6:知ってしまった真実 5
シャムシャは、一向に目覚める気配を見せないセフィーに添い寝したまま、溜息をついた。
「そう……そんなことがあったですか……」
ライルに一部始終を聞いたルムアが一人頷く。
「まさか、こんなことになるとはな……」
ライルもまた、椅子に座って重い息を吐いた。
「確かに、直接危害を加えられたわけではない。怪我人は出なかった。だが――」
「セフィーの心が心配です」
「俺もだ。でも、あとはもう祈るしかない」
彼は「守ってやれなかった」と言って悲痛な表情を浮かべた。対して、ルムアが「仕方ないですよ」と苦笑する。
「セフィーは今までどこで何をしていたのか一切教えてくれなかったです。まさか――お友達、でしょうか。そういう存在があったなんて、これっぽっちも思わなかったです」
ルムアの言葉に反して、ライルはまた、首を横に振った。
「セフィー自身もこの間まで自分を化け物だと思い込んでいた。化け物扱いされている者同士で親しくなったのかもしれん。それを……なぁ……」
困ったように笑ったまま、ルムアが「その彼女はどうしました?」と訊ねた。ライルは顔を上げ、「一応ラシードに言って俺ら側で保護できるようにはした」と答えた。
「部屋と着替え、食事もラシードがどうにかしてくれたが、自分からは手をつけない。医者も呼んだが、だいたい二十代後半から三十代前半の白人女性だということが分かった他にはどうにもならなかった」
また、もう一つ、溜息が漏れた。
「あんな状態でもなければ、彼女にセフィーの世話をしてもらえたかもしれなかったのに、な」
シャムシャは上半身を起こした。
「ライル……、一つ、訊いてもいいか?」
ライルが「なんだ?」と顔を向ける。
「あの、彼女が入ってきた時、お前はどう思った?」
「どう、と言うと?」
「私……、気持ちが悪いと言ってしまったんだ。毛むくじゃらで……驚いてしまって……。セフィーも蒼い顔をしていたからてっきり同じように考えているのだと思い込んでしまった。普通知り合いが裸で引きずってこられたら蒼くもなるよな、と、今になって思う」
ライルが頭を抱えた。ルムアも腕を組んで「うーん」と唸った。
「お前、それを、よりによってセフィーに言ったのか」
「……今、後悔している」
「あのなぁ」と言ってライルは立ち上がった。
「口に出したら終わりだ。そして口に出してしまった言葉は二度と戻ってこない。見慣れないものを不気味だと思うのは仕方のないことだが、よく考えずに発言したお前は馬鹿だ」
シャムシャは反論せずうな垂れた。「どうしたらいい」と呟くように訊ねた。ライルは「俺も知りたいくらいだ」と答えた。
「俺はもう一度ナターシャとやらの様子を見てくる。もしかしたら、人間らしい空間を保証されて、多少は落ち着いたかもしれん。落ち着いたのならセフィーの話を聞きたい」
「ルムアも行きます」とルムアも立ち上がった。
「何かお世話できるようならしたいです」
「待ってくれ」
扉へ向かっていた二人が振り向く。
シャムシャは一度言葉を詰まらせたが、やがて顔を上げてこう言った。
「もし、良くなっているようなら。お前たちから彼女に、王妃の世話係になってくれないか頼み込んでくれないか? こんな、私の言葉では、届くとは思えないから」
二人は当たり前のような顔をして「もちろん」と答え、出ていった。シャムシャは胸を撫で下ろすと、ふたたびセフィーの横に寝転がり、「ごめんなセフィー」と言ってその頬に口づけた。
イヴァンは普通の人間のこどもだった。グレゴリとナターシャの生まれ故郷ではよくいる金の髪に青い目、明るい色の肌をしていた。手足は二本ずつ生えていて、何不自由なく動き回れた。甘えん坊ではあったが、よく笑う子だった。それでいて、何の疑問も持たずに『旅する見世物小屋』の面々を家族だと思っていた。普通の人間のこどもだったのに、セフィーの名を呼び、セフィーに微笑みかけた。セフィーにとってはそれが嬉しかった。
セフィーはイヴァンを彼が話し始めた頃から知っている。セフィーはよくナターシャにイヴァンと同じ布団に寝かされていたのだ。何も知らないイヴァンは、昼寝から覚めると、無邪気にセフィーの顔を叩いて関心を引こうとしたものだ。
イヴァンは会うたびに成長した。走り回るようになり、会話をするようになった。セフィーは、人間はこうして育つのだ、と、感動していた。
ただ、イヴァンは、いつまで経っても一人では何もできない子だった。母親っ子で、ナターシャに甘えてばかりいた。
セフィーはイヴァンがナターシャの膝に擦り寄っている姿をよく見かけた。ナターシャは、口では困った、困ったと言っていたが、そんなイヴァンを見る目はとても優しく、毛の生えていない手の平でいつまでもいつまでもイヴァンの頭や背中を撫でていた。
セフィーはイヴァンがうらやましかった。もしも自分も普通の人間のこどもだったら、母にああして甘やかしてもらえたのだろうか。そうに違いない。すべては自分が普通ではなかったことが悪いのだ。
外は闇夜だった。今宵は新月だったようだ。
どうにかしないと、と思った。イヴァンは大事な、唯一の人間の友達だ。そして、ナターシャは、恩人だ。他のみんなは死んでしまった。今イヴァンとナターシャのために何かできるのは自分だけだ。
