸や腕が熱い。

 セフィーは息を吐いた。

 それでも応えて興奮できる自分も変態だ。

「綺麗だ……お前は美しい……」

 男の手がからだの中心に触れる。目を閉じて熱い息を吐く。

 夜はまだまだ長い。

「旦那様ぁ……」

 朝までもてばいいのだが――歩いて家に帰れるといい。

 そんなセフィーの内心を読んだかのように、フォルザーニー卿が、自らの服の前を開きつつ、笑いながら言った。

「もう放さない、私の小鳥。この部屋で飼ってやろう」

 セフィーは驚いて目を開けた。

「お前が望むのならば服も宝石も買おう。ここではない、もっと良い部屋に移してやってもいい。あの中年女どもを追い出してもいい。毎夜私のためだけに歌うといい……」

 家には帰らなければならない。母が待っているのだ。

 卿の手が、セフィーの細い首にかけられた。ふだんなら何でもないことだが、今だけは、首を絞められそうな気がした。

「だ、旦那様……」

 後悔した。途中で引き返すべきだった。いくらフォルザーニー卿が金持ちだからといって何度も通うべきではなかったのだ。とんでもない金持ちだということは、とんでもなく大きな屋敷に住んでいるということでもあり、そして、その中に化け物を一匹くらい飼っても支障はない、ということでもある。

 どうやって母のもとまで逃げよう。

 セフィーがふたたび目を閉じたその時だ。

 突然、だった。

 廊下で「ぎゃあッ」という悲鳴が響いた。部屋の前で見張りをしているはずのアヌーシュの声だ。

 セフィーは思わず目を開けた。フォルザーニー卿もセフィーから手を離して上半身を起こした。

 鍵の壊れる派手な金属音を伴って、扉が勢いよく開けられた。

「……何が――」

 卿はとっさにセフィーの体に傍らの掛け布団をかけた。しかしセフィーの顔の上半分だけは隠れず外に出たので、セフィーも入ってきた人物を目で見て確認できた。

「やぁやぁ父上、ご機嫌麗しゅう!」

 入ってきたのはセフィーより二、三程度年上の若い男であった。肩を少し越える程度の長く波打った金髪に、フォルザーニー卿と同じやや明るめの茶色の瞳をしている。金の縫い取りのある白くて薄い生地――おそらく絹――の衣に身を包んでいる。袖のない衣から出ている長い腕はしなやかな筋肉を纏っており、衣の胸も少々たくましく感じられるが、面立ちは彫像のように整っていて女性的だ。

「グラーイス!? お前うちにいたのかい!?」

「やだなぁ父上このグラーイス・ナジュム・フォルザーニーは貴方の次男ですよなぜ自分の屋敷にいただけで自分の父親にそんな顔をされねばならないのです」

 フォルザーニー卿の子供の一人のようだ。卿の子供には初めて遭遇した。体をさらに硬くした。

 慌てる父親や怯えるセフィーをものともせず、青年は貼り付けたような笑顔のままこちらに近づいてきた。右手では油灯ランプの取っ手を、左手ではアヌーシュの服の襟をつかんでいる。腰には剣を下げていた。

「なぜ戻ってきたのだ」

「母上から長ぁい手紙が来ましてね。息子が恋しいのかと思いきや夫が売春婦に熱を上げているので始末してくれないかとのことでしたよ。いやぁ母上も息子を何だと思っているのだか」

 言ったあと、彼はアヌーシュを床に放り投げた。「ひぎゃッ」と呻いたアヌーシュの潰れた鼻からは鼻血が出ていた。

「まったく父上が商売者に熱を上げるなんてありえないでしょうにどうせどこぞの姫君でしょうよ簡単に暗殺なんてできませんからねそんなことをしたら国を挙げての大問題になってしまうではないですかっとか何とかこの僕がわざわざいろいろと心を砕いて思い悩んでいたというのに! あらびっくり!」

