3:劣等感に劣等感を重ねる 6
足音が聞こえてきたので、セフィーは顔を上げた。足音の主はシャムシャとライルであった。二人が廊下の向こう側から走ってきている。
「セフィー!」
二人ともひどく焦った様子だ。セフィーは立ち止まって何事だろうと首を傾げた。
「どうか、なさいましたか?」
シャムシャに手首をつかまれた。強く引かれた。その強い力にセフィーはぎょっとしたが、何も言わずにされるがままにした。何が起こっているのかさっぱり分からなかった。
「怪我はないか」
「え?」
「何か飲まされたりとか」
「な、何も」
「とにかく一緒に来い」
「何を言われたか、何をされたか、具体的に説明するんだ」
「はぁ……」
手首を引っ張られて、セフィーは二人に連れられて歩き出した。
王の控えの間まで連れてこられた。
ライルに長椅子に座るように言われた。セフィーは戸惑いながらも言われるままにした。
シャムシャもライルも表情を強張らせている。それがセフィーには少し怖い。
「セターレスと何をしていた」
二人に険しい表情で詰め寄られた。どうして彼といたことを知っているのかと思ったが、セフィーはそれでもとりあえず頷いた。黙っていることも問い返すこともセフィーには叶わないのだ。
「ハ……ハヴァース殿下に、お会い、しました」
二人が大きく目を見開いた。セフィーは言ってはいけなかったのだろうかと冷や汗をかいた。
ライルが低い声で言う。
「あの男を殿下と言うと捕まる。まずはそこから改めろ」
素直に従った方が良さそうだ。セフィーは「はい」と頷いた。
シャムシャが口を開いた。「兄上は」と、何かを言いかけた。
その表情を見た時、セフィーは胸が締めつけられるのを感じた。悲しくて寂しくて苦しくて悔しくて――見ている方まで胸が痛んでしまうその顔は、太陽である彼女にはふさわしくない。
ライルが「お前は黙っていろ」と言った。ふだんならすぐ反発するシャムシャが、今ばかりは口を閉ざしてうつむいた。
「いいかセフィー」
そう言うライルの声には怒りが滲んでいる。
「何を言われたのかは知らないがあいつは詐欺の天才だ。信用するなよ」
「お前は知らないからな」とライルは言う。「教えたくもなかったんだが」と付け足して髪を掻き毟る。
「ライル」
シャムシャが呼んだ。ライルがシャムシャの方を向いた。
次の時、ライルはシャムシャを一喝した。
「そんな顔はするな! 思い出せ、あの男があの時お前にどんな顔でどんなことを言いどんなことをしたのか!」
「胸糞悪い」と吐き捨て、ライルが扉の方へ向かって歩き出した。セフィーは慌てて「どちらへ」と訊ねたが、彼は「ルムアとナジュムに報告してくる」とだけ言ってさっさと出ていってしまった。
「……何を報告なさるおつもりなんだろ……セフィーはまだハヴァース様にお会いしたとしか言ってないのに……」
そう呟いたセフィーの一歩後ろで、シャムシャが吹き出した。「馬鹿だなライルは」と言う声がどこか優しい。
セフィーはおそるおそるながらも振り向いた。「ライル様はあんな風でしたけど」と言ってシャムシャの気をなだめようとした。だが、彼女はただ苦笑しているだけだった。セフィーがその先を言う前に「知っている」と応えた。
「ライルとの付き合いは長い。喧嘩した回数はこの宮殿の壁に使われている蒼い
口では冗談めいたことを言っていても、顔はとても悲しそうに見えた。ふだんはとても強い彼女が、だ。見ていてつらい。
ハヴァースは彼女も本意ではなかったと言っていた。
「ハヴァース様、は……、陛下と、仲直りをしたいみたいでした」
シャムシャが肩を震わせた。大きく目を見開いた。
「お話……、できません、か?」
「言うな」
両手で顔を覆って、「できない」と呟くように言う。
「私は兄上からすべてを奪った」
「そんなこと……、ハヴァース様ご自身が陛下のこと心配だっておっしゃってましたよ」
「お前は知らないんだ」
そう言ったあと、彼女は自らの顔を覆っていた手を離した。視線はセフィーから外したままだ。
