3:劣等感に劣等感を重ねる 5

 その男はセターレスと名乗った。

「俺を知っているか?」

 アッディーンに読んでもらった新聞の内容を記憶の中から掘り返した。セターレス――それは聞き覚えのある名だ。

 セフィーはこわごわ頷いた。

「この、国の、宰相、閣下……えと、政治で、一番偉い――」

「それだけ分かっていてくれればいい」

 「民は王しか政治をしていないと思っているのではないかと思っていたもので」と、彼は苦笑した。その様子は優しそうだ。しかも若くて美しくたくましい。初めて目が合った時は肉食獣に見つかった気分になったものだが、今は乙女の恋焦がれる理想の王子様のようにも見える。

「あと、シャムシャ付きの女官ならばもう一つ大事なことを知っていなければならないと思うのだが、シャムシャやライルから聞いたか?」

 セフィーは硬直した。宰相であることの他に彼に関する知識はない。怒られてしまうだろうかと思った。けれど彼は苦笑するだけで「構わないぞ」と言ってくれた。

「シャムシャやライルには派手に嫌われてしまったからな。俺の話はしたくないのかもしれん」

 そうして、言った。

「俺は、シャムシャの兄なんだ」

 セフィーは目を丸くしてしまった。彼は「正確には母親が違うのだが」と付け足したが、言われてみれば顔立ちが少し似ている。なぜ今まで話題にならなかったのだろう。

「妹の世話人が増えたと聞いたので、兄として挨拶をせねばならんと思っていたのだが、遅くなってすまなかった」

 セフィーは慌てて首を横に振った。自分は王族、それも宰相にそんな風に扱われるような身分ではないのだ。

「それと、もう一人。お前に会いたがっている者がある」

 彼は微笑んでいた。

「シャムシャのもう一人の兄、俺にとっても兄に当たる人物だ。事情があって今身動きが取れない。俺と一緒に会いに行ってくれないか?」

 セフィーは頷いた。幸いなことに今日はもう夕飯まで仕事がない。それに王族の求めを拒むなどあってはならないことだ。

 セターレスが「来てくれ」と言い、回廊の方へ歩き出した。セフィーはそれに続いた。


 階段を三度上がったあと、さらにもう一つ細くて暗い階段を上がった。セフィーは使ったことのない階段だ。宮殿の中はルムアにひととおり案内してもらったが、その時は彼女もここは上がったことがないと言っていたと思う。

 最後に辿り着いたその階は、最上階だというのにほの暗い感じがした。窓掛けが閉ざされている。廊下の隅にはほこりが溜まっている。同じ宮殿の中だとは思えない。

 彼はやがて一つの扉の前で立ち止まった。その扉は木製であったが、鉄の枠がこしらえてあって重く堅そうに見えた。いかつくてどこか怖い。

 彼は腰にぶら下げていた鍵束を左手で取りつつ、右手で扉を叩いた。中から、若い男の声で「どうぞ」と返ってきた。鍵穴に重そうな黒い鍵を挿し込む。回すと、がちゃりと重い音がした。

 扉が開き、部屋の中が見えてきた。

 セフィーは目を丸くした。

「こんにちは、ようこそ白い天使ちゃん」

 中で待っていたのが、むくつけき悪人面の男ではなく、童話に出てくるような、甘く優しげな風貌の美しい青年だったからだ。

「ほら、入れ」

 言葉は命令形だが優しい声だ。セフィーは我に返って部屋の中に入った。

 後ろで、セターレスが扉に内側から鍵をかけた。なぜそんなことをと思ったが、正面の美しい青年に「こちらにおいで」と言われてしまったのですぐ前に向き直る。

 目の前の青年は愛想良く微笑んでいた。

 簡素な、平民の着るような麻色の服を着ているが、セフィーにはすぐに彼がただびとではないことが分かった。纏っている空気が平民とはまるで異なる――統治者であり指導者のものだ。堂々とした、包み込むような、どうしようもない安堵と共に畏怖と畏敬の念をも呼び起こす空気だ。彼は確かに人を諭し導くために生まれた人間だ。

 彼の蒼い瞳がそれを証明している。

「さあ、こちらに。汚いところで申し訳ないけれど、布団の上にでも座りなさい」

 素直に従った。畏れは感じても恐れは感じなかった。彼の言うことを聞いていればすべてが安泰である気さえした。

 しかし彼の言うとおりだ。この部屋はセフィーの家より狭い。薄暗く乾いているところもセフィーの実家に似ている。家具も、机と椅子、そして寝台しかない。

 セフィーが寝台の縁に腰掛けると、彼は窓の傍に置いてあった椅子を持ってきてセフィーの斜め前に座った。

「初めまして。僕はハヴァースです」

 とても、優しい。

「君の名前を、教えてくれるかな」

 それなのに、絶対的な服従を求められている気がする。

「セフィードです」

 ハヴァースが首を傾げた。セフィーは慌てて「セフィーダと申します」と訂正した。自分は女官服を着て王に仕えている身だ。身内以外の者に男であることを知られてはならない。

