2:鳥籠の住人 2
宮殿内を忙しなく動き回る人々は宮殿を流れる人工の小川になど目もくれない。
けれど北の塔の最上階、北の奥の部屋の住人ただ一人だけは、その部屋唯一の窓の傍らに椅子を置き、どうにかここからでもその流れが見えないかと目を凝らしていた。それが淀みなく透き通ったまま流れていれば、この国は平和である、と彼には思えるのだ。
残念ながらここから見える北の庭ではその流れは見えない。だが、そこを白い制服を着た若い兵士が欠伸をしながら歩いているのはたまに見かける。この国は今日も平和だ。
「失礼致します」
扉の向こうから若い女性の声が聞こえてきた。彼は穏やかに「どうぞ」と答えた。
「お食事のお時間でございます」
入ってきたのはいつも昼食を運んでくる馴染みの女官だ。
彼は女官に「いつもありがとう」と言って笑みを見せた。まだ幼さの残る若い女官は「おそれ入ります」と言ってうつむいた。
「冷めぬうちに召し上がってくださいませ」
言ってから、彼女はふたたび顔を上げて彼の顔を見た。頬を染め、惚けた目で彼を見つめている。
彼女の言葉の端にはかすかに訛りが残っている。おそらく身分の低い地方貴族の娘だろう。自分は、田舎から出てきた彼女の目には、どんな風に映っているのだろうか。
背中まで流れる柔らかい茶色の髪は緩やかに一つに束ねられ、少し長くなった前髪も中央からやや横で軽く二つに分けられている。日当たりの良くない北の部屋から出られないため少々痩せてしまったが、穏やかな笑顔にはそんなことなど微塵も出さない。整った
瞳は蒼い色をしていた。神聖なアルヤ王家の血を引く者の証だ。
「そうしよう。せっかく君が持ってきてくれたのだからね」
彼がそう言って手を伸ばすと、彼女は目に涙を浮かべて頷いた。
「ありがとうございます、ハヴァース様」
「なんだかつらいな。僕は食事を取るだけで礼を言われなければならないのか」
女官が「だって」と今にもしゃくり上げそうな声で答える。
「ハヴァース様はご立派な、正当で正統なお世継ぎでしたのに、こんなところでこんな扱いだなんて」
彼――ハヴァースは笑って、「そんなことを言ってはいけないよ」と諭した。
「君まで謀反の疑いをもたれてしまう。くにのご両親が心配なさるだろう」
「いいえ、いいえ」
女官が首を横に振る。
「わたくしはよいのです、しょせん貴族とは名ばかりの貧しい家の娘です。ですがハヴァース様はこんなにお優しい、まことの王子様であらせられる」
「よしなさい。人に聞かれたらどうするの」
「わたくしどもは心配しております。このような辱めを受けられ、ハヴァース様はご自分でそのお命を絶たれてしまうのではないかと」
「おや」
ハヴァースは驚いて目を丸くした。それから、「そんなことなど心配しなくても」と笑った。
「僕は自らの無実を証明するまでけして死なない。だから、泣かないで」
女官の白い布に包まれた頭を撫でた。女官は弾かれたように顔を上げ、頬を真っ赤に染めた。
「君ぐらいの年の女の子が泣いているとつらい。死んだ妹を思い出す」
女官は「申し訳ございません」と縮こまったが、彼はまた「それこそ謝らなくていいのに」と笑った。
扉を叩く音がした。そしてふたたび扉が開いた。女官が慌てた様子で振り向いた。ハヴァースも彼女から手を離して扉の方に目を向けた。
「なんだ、女を泣かせていたところだったのか。悪い奴だな」
入ってきたのは長身の青年だ。日に焼けた肌にたくましい肩や背中をしているが、アルヤ人らしいはっきりとした目鼻立ちはハヴァースとよく似ている。短く切られた髪は褐色だ。黒地に蒼い縁取りをした上等な衣装を着ており、宰相の証である経典の一節を縫い取った聖布を左肩から右腰へたすき掛けにしている。
雰囲気はまるで異なるが、彼もまた、ハヴァースと同じ蒼い瞳の持ち主だ。
ハヴァースが微笑んだ。
「やぁ、お帰りなさい、セターレス」
彼――セターレスは、兄の姿を見留めて笑った。
「俺が出掛けている間に減量に成功したのか? 兄貴が自分の体重を気にしていたというのは初耳だが」
「まさか。でも君の言うとおり食っちゃ寝の生活で腹回りが気になるところだよ」
「この鳩小屋のような部屋でも簡単な運動はできるだろう。たるんだ腹だと女にもてないぞ」
「大丈夫、僕は君と違って紳士だからね。最近の女性は真摯で温和で知的な男を好むものだ」
「何を言う。俺だって」
女官の小さな笑い声が聞こえてきたので、セターレスは咳払いをした。女官が縮こまった。