ゆっくり上半身を起こした。
隣にシャムシャが眠っていた。
セフィーは知っていた。シャムシャは寝込みを襲われてもすぐに対応できるよう、寝台の頭側の端、枕の向こう側に剣を隠している。
イヴァンは今頃寂しい思いをしているだろう。イヴァンはまだ小さい。イヴァンにはまだナターシャが必要だ。
剣を手に取った。思ったよりも重かったがあまり気にならなかった。
セフィーはそのまま廊下に出た。真っ暗だが、どこをどう歩けばいいのかは知っていた。それに、おぼろげな意識の中で聞こえたライルとルムアの会話も、憶えている。ナターシャの今の居場所はだいたい見当がついていた。
誰も、見ていない。月も、見ていない。夜の闇の中、化け物である自分だけが動いている。
化け物に夜はよく似合う。
結局、自分は化け物なのだ。人間とは、違うのだ。
彼女は、ナターシャを、気持ちが悪いと言った。
それが真実だ。
何を浮かれていたのだろう。自分が人間として暮らせると思っていたのか。自分が人間のように読み書き聞き話してやっていけると思っていたのか。自分が誰か人間のために何かできると思っていたのか。自分が誰か人間を守れるようになると思っていたのか。自分が誰か人間と結婚できると思っていたのか。自分が誰か人間と愛し合えるようになると思っていたのか。
幸せになりたかったし、幸せになってほしかった。でも、よくよく考えたら、自分には幸せというものがどんなものなのか分からない。自分には色とともに何かが欠落している。
化け物だからだ。
人間として、人間らしいことをしていたかった。
化け物には許されないことだ。
戸を開けた。
その部屋は、自分が初めにこの宮殿で与えられた私室と同じつくりをしていた。机と椅子、寝台だけの殺風景を、机の上の唯一の
いつか中央広場の処刑台で誰かが首を切断されている光景に出くわしたことがある。肉屋が鶏の首を掻き切っているのも見たことがあった。どんな生き物でも、首を切られたら大量の血が出て死ぬのだ。
死んだらイヴァンに会える。
寝台の上に、ナターシャの金の毛並みが見えた。彼女は相変わらず裸のまま丸くなって寝ていた。
「だめだよナターシャ」
剣を抜く。刃が
「イヴァンにはまだナターシャが必要だよ、一緒にいてあげなきゃ」
剣の握り方も、セフィーは知っていた。いつかライルが教えてくれたのだ。
振り上げた。
いつか、ナターシャがイヴァンを抱いて、幸せだ、と言っていた。嬉しそうな様子だった。あれが、幸せなのだ。
幸せな方が良い。
「あのね、ナターシャ」
セフィーは微笑んだ。
「ぼく、ナターシャのこと、大好きだったよ。ナターシャがお母さんだったらよかったのにって、思ったこともあるくらい――でも」
剣が振り下ろされた。剣の重さに任せたので苦労はなかった。
「ナターシャは、イヴァンのお母さんだもの」
生温い液体が噴き出した。勢いよく飛び散った。セフィーの頬や服の胸を濡らした。
セフィーは剣の柄から手を離した。剣は重さで半分布団に沈んでいた。
もう二度と動かないであろうそれに対して、セフィーは何の感情も抱かなかった。それが大好きだったナターシャと同一のものであるとは思えなかった。ただ、
ナターシャとイヴァンは天国で出会えただろうか。
子供には、母親が必要だ。
ふと、自分も長い間母親に会っていないことを思い出した。
セフィーは、どこをどう通ればここを出て母に会いに行けるのか、知っていた。人間は白軍に取り締まられるが、人間ではない自分であれば問題ないだろう。
ふらつく足で、血の臭いに満ちた部屋を出た。母のことの他には、もう、何も考えられなかった。
夜の闇の中を歩くのは得意だ。難しいことは何もない。
汚れた狭い裏路地、痩せた猫の瞳だけがらんらんと輝いている中を抜け、エスファーナの掃き溜めを目指した。
風がまったく訪れない、乾燥した空気の他に何もないところに、崩れかけた我が家が見えてきた。セフィーが帰れなくなった日と何も変わらぬ様子だった。
焦る気持ちを抑えつつ、出入り口に掛けられたぼろぼろの幕を払って中へ入った。
「母さん、セフィーが帰ったよ」
返事がない。
夜だから寝ているのかとセフィーは思った。それならそれでもいい。そう思い、手探りで壁を探し出し、壁際から
石を打ち鳴らし、ぼろきれに火をつけ、
「……母さん?」
何が起こったのか分からなかった。
壁じゅうに褐色の染みがついていた。そして、布団の上に、何か茶色っぽいものが転がっていた。
布団に近づいた。
その茶色いものは人の形をしていて、セフィーの母がよく着ていた女物の着物を着ていた。
何なのか、分からなかった。
「お母さんなの……?」
その茶色いものの人間で言えば腕に当たる部分に触れた。ぽろりと崩れた。
「お母さん……、帰って、きた、よ……」
干からびてしまったのだ。自分が知らない間に死んで干からびてしまったのだ。
もう、何も考えられなかった。
世界は、真っ暗だった。
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