「セフィーダ――そう。『白』、だね。綺麗だ」

 ハヴァースの手が突然伸びてきた。そうして、布からはみ出ているセフィーの白い髪を一房取り、撫でるようにして胸の方へ整えた。「はねているよ」と微笑む。まるで夢を見ているかのようだ。懐かしい感じがする。自分はかつて客とこういう甘いやり取りをしていた。

 そう思った次の瞬間、身の危険を感じた。

 彼らはいったい自分をどうしたいのだろう。

「ところで、セフィーダ。君は最近国王陛下付になったそうだね」

 セフィーは黙って頷いた。

「去年の……、新聞には謀反だとかと出たのかな? 現国王陛下の即位の直前に王宮内部がごたごたしているのは憶えているかな?」

 それには、セフィーは身を縮めてうつむいた。ハヴァースが「知らないのかな」と呟く。

「ごめんなさい。ぼく、字が、読めないんです。聞いたことは、あるんです、けど……新聞とか、読めなくて。頭に入ってこなくて――」

「いや、構わないよ。この国の識字率はまだそんなに高くない、君のような子もいるでしょう」

 顔を上げたら、彼は優しく微笑んでいた。

「むしろ、その方が良い」

「え?」

「何の偏見も持たないで話を聞いてくれるのではないかな、と思うんだ」

 今度は、セフィーの方が首を傾げた。けれどハヴァースが「聞いてくれる?」と問うてきたので頷かざるを得なかった。

「僕もシャムシャの兄だった。僕らは三人兄妹で、僕が長男だった」

 胸の中がざわつく。

「もともとは僕がこの国の王として即位することになっていた」

 王は男児でなければならない。

 シャムシャは女性であり、上に立派な兄が二人もいる。

 「どうして、という顔をしているね」と言い、ハヴァースがセフィーの頭を撫でた。

「君も知っているとおり、シャムシャの髪は蒼い」

 それは、生まれついての、宿命だ。

「僕とセターレスは特に気にしていなかった。髪が蒼いといってもシャムシャは女の子だからね、しかるべき時まで宮殿奥深くで養っておいてもしもの場合に限ってその威光を借りられればいいと思っていた。けれど、父上は、蒼い髪の王が立った方が王家の威信を保てて良い、とおっしゃった。本当は言うことを聞かない僕より女の子のシャムシャの方が扱いやすいとお思いになったんだろうと思うけれどね。とにかく、シャムシャを立てて、僕を始末してしまおうとなさったんだ」

 それから、苦笑する。

「シャムシャは本意ではなかったと思う。蒼い髪であるというだけでいろんなひとに担がれていた、シャムシャ一人の力ではどうにもならなかったんだろう。僕も争いたくなんてなかった。シャムシャは妹なんだ、年頃まで大事に育てて、きちんとしたところに嫁がせてやるのが、兄としての務めでしょう。だからこそ僕は彼女のためにも僕の王位を守らなければならなかった」

 しかし、今はこんなところに閉じ込められている。

「父上は僕に反逆罪をでっち上げて王位継承権を取り上げてここに幽閉した。そうして、法に則るために、シャムシャに男性名を名乗らせて即位させた」

 セフィーはそこまでの流れに頷いた。

 悲しいと思った。このように真摯で妹思いの兄がこんな目にあっていると思うと切ない。

「その時にいろいろな行き違いや父上が配下の者たちに流させた僕に不利な噂などもあってね、シャムシャは今、たぶん、僕とセターレスに不信感を抱いている。もしかしたら嫌っているかもしれない」

 そう言う表情も苦々しげだ。見ている方もつらくなりそうだ。

「だけど、僕らにしてみれば、シャムシャはかけがえのない妹だ。今も、昔も。気丈な子だけど、心配なんだ。分かってくれるね?」

 セフィーは「はい」と頷いた。ハヴァースが「ありがとう」と微笑んだ。

「今はまだ何もできないけれど……、いつかその時が来たあかつきには、君も、僕らとシャムシャの間に入ってくれないかな? 君を、信じてもいいかな?」

 生まれて初めてのことだった。

 自分に対して、信じる、などという行為をする者に遭遇した。

 興奮のあまり、つい、「もちろんです」と即答してしまった。

 自分に兄弟はないが、だからこそ、仲良くしてほしい。こんなに大切に思っているならなおさらだ。自分にできることなどそんなにはないと思う。けれどその時が来たらきっと何かをしようと、本気でそう思えた。

 まるで魔法にかかってしまったかのように自信が持てた。

 自分にも、彼らのために、何かはできる気がする。

「そう……ありがとう」

 ハヴァースが微笑んだ。セフィーもつい、微笑み返してしまった。

「では、今日のところはこの辺で。またいつか、その時が来たら」

 そう言うと、ハヴァースは、ずっと黙って出入り口付近に立っていた弟に「開けてあげて」と指示した。セターレスが「ああ」と応じて鍵を開け直し、扉を開けてくれた。優雅に「どうぞ」と言う姿はまるで物語に出てくる騎士のようだ。

「失礼しました」

「いえいえ。また遊びにおいで」

 セフィーは深く頭を下げてから部屋を出た。

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