7:ただそれだけの行為が難しい 2

「セフィー……っ」

 とうとうシャムシャも床に座り込んだ。

 けれど手だけはまだセフィーの手首をつかんだままだ。

 セフィーの手首からは脈が規則的に動いているのを感じる。呼吸もとても穏やかに続けている。

 だが、動かない。

 セフィーはまったく動こうとしない。体を横たえたまま身じろぎひとつしない。

「どうして……」

 一度だけ目を開けたことがあった。たった一度だけだが彼は確かにシャムシャを見た。しかしすぐにまぶたをおろした。何も言うことなく、表情すら変えることなく、ただ、まぶたをおろしたのだ。

 シャムシャはセフィーがなぜこんな風に振る舞うのかが分からない。自宅である宮殿に戻ってくることができ、妻である自分に会えたのだ、喜んでもいいのではないかと思っていた。なぜ笑わないのだろう。

 あるいは人を殺めたことに深い罪の意識があって悔いているのかとも思った。それなら嘆いてほしかった。泣き叫んで自分に当たってほしい。それでもシャムシャはセフィーのすべてを肯定するだろう。けれどセフィーはそれも選ばない。慰めさせてくれない。

 セフィーは何も言わない。

「起きろ!」

 苛立ちのあまり手を振り上げた。

「私を無視するなっ」

 後ろから「やめろ」と言われて手を止めた。振り向くとライルが壁に背を預けて立っていた。ルムアはライルの隣で膝を抱えて座っている。

「セフィーに手を上げてどうする」

「でも、」

「シャムシャさまこそ少し休憩なさってください」

「だけど、」

 ふたたび目を開けてくれるまで、ずっと名を呼び続けたかった。

 目を開けてほしかった。目を開けて、自分を見て、声を掛け、笑ってほしかった。勝手に出ていってごめんなさいと、もうどこにも行かないからと、これからはずっと傍にいると、言わせたかった。

 甘いことを言うつもりがないなら罵ってほしい。罵って、責めてなじってほしい。傷ついた分だけ傷つけてほしい。それくらいの激しい感情をぶつけられたい。

 無反応がこんなにもつらいことだとは思ってもみなかった。

「セフィー」

 ライルもルムアも、初めのうちはシャムシャとともにどうにかしてセフィーを動かそうとしていた。だが二人とも今はどこか虚ろな目で床を眺めていた。疲れてしまったらしい。

 二人が諦めてもシャムシャは諦めたくなかった。

「セフィー……」

 セフィーの手首を握ったまま、セフィーの横たわる布団に顔を埋め、「何がそんなに嫌なんだ」と呟く。それが分かったら力ずくででも取り除いてやりたかった。セフィーがもとに戻ってくれるなら何でもしたい。

「全部だろう」

 セフィーの代わりにライルが答えた。シャムシャがふたたび振り向く。

「お前、気づいたか?」

 シャムシャが「何にだ」と問う。ライルは「俺も最近気づいたんだが」と溜息をついた。

「少なくとも俺は、セフィーの口から嫌だという言葉を聞いたことがない」

 目を丸くしたシャムシャに反して、ルムアも「それはルムアもですね」と付け足す。

「ルムアの記憶する限りでは、セフィーが今までに何かを拒んだことはないです。あんなにぐずったお医者でさえ、怖いとは言っても嫌とまでは言ってないんですよ。シャムシャさまにはおありですか?」

 シャムシャは首を横に振った。なぜ今まで気づかなかったのだろう。二人の言うとおりだ。

 セフィーは一度も拒まなかった。

 愛していると言えと言っても、結婚してくれと言っても、王妃になれと言っても、体を重ねても、結婚式に出させても、セフィーは一度たりとも嫌だとは言わなかった。

 ただ――今になって気づく。セフィーは時々はいと答えて頷く前に間を空けていた。あの間はいったい何を意味していたのだろう。

「疲れてしまったのでしょう」

 ルムアが静かに言う。

「なんでもかんでも受け入れるのに限界が来て、何もかもが無理になってしまったのかもしれません」

 ライルは「寝かせておいてやれ」と言った。

「もう、いいだろう。本人がまた活動できると思えるまでそっとしておいてやれ。無理に起きろとか言ってやるな、さらに疲れるだろうが」

 不愉快だった。自分よりもライルやルムアの方がセフィーを理解していると思いたくなかった。

 セフィーに愛していると言えと強要したは自分だ。セフィーがライルやルムアより自分のことが好きとは限らないのだ。自分の前にいたセフィーがライルやルムアの前にいたセフィーより素直だったと断言することはできない。

