2:鳥籠の住人 5
そう思ったのに――廊下から聞こえてきた足音が、二人の静寂を打ち破った。
二人分の足音だ。
ひとつは、力強く、一定の歩幅を乱さない、軍人らしいものだ。
もうひとつは、軽く、先を行くひとつめに一生懸命ついていこうとしているように聞こえた。
二つの足音は扉の前で止まった。
「陛下、いらっしゃいますか?」
ラシードの声だ。
シャムシャもルムアも互いから身を離して扉の方へ目を向けた。
ルムアが「いらっしゃいますよ~」と答えた。それを入室許可であると早とちりしたらしい、ラシードが外から扉を押した。「げ」と言って固まった半裸のシャムシャと、「こらっ!」と怒鳴ったルムアの声を聞くことなく、扉は完全に開いた。
シャムシャもルムアも、目を大きく見開いた。
ラシードの傍らに立っていた者が、ただびとではなかったからだ。
肌は滑らかできめ細やかだが、血が通っていないのではないかと思わせるほど白い。大きな二重の目を守る長くて量の多い睫毛も白く、頭を覆う白いマグナエからわずかにはみ出たまっすぐの髪も白い。大きな目とやや小さめの鼻と口は行儀良く並べられ、まるで左右対称であるように見える。
着色前の人形だ。精巧に、完璧にできているというのに、色だけが完全に欠落している。
あるいは、シャムシャの目には穢れない天使のように見えた。清浄そのものだった。
瞳の色だけが強い紅色をしている。
生き物だとは思えない、何か美しいものであった。そうとしか言い様がなかった。
呆然としたまま動けずにいるシャムシャとルムアとは真逆に、ラシードは真っ赤な顔と裏返った声で「申し訳ございません!?」と叫んで慌てて出て行こうとした。それをシャムシャが「待て」と一言鋭く言いつけて止めた。
「それは……、何だ?」
それが、シャムシャとラシードを交互に見た。その目と首が動いたのを見て、シャムシャは初めてそれが生きているものなのだと感じた。
ラシードがシャムシャに背を向けたまま、それに向かって「ご挨拶を」と命じた。
それが初めて「はい」と声を出した。シャムシャに向かってひざまずいた。
「お初にお目にかかります。ナジュム様のご紹介で上がりました、セフィー、ダ、と、申します」
見た目の印象でもっと鈴の音を振ったかのような声をしているものだと思い込んでいたが、響いたのは予想していたよりは低い声だった。しかしそれでもよく透る耳に心地良い声だ。むしろ中性的な感じがしてより神秘性が増す。
「陛下のお目にかかれて、光栄で――」
そこで、言葉が切れた。
シャムシャが下穿き一枚のまま立ち上がり、それの方へ――セフィーの方へ歩み寄ったからだ。
ひざまずいたままのセフィーの一歩前まで近づいた。手を伸ばして、布からはみ出ている白い前髪に触れた。それからその白い頬にも触れた。
頬は、温かかった。
作り物ではない。生き物だ。
人間なのだ。
シャムシャは一人頷いた。
人間なら遠慮は要らない。
もうこれ以上ひとは要らない。新しい人間と知り合いたくない。人間関係で思い悩みたくない。
誰かを傷つけたり傷つけられたりするのはごめんだ。
「ラシード」
ラシードが「はっ」と軍人らしく短い返事をした。
シャムシャは冷たく切り捨てるように命じた。
「この者を宮殿からつまみ出せ」
おそらくそのたたずまいだけは王らしく見えたことだろう。こういう態度を取ることだけは人一倍得意だ。
紅い瞳が、大きく丸くなった。
ようやく我に返ったらしいルムアが、部屋の隅に置かれていた籐の箱から新しい着物を持ってきた。手際よくシャムシャの肩に掛ける。簡略化した結い方で帯をまとめる。最後に、ラシードに「はいどうぞ」と声を掛けた。
ラシードがようやくこちらを向いた。一度敬礼をしたあと、改まった声で言った。
「おそれながら陛下、この者は陛下の秘密を知ってしまいました」
ラシードに言われてから気づいた。自分は彼女に裸の上半身を見られている。
王は男児でなければならないのだ。
「その命は即ち、この者を始末しろという意味になります」
大きな紅い瞳が、ラシードとシャムシャを交互に見ていた。
「ぼくは死ぬんですか」
シャムシャは、自分は何を言っているのだろう、と思った。自分には自分と同じ年頃の少女から人生を奪う権利があるのか。一人では何にもできないくせに、偉そうに誰かを踏みつけることができるのか。
紅い目が自分に留まった。その目を見ていると胸が痛んだ。
相手は自分と同じくらいの少女だ。
シャムシャには、できなかった。
ひとつ、溜息をついた。
仕方なく、「片づけたら改めて会ってやるから今は一度さがれ」と告げた。
セフィーの華奢な肩から力が抜けていったのが見て取れた。それを見て、シャムシャは、この子も緊張していたのか、と思った。人間離れした容姿をしているが、やはり、人間の娘なのだ。
自分には何の権限もない。
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