8:夢の続きを 6
ライルに「走るな動くな部屋から出るな」と怒鳴られた。シャムシャは「うるさい」と怒鳴り返した。
「私はっ、お前の子を孕んだのではないんだからなーっ!?」
「当たり前だ!!」
叫んだあと、ライルが「腹痛い」と言ってうずくまった。シャムシャがまた「バカ!」と怒鳴った。
見回りであろうか中庭を歩いていた白軍兵士が「どうかなさったんですか」と訊ねてきた。のんびり後をついてきたナジュムが「陛下のいつものご乱心なので気にせず仕事に戻りたまえ」と答えた。
腹の傷の辺りを押さえつつ、ライルがゆっくり立ち上がる。
「どうしてじっとしていられないんだ? つわりがあるんじゃなかったのか」
「正体が分かったら消え去った!」
「お前都合がよすぎるぞ」
「だって、」
国じゅうに、世界じゅうに向けて叫びたかった。
自分の中に、今、新しい命がある。次の春にはそれが出てくる。
世界じゅうにそれを祝わせてやりたかった。
そんなことはもちろんできないことぐらいシャムシャにも分かっている。
だがせめて、
「一刻も早くセフィーに伝えたい」
返事などしてくれないだろう。聞いてさえくれないかもしれない。きっと目も開けないはずだ。もしかしたらせっかく要求したのになかなか殺してもらえないことで自分に失望しているかもしれなかった。
それでもいい。ただ、言わせてほしい。黙って勝手に産むではなく、セフィーに知ってほしかったのだと思わせてほしい。
自分はセフィーの子供を産むのだ。
ライルがようやく「そうか」と頷いた。
「分かった……行ってこい」
「おう行ってくる」
「こら待て走るな」
「だーっ、お前本当にうるさ――」
いきなり肩をつかまれた。強い力で抱き寄せられた。
「セフィーがどんな反応をしても――しなくても。気にするな、よ?」
温かくて、優しくて、それだけで、涙が出そうになる。
「俺が、父親役くらい、つとめてやる。だから、心配は、するな」
「ありがとう」
この人がいてくれて、よかった。
「……ありがとう……」
自分は、ひとりではない。
ライルが離れたので、シャムシャは「行ってくる」と笑みを見せてからゆっくり歩き出した。ライルはそれを黙って見送ってくれた。
戸を開けた。
部屋の右手、窓の近くに置かれた寝台の上で、セフィーが横たわったまま目を開けて窓の外を見ていた。
「セフィー」
緊張で汗ばむ手を蒼い着物の腰辺りで拭って、深呼吸をした。それから、走り出しそうになる足をむりやりゆっくり動かして、寝台の縁に腰を下ろした。
セフィーは、窓の外を眺めたまま、何の反応も示さなかった。
それでもいい。
セフィーの手首をつかんだ。
温かかった。
「あのな、セフィー」
生きているということだ。
「よかったら、聞いてくれ」
それが、本当に、嬉しい。
「お前にな、伝えたいことがあるんだ」
幸せだと、思う。
「子供ができたんだ。お前の子が、次の春に生まれるんだ。な、セフィー、お前の子を私に産ませてくれ」
次の時だった。
セフィーがこちらを向いた。
セフィーが、シャムシャの方を、向いたのだ。
セフィーがシャムシャを見た。
「……セフィー?」
「……え?」
セフィーが反応を示した。
心臓が破裂しそうになった。
大きな声で名前を呼びながら抱き締めたくなった。
だがこらえる。セフィーを驚かせてはいけない。
平静を装い、静かに抑えた声で繰り返した。
「子供が……、腹に、入ったんだ。セフィーの子供なんだ」
セフィーが目を丸くした。
「シャムシャ、お母さんになるの?」
小さな、かすれた声だった。だいぶ長い間まともに喋っていなかったからだろうか。それでも、聞き取れないわけではない。
会話ができる。
夢でも見られなかったことだ。
まだこらえる。セフィーを怖がらせたり焦らせたりするようなことは二度としないと誓った。
シャムシャはぎこちなく頷いた。自分の下腹部を撫でながら、「そう」と答えた。
「春になったら、赤ん坊が――」
「やだ」
シャムシャの弱々しい声がセフィーの力強い声に遮られた。
「やだ。嫌だ。やだ」
セフィーの口から、はっきりとした言葉が出た。
「嫌だ」
「セ……セフィー?」
シャムシャの手を振り払い、セフィーは上半身を起こした。
