4:あなたがやけに眩しくて 3

 セフィーは相当な量出血したので当分は様子を見なければならないと言われた。医者は「じっとしていればそのうち元に戻りまする」と言ったし、ルムアも隣で胸を撫で下ろしていたが、シャムシャはまったく気を抜けなかった。人間は血が足りなくなっても死ぬ。

 傷口を四十針も縫った、という情報もシャムシャに追い討ちをかけた。つまりセフィーの白く滑らかな肌にそれだけの醜い傷跡が残るということだ。

 打ちのめされた。再起不能になれそうだ。

 医者と入れ違いにして部屋の中へ入った。

 セフィーの部屋には寝台と机と椅子しかなかった。もともとは使われていない部屋だった上にセフィーが来てからまだそう経っていないので仕方がない。だがシャムシャは寂しく感じた。

 寝台ではセフィーがうつ伏せに寝かされていた。腰に届くほど長いまっすぐの髪が左右二つに分けられていて、寝間着の襟のない首回りから白い包帯が見えていた。寝間着と掛け布団に隠れた部分にも巻かれていることを想像する。

 長く白い睫毛に守られたまぶたが固く閉ざされている。白い頬には色がなく、セフィーの場合はいつものことだと分かっていても胸がざわついた。

 ライルが寝台の脇に椅子を置いて座っていた。彼は黙ってセフィーを眺めていた。

 ライルの手元を見て、シャムシャは眉間に皺を寄せた。

 掛け布団からはみ出たセフィーの左手が、ライルの左手をしっかり握っていた。

 ライルは、左手でセフィーの左手を握ったまま、右手でセフィーの白い髪を撫でている。

 離れる気配がない。

 この、気持ち悪さは、何だろう。腹の中が落ち着かない。怒鳴り散らしたくなる。割って入って引き裂いてしまいたくなる。

「おい」

 たまらなくなって乱暴に声を掛けた。ライルがようやく顔を上げた。ふだんは野生の獣ほどに気配に敏感な彼が今ばかりはなぜかシャムシャに気づいていなかったらしい。

 セフィーとライルの間には、自分の知らない二人の世界がある。

 腹が立つ。

「ずっとついていたのか?」

 苛立ちを隠さぬシャムシャに、ライルは少し戸惑った様子ながらも「ああ」と頷いて見せた。

「一度着替えに立ったが、結局呼び戻されてな」

「呼び戻された?」

「セフィーが怖がって暴れてどうにもならないから、押さえつけに来てくれ、と」

 なぜそこで彼が呼ばれるのか分からなかった。

「この、スケベ」

 ライルが「はぁ?」と顔をしかめる。

「縫っている間は、場所が場所だから、裸だろう?」

「お前なぁ、そんなことを言っている場合ではなかったんだぞ? 嫌がって逃げようとするから、こう、前から抱いてだな。終わった時には、怖いから独りにしないでくれと泣き出して」

 そこで、自らの手を見る。

「離してもらえなくて困っている」

 それは、嘘だ。少なくとも、彼は困っていない。

 自分は何が嫌なのだろう。ライルがセフィーに優しいこと、だろうか。ライルが誰かと話すたびに妬いていた大昔を思い出す。あくまで大昔の話だ。

「セフィーはそんなに暴れたのか?」

「この重傷だからな、そこまで大暴れできたわけでもないんだが。じっとしていてくれないと縫えないだろう?」

 「こいつは医者を怖がる」とライルが言う。彼はシャムシャの知らないセフィーの情報を持っていると見える。

 ライルにセフィーを語られたくない。

「特殊な体だからな。本人は言わないが、過去に医者に興味本位であれこれされたのかもしれない。前にも医者だけはと泣いてごねたことがあってな……セフィーが何かを嫌がるということはほとんどないんだが」