「……セフィー……」

 何とか言ってほしかった。否定でも肯定でもいいから何か主張してほしかった。

 セフィーは答えなかった。

「どうして言わなかったんだ……?」

 また、ライルが「言える状況ではないと思ったからだろう」と答える。

「セフィーはいつも怯えていた」

「何に」

「すべてに」

 「ルムアは待ちましたのに」とルムアが呟いた。ライルも、「俺もセフィーがそうと言えれば庇ってやれたのにな」と自分の頭を掻いた。

「この世界は、セフィーにとっては、生きにくい世界なんだろう。だから、もう、このまま、眠ったままでいた方が、セフィーにとっては楽なのかもしれない。と、俺は思った」

 戸を叩く音がした。ルムアが立ち上がり、「はい」と答えて戸を開けた。そこにいたのはラシードだ。

「陛下……、あの」

 何かを言いかけたが、室内に漂う空気を感じ取ったのか黙った。シャムシャは「何だ」と半ば八つ当たりがてらきつく訊ねた。

「グレーファス・ハーディ・フォルザーニー氏が陛下にお目通り願っております」

「ナジュムの兄貴か? なぜ今」

 ライルが「行ってこい」と言った。

「セフィーは俺たちで見ているから。お前も少し気分を変えた方がいい」

 それがどうも厄介払いのように聞こえた。

 もう一度セフィーを見た。まぶたはかたく閉ざされている。

 自分がここにいてもどうにもならない。セフィーは自分に応える気がないのだ。

 シャムシャは頷いて部屋を出た。寝間着に上着を羽織ったままの姿だったが、どうにかしようとは思えなかった。セフィーのことで頭がいっぱいだった。

 自分がどんなに想ってもセフィーが想ってくれるわけではない。

 暗い廊下に足を踏み出しつつ、自分の中で何かが崩れていく音を聞く。

 自分はセフィーの何を見ていたのだろう。


 ラシードに扉を開けさせ、広間の中に入った。

 シャムシャを待っていたのは、ハーディと裁判大臣のエスファーニー卿の二人であった。

 二人は真剣な顔で何やら話し込んでいたが、シャムシャが入ってくるとすぐにひざまずいた。首を垂れる。

 シャムシャは、「二人とも面を上げろ」と言いつつ、ハーディを眺めた。

 最後に直接話をしたのはいつだっただろう。彼は美少年だった頃の美しさを損なわぬまま凛々しくなった。

「長らく参上できず申し訳ございませんでした」

「気にしていない」

 彼はフォルザーニー家の長男だ。彼の動向はフォルザーニー家の将来に直接影響する。フォルザーニー家の当主がシャムシャ派かセターレス派かで身を定めない限り表立って動くことはできまい。代わりに弟のナジュムがシャムシャの側に立って動き回っている。黙ってはいるが、シャムシャの敵ではない。シャムシャはそう理解していた。

 逆に、なぜ今この時に彼が現れるのか分からなかった。

 しばし考えてから、ライルがセフィーを保護したのはフォルザーニー家の者であると言っていたのを思い出した。

「今朝は助かった」

 椅子に座りつつ言った。

「そなたに礼を言うのを忘れていたな。謝礼については――」

「結構です」

 予想外の返答にシャムシャが目を丸くする。

「本日私が参りましたのはそのような用件ではございません」

 ハーディが立ち上がった。そのどこからくるのか分からない自信に満ち満ちたそのたたずまいはナジュムと重なる。

「陛下にご挨拶に参りました。本日よりフォルザーニー家当主は私グレーファス・ハーディ・フォルザーニーとなります。どうぞよろしくお願い致します」

 シャムシャは、つい、「何を突然」と呟いてしまった。

「大臣に何かあったのか」

「いたずらが過ぎるので隠居していただきました。詳細はいつかお時間のございます時に弟からお聞きください」

「だが卿は議会大臣もやっていただろう」

「両大臣の任命権はアルヤ王国国王にございます。どうぞ私を父の任期満了までの議会大臣代理にご指名ください」

 とんでもない話だった。国の最高議会の頂点を自分の一言で動かす――そう思うと目眩がした。

「エスファーニー卿……」

 裁判大臣の方に目を向けた。

「そんなことが可能なのか」

「可能にござる」

 断言された。迷うことなく言い切られた。

「貴方様はこの国の太陽にして頂点。貴方様の一言でこの国のすべてが決まるのだ。すべてを貴方様の御心のままに動かしなさってよろしい」

 「すべてがだ」と彼は念押しした。

「すべてを、貴方様の御心のままに」

 この国のすべてを、自分が、動かすことができる。

「私が、すべてを」

 