その表情が歪んでいた。
恐怖と嫌悪、不安と憎悪――ありとあらゆる負の感情が混じり合った顔をしている。ありとあらゆる、嫌いなものへ向ける感情だ。
シャムシャはセフィーのそんな表情など初めて見た。シャムシャは、セフィーにそんな感情があることさえ、今の今まで知らなかった。
「セフィー、どうし――」
「殺して」
鋭い言葉に胸を締めつけられる。
「化け物が出てくる。気持ちが悪い。産んじゃだめだ。そんなものこの世に出しちゃだめ。殺して」
セフィーは「殺してしまえ!」と叫んだ。今までのセフィーからは想像できなかった大きな声だった。
視界がぼやけたのを感じた。
自分はきっとどうかしているとシャムシャは思う。
「……セフィー……」
「殺せ! 化け物だ! 殺せ! 気持ちの悪い子はいらない! 殺せ!」
セフィーが今罵っているのは、大切な我が子のことだ。
それにもかかわらず、だ。
セフィーが大声で何かを訴えているというその事実が、こんなにも嬉しい。
シャムシャは安心した。
やっとセフィーのことが分かったような気がした。
涙を拭いつつ、「そうか」と頷いた。
「セフィーはずっと、セフィーのことをそう思っていたんだな」
セフィーの言葉が止まった。
「セフィーはずっと、セフィーを、いらない子だと、気持ちが悪くて殺された方がいい子なんだと思っていたんだな」
腕を伸ばした。
セフィーの痩せ衰えた体を強く抱き締めた。
セフィーの体は骨の硬さを感じられるほど痩せ細っていたが、それでもまだ、温かく感じられた。
「私にとってはそうじゃないんだ」
生きている人間の温かさだ。
「セフィーは、私にとっては、世界で一番大事だから」
生きている。
「私は、セフィーがこうして生きていてくれるだけで、涙が出るほど嬉しいんだ。だからもう、セフィーのことを、殺すとか死ぬとか、言わないでほしい」
突然泣き声が聞こえてきた。それが、シャムシャの耳には、産声のように聞こえた。
「生まれた時に戻ろう。これからまた十七年かけて人間に戻ろう。私が手伝うから。私が、セフィーがちゃんと生きていけるように、全力でセフィーのことを助けていくから」
「でもぼくはもういやなんだ。こわいんだ。生きていたらまたいやなことが始まるんだ、そういうことが始まるのがこわいんだ。ぼくにはまた何にもできない」
「大丈夫。私がセフィーを守る。絶対にセフィーを独りぼっちで放り出したりしない」
セフィーの手がシャムシャの背中に回った。その縋るような仕草がとてつもなく愛しい。
「できないなら、できないまんまでいい。今は何にもできなくてもいいんだ。生きていれば、もしかしたら、いつかは何かができるようになるかもしれない。だから、それまでは、何にも考えずにしたいことだけしていればいい。子供だって世話をしてほしいわけじゃないんだ、無理をしてまで父親になってほしくない、見たくもないなら会わせない」
「また真っ白なのが出てきたらどうするの。こんな子欲しくなかったのにって思うよ。いらない子だって思うし、その子もかなしい。死んだ方がいいのにって思う」
「そんなことは思わないし、思わせない。白かろうが黒かろうが、蒼かろうが紅かろうが、私にはまったく関係のない話だ」
「でも」
「なら、見ていなさい。私がこの子をどうするか、見ていればいい」
「だが」と、シャムシャは笑った。
「子供が生まれても、セフィーがいらなくなるということは、絶対にない、から。それだけは、覚えておいてくれ」
そこから先、セフィーの声は言葉にならなかった。
何気なく言ってしまったが、十七年は長いだろう。何せシャムシャもまだそんな歳月を生きたことはなかった。
けれど、大丈夫だ。
もう十七年経つ頃には、アルヤ王国はきっとセフィーにとって優しい国になっている。自分がアルヤ王国をセフィーに優しい国に作り変えている。その頃までには間に合わせる。
セフィーが傍にいてくれるのならできないことはない。
「愛している」
セフィーが「捨てないで」と言った。シャムシャはセフィーがそう注文してくれたことが嬉しくて「ありがとう」と答えた。
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