セフィーには分からなかった。ハヴァースも望んでいるのに、そして、太陽であるシャムシャにはこの世でできるすべてのことができるはずだというのに、
「なぜ、そんなお顔をなさるのです?」
振り向いた彼女は、今にも泣き出しそうだった。
「お前は何にも分かってない!」
突然怒鳴られ、セフィーは縮み上がった。とっさに「ごめんなさい」と言った。
シャムシャは次には逆に「悪かった」と呟いた。
「私も、そうできるなら、そうしたいんだけどな」
そこでようやく何となく分かった。
シャムシャは怖いのだ。ハヴァースと話すことを恐れているのだ。
それは、セフィーにはよくあることだった。
彼女は話をしたらハヴァースに嫌われていると思っているのだ。
「大丈夫です」
少しでも安心してほしくて、微笑んだ。太陽は輝いていた方がいいに決まっているのだ。
「セフィーも、陛下が、心配なだけ、ですから。陛下が、そんな、悲しそうなの……、セフィーも悲しくなっちゃうだけ、ですから。セフィーは大丈夫ですよ」
「ばか」
腕が伸びた。強い力で抱き寄せられた。セフィーは驚きのあまり思わず「わっ」と叫んでしまったが、彼女はセフィーの肩に顔を埋めてしまった。
「神である『蒼き太陽』には、本当は、心配したりとか、しないものだぞ」
でも、セフィーには、分かるのだ。こうして触れ合っていれば伝わってくる。彼女自身は心配されることを嫌がってはいない。
「大丈夫です」
そっと、彼女の背中を撫でた。いつかヤミーナとヤサーラがしてもらったように優しく、彼女を包み込んだ。
「セフィーならばちが当たっても問題ないです」
「本当にばかだな」
シャムシャの腕に込められる力が強くなった。セフィーはそれを黙って受け入れた。
「どう見る? セータ」
兄に問われて、セターレスは「頭の弱そうなガキだ」と答えた。
いつもならここで言葉遣いを訂正されるところだが、ハヴァースからの返事はなかなかこない。腕を組み、首を傾げて、何やら考え込んでいる。
「ろくに使えそうにない。まあ、もともと娼婦なんてそんなものだと思うが。ナジュムのやつ、いったい何を企んで持ち込んだんだか」
しかし、ハヴァースは「お前は気づかなかったか」と呟くように言った。セターレスが「何にだ?」と問い返す。
「あの子、男の子なんじゃないだろうか」
セターレスは目を丸くして口をぽかんと開けた。ハヴァースが「気づかなかったんだね」と溜息をついた。
「あの顔でか?」
「骨格が男だったと思う」
「いったいどんな人生を送れば会って話しただけの相手の骨格が分かるようになるんだ?」
「声も女の子のように甲高いわけではなかったでしょう? あと歩き方だ。座り方はどうしつけられたのか初めは女の子のような座り方をしたけれど、男と女だと股関節の造りが違う、だんだん崩れてきていた」
ハヴァースの真剣な言葉に、セターレスが首を横に振る。
「仮にあれが男だったとして、それでいったい何の利益がある? 女装までさせて、俺に見つかったらどうなるか分かっていないとも思えない」
「男だったらシャムシャを妊娠させることができる」
セターレスが絶句した。
「その上お前も気がつかないくらいだ、そのまま王妃様になられたところで民衆が気づくとは思えない」
ハヴァースが「まずい」と呟いた。その表情はひどく険しい。
「引き離した方がいい。もしも子作りでも始められようものなら僕らの計画がすべて水の泡になる」
「どうする」とセターレスも真剣な表情で尋ねた。
「始末するか?」
「いや、早まるな。これ以上安易に死体を増やさない方がいい、処理に困る。そういう行動はできるだけ控えめに」
「どうしたらいい?」
「とりあえずあの子の身辺を調べ直してほしい。本当に男娼ではなく娼婦だったのか? あるなら出生記録を、それなら生まれた子の性別を記載する。あと、あの子の身辺を洗おうとした際にまたフォルザーニー家が妨害してくるようだったらこの際ナジュムを葬ってしまえ」
セターレスが改まった表情で「御意」と答えた。
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