 彼は胸を張ると、「アヌーシュから全部聞き出しましたよ」と告げた。

 セフィーは震え上がった。貴族の姫でない、社会的に名のない自分は、彼に始末される。

「天下のフォルザーニー副議長が聞いて呆れたものだ」

 床に油灯ランプを置いたあと、右手で剣を抜いた。

 フォルザーニー卿が「待て、待ってくれ」と情けない声を上げた。しかし息子はそんな父を無視した。左腕を伸ばして、セフィーの二の腕を掛け布団の上からつかむ。床に叩きつけるようにして寝台から引きずり下ろす。先ほどフォルザーニー卿に緊縛を施されたままのセフィーは抵抗どころか着地に失敗して頬を擦ってしまった。

 右手の剣がひらめくより先に、左手が掛け布団を剥ぎ取った。

 セフィーは固く目を閉じた。

 殺される。

 だが、

「何だこれ!?」

 次の時絶叫したのは、セフィーではなく青年の方だった。

 初めは、自分の父親が緊縛のような過激趣味の持ち主であることを知って驚いたのかと思った。それから我に返って、自分の長い白髪、真っ白な体を見て驚いたのだ、と思い直した。

 そんなセフィーの予想に反して、彼は「男!?」と叫んだ。

 セフィーは、途方もなく、悲しい気持ちになった。男に見えないのだろうか。セフィーにあるのが、彼にもあるであろう股間のそれではなく、柔らかい乳房であることを期待していたのであろうか。

「ちょ、え、えぇー!?」

「ぐ……グラーイス。真夜中にそんな大きな声を出すのではない。家の者たちが起きてしまうだろう」

 息子の混乱を見ていてようやく落ち着きを取り戻したらしい。卿が気を紛らわせるためか葡萄酒を飲みながら言った。息子の方はまだ動転した面持ちで「だって、え、だって」と首を横に振る。

「この美少女顔でこれはないでしょうっ!」

 わざわざ股間を指差されて、あまりの恥ずかしさに頬が赤くなったのを感じた。

「うむ。私も、最初は、そう思った」

「開き直ったなっ!? 天下一の女好きで知られる父親が少年を囲い始めたことを知った時の子供の気持ちをもうちょっと思いやったらいかがですっ!?」

「世の中には、飽きが来る、という言葉がある」

「宗旨替えをなさったわけですか」

「お前にもいつか分かる日が来る」

「まったくもって来てほしくありませんけれども」

 「しかも」と、彼は父からセフィーへ視線を戻した。

「これは、いったい。真っ白だ」

 剣の切っ先がセフィーの方へ向いた。金属の冷たい感触を顎に感じた。セフィーは従わざるを得なかった。顔を上げて青年の顔を見た。

「瞳は――紅、だね。何人だい?」

「え、あ」

「何人かと聞いている。答えなさい」

 震える声で「アルヤ人です」と答えた。自分はひょっとしたらこういう場合にもアルヤ人として扱ってもらえないのかもしれないが、少なくとも父母はアルヤ人であり、自分もこの国で生まれ育っている。

「名前と年、親の職業」

「ほ……本名は、セフィード、です」

「セフィード――『白』ね。君の名付け親はずいぶん親切なようだ。年は?」

「十七に、なりまし、た」

「そのなりで、十七の、男……」

 青年が「うちの弟と同い年かぁ」とぼやいて遠くを見た。フォルザーニー卿にはセフィーと同い年の息子もいたらしい。

「お……親も、商人だった、らしい、です、けど……」

「まあ、男娼をやろうというような境遇から想像はできるけれども――ふむ」

 彼の剣が動いた。セフィーは斬られると思って目を閉じた。

 しかし、彼の剣先はセフィーの肌を傷つけることなく器用に縄だけを切り落とした。

「父上、これは没収です」

「なに」

 また掛け布団を体に掛けられた。それから、「立ちなさい」と命じられた。言われるがままに従った。そうでなければこの場で斬り殺されると思ったのだ。

「グラーイス」

「だめです。没収」

 掛け布団で体を覆っただけのセフィーの手首を、彼がつかんで引いた。そして、部屋の出入り口の方へ歩き出した。セフィーも引きずられるようにして外に出た。どこに行くのか、自分をどうする気なのか、とは、訊ねられなかった。

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