「あっそう」

 ライルの眉間にはっきりと皺が刻まれた。

「何なんだ? お前のその態度。何が気に入らない?」

「うるさい。何だっていいだろう?」

「お前なぁ」

 シャムシャにつられてかライルの声も次第に荒々しくなる。

「セフィーはお前のせいで怪我をしたんだぞ? 今日ぐらいはしおらしくしていたらどうだ」

「お前こそ、お前があの時私たちの傍にいればこんなことにはならなかったんだからな。それもこれも全部お前に配慮がないせいだ」

「なんだと!?」

「ん」

 二人揃って我に返ってセフィーの方を見た。

 セフィーの紅い瞳が、二人を交互に見ていた。

「どうか……なさい、ました……?」

 小さな弱々しい声に胸を締めつけられる。

 こんな風にセフィーを苦しめたり困らせたりするつもりではなかった。

 いつも安らかでいてほしい、いつも笑っていてほしい――そう思っているのに、自分はセフィーに怖い思いをさせてばかりでちっとも守ってやれない。ゆっくり休ませてやることさえできない。

「何でもない。大きな声を出して悪かった、ゆっくり寝ろ」

 ライルがそう言ってセフィーの頭を撫でると、セフィーがまたまぶたを下ろした。よほど疲れているようだ。

 当たり前だ。

 シャムシャは部屋を出た。この場にいたくなかった。



 扉を叩く音が聞こえてきた。何もする気になれず適当に本のページをめくっていたシャムシャは、扉の方を見ることなく「入れ」と応じた。

「やぁ我が君、ご機嫌よう」

 ナジュムの声だ。

 最初はこんな気分で彼の相手をするのは面倒だと思った。すぐに思い直した。彼なら八つ当たりをしても重く受け止めず流してくれるだろう。それに彼はセフィーが斬られてから今に至るまでシャムシャに一度も顔を見せていなかった。まさか何もしていなかったわけではないだろうが、それでも充分咎められるに値する。ここぞと言わんばかりに責めるべきだ。

 顔を上げ、ナジュムの顔を見た。

 シャムシャは蒼ざめた。

「何だそれ」

 ナジュムの顔に包帯が巻かれていた。

 どうやら右頬に傷を負ったらしい。右頬に白い綿布をあてており、その上、目の下から鼻までをぐるりと包帯で覆っている。綿布の端からは腫れがはみ出ていた。

 顔だけではなかった。左腕を三角巾で吊るしていた。二の腕を怪我したらしい。袖のない服を着て、上から上着を羽織っているのだが、腕に巻かれた包帯の痛々しさはまったく隠れていない。

「ラシードからの始末書ですが」

 ナジュムは何を勘違いしたのか右手に持っていた紙束を差し出した。そんなナジュムの表情はいつもの根拠が分からない笑顔ではなかった。長い睫毛が白い包帯に影を落としている。いつもはくるくると表情を変える琥珀色の瞳が冷たい。

 シャムシャは彼を初めて美しいと思った。彫刻や人形、生も性も何もない、ある種の造られた存在のように見える。彼は本来自分たちよりセフィーに近い生き物なのだ。あのフォルザーニー卿が金をかけて大事に育てただけはある。

 だが、そんなのはシャムシャが気に入って手元に置こうとしたナジュムではない。

「ナジュムっ」

 慌てて駆け寄る。ナジュムの右腕をつかんで紙の束を取り上げる。今の彼には、たとえ紙であっても、物を持たせることそれ自体が苦行を強いている気にさせるのだ。

「もういい、しばらく休め」

 ナジュムが「はあ」とどこかぼんやりした声で答える。

「あー……傷の状況でしたら、見た目ほどではありませんよ」

 だが、いつものナジュムだったら、こんな歯切れの悪い言葉は口にしないのだ。ナジュムなら聞いてもいない武勇伝を語り出す方が自然だ。今本格的に不調なのだ。

「と言っても僕は僕の美しい顔に傷がついてとても深く傷ついているのでとりあえず心配はなさってください」

「いや案外元気なのかもしれないな、ちょっと安心したぞ、それでこそ私たちのナジュムだ」

「僕を何だと思っておいでですか、ぷんぷん」

 「ただ」とナジュムが続ける。

「我が家はいったいどこに何人間者を放っているのか連絡を入れたわけでもないのに今朝方兄の腹心の部下がやって参りましてね。実家に連れ戻せ、さもなくば強制的に殴るなり何か盛るなりして拉致しろ、という命令を受けてきたそうで。僕自身貧血なのかなかなか起き上がれなかったので、こうして寝ているくらいならばおとなしく連れ戻されようかと思い、しばしの暇乞いに伺った次第ですよ」