「ご苦労。今日はもうさがれ」
セターレスに言われて、女官が素直に「はい」と頷き、そそくさと出ていく。それを、ハヴァースが「またね」と言って見送る。
「さて」
扉が完全にしまったのを確認してから、セターレスは腰の革帯に取り付けていた鍵束を取り、内側から鍵をかけた。
それを見ていると、ハヴァースは、意味がない、と思う。公的には、この部屋の鍵は、行政の頂点のセターレス、司法の頂点エスファーニー卿、立法の頂点フォルザーニー卿の三人の許可が揃わないと扱えないことになっている。鍵自体も白将軍ラシードの管轄下にふだん女官たちが使う一つと予備の一つの合計二つしかないことになっているはずだ。だが、セターレスどころか、住人のハヴァースまでこの部屋の合鍵を持っている。ハヴァースは王を守りたいなら王からをも守るつもりでいるようラシードをきつく叱りなさいとセターレスを諭した。政治犯に牢の合鍵が渡ってしまうとはなんと不用心な宮殿だろう。
「ラクータ帝国はどうだった?」
「まあ、良かったな。さすがラクータ、おおらかと言うか、何と言うか。王には心身に重大な欠陥があり政治は全部俺がやっていると言ったら、俺にラクシュミーと結婚しないかと言ってきた」
「へぇ。よかったじゃないか」
「即決するのは姫やうちの王にも失礼なのでいったん国に戻って王と話し合ってから年内にもお返事を差し上げる、と言って帰ってきたんだが」
ハヴァースの蒼い瞳が、笑った。
「で、僕に相談しに来たのか」
先ほどの女官に向けていたものとはまるで異なる笑みだった。
「俺にとっての王はハヴァース第一王子ただ一人だ」
「よくできました」
セターレスが抱えていた紙の束を昼食一揃いの隣に置いた。紙束の一番上には、赤い塗料で「アルヤの唯一にして至上の神に捧ぐ」と書かれていた。国家機密の証だ。
「お暇でしょうから、読書でもいかがでしょう」
わざとらしいセターレスの言葉に、ハヴァースが「どうもありがとうございます」と答える。
「あと、これは独り言だけどね。西部の例の
セターレスが「やれやれ」と肩をすくめる。
「うちの兄上殿はとうとう独り言を言うほど気が違ってしまったようだ。しかしそれにしてもずいぶんと政治的な独り言をいうものだ。よっぽど玉座が恋しいと見える」
「誰かさんが分厚くて難しい本を読ませるのでね」
「上等だろう」
セターレスはそこで「さて」と言い踵を返した。ハヴァースが「もう仕事に戻るのかい」と訊ねると、「誰かさんが王にならなかったせいで寝る間もない」と切り返す。
「それは悪かったね。僕も今頃は王様になっているつもりだったんだけどな、世の中にはおかしなこともあるものだねえ」
「まあ、父上様がお亡くなりになるまでだ。小うるさい先王様さえお消えなされば」
「怖いことを申し上げる宰相だ」
戸の鍵を開けつつ、セターレスが「あ、そうだ」と振り返った。さっそく機密書類の一部を取り上げめくり始めていたハヴァースが、「どうかしたかい」と顔を上げる。
「この部屋に出入りする女官は気に入ったのならどれでも手をつけていいぞ。いくら兄貴でもこんなところに閉じ込められていたら溜まるだろう」
「反逆者に加えて強姦魔になったらいくら僕でも落ち込むよ」
「うちの兄上殿に本当にそんな繊細な心があったかどうかは知らんが、ここに出入りする女官たちは俺が自分で選んだから大丈夫だ。皆貧しい地方貴族の二人目三人目の娘で、身売りされかけていたようなものを買い取ったので、いざとなったら簡単に始末できる。他の女官たちとも完全に別の部署に入れたし、何より全員ハヴァース王太子殿下信者だ。抱いてやったら喜ぶかもしれない」
「よく考えたね」と感心した声でハヴァースが言った。けれどセターレスは「あくまでその場しのぎだ」と冷淡に答えた。
「少し考えたんだが」
セターレスの顔から、表情が、消える。その目は、真剣そのものだ。
「シャムシャをここに呼ぶか? あいつに子供を産ませれば、確実に次の王の父親に――今の父上と同じ立場に、立てる」
ハヴァースも、一瞬、表情を消した。
だが、次の時、彼はまた、にこりと笑った。
その笑みは国中の乙女たちが喜ぶような甘く優しいものだったが、
「どうしてこの僕が僕から王位を簒奪した女と寝ないといけないんだい?」
セターレスは「上等」と言って手を振って部屋を出た。ハヴァースはそれを笑顔で見送った。
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