 シャムシャは溜息をつき、「構わないから帰れ」と告げた。

「早く実家に帰り兄弟に顔を見せてゆっくり休むこと。国王命令だ」

 ナジュムが「御意に」と苦笑する。彼の場合はそんな真面目そうに振る舞われた方が心配だ。

「ライルとラシードは知っているか?」

「はい、その兄の部下を僕の部屋に案内したのはライルですし、ラシードには、さっき会ったら、ついでにそれを陛下にお渡しするように、と」

「そうか、ならいい」

「一週間やそこらで戻ってくるつもりですので、ナジュムが恋しくなってもけしてお泣きにならぬよう」

「ばか、とっとと行け」

 ナジュムが踵を返して扉を開けた。その足元がふらついている。痛々しい。むしろ迎えをこの部屋まで呼んだ方がいいのではないか――そう思ったところで、ナジュムがまた振り返った。

「あ」

「どうした?」

「実家に帰る前に一つ陛下にお聞きしたいことが」

「何だ?」

「この前の贈り物はお気に召しまして?」

「贈り物?」

 ナジュムが邪悪な笑みを浮かべる。それでこそナジュムだ。

「セフィーですよ。一応フォルザーニー家名義の貢物ですので、兄に様子を報告しないと」

 シャムシャは「ああ」と苦笑した。

「不本意ながらな。とても良いだ」

 だが、今はひどい傷を負って寝台に沈んでいる。

「怪我をさせてしまった。あんな傷……、嫁に行くのに障ったら私のせいだ」

 ナジュムが「あれ」と呟く。

「嫁にやるのは可哀想ではないかと。まあ、彼を嫁に欲しいと言う物好きはたくさんおりますけれども」

「……は?」

「傷物にしたことで責任をお感じになるならばこのまま引き取って一生宮殿でお傍に侍らせていただければフォルザーニー家の者としてはとてもとても嬉しいのですがねっ」

 全身に鳥肌が立った。

 絶句したシャムシャを眺めつつ、逃げるように体を外へ出し、

「ふっふっふ、陛下、このナジュムがですよ、いくらセフィーが見目良いからと言ってそれだけの女を連れてくるかとお思いですか?」

「…………なに」

 次の瞬間ナジュムは部屋を出ていった。その逃げ足の速さはおそらくアルヤ王国随一だ。

「おい待て、ちょっと、こら、貴様どういう意味だっ!!」


 シャムシャはセフィーの部屋へ走った。

 勘違いだと思いたかった。だがよくよく思い返すとセフィーが自分から女であると言ったことは一度もない。

 起きているのなら本人に冗談だと言ってほしかったし、寝ているのならそれこそ自分の好きにさせてもらって無理にでも確認してやる。

 部屋の前に立った時声が聞こえてきた。ルムアの甲高い声だ。セフィーと喋っているらしい。それなら確認は要らないだろう。

「セフィーっ!!」

 扉を文字通り蹴破った。扉は半ば吹っ飛ぶようにして開いた。もしかしたら金具が外れたかもしれないし、板自体が割れたかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

 部屋の中には三人いた。一人は床に座らされているセフィーで、二人目は、そのセフィーの白く長い髪の裾をはさみで切り揃えているルムアだ。そして最後に、左手で適当に丸められた包帯を持ったまま右手で小瓶を箱に詰めているライルがいた。

 三人とも、シャムシャの突然の登場に硬くなった。

 しかしその三人以上にシャムシャの方が硬直していた。

 セフィーは服を着ていなかった。腰から下に下着を身につけているだけだ。おそらく今まで背中の傷をライルかルムアが消毒していたのだろう。

 下着が男物だ。

 背中ごと包帯に包まれてしまった胸に柔らかい膨らみはない。

 骨っぽい肩は自分とは明らかに異なる痩せた少年のそれだ。

 セフィーが「きゃあああっ!?」と叫びながら脇に放られていた白い寝間着を取り、自分の下着姿を隠そうとした。

 次の瞬間シャムシャの絶叫の方が宮殿内に大きく響き渡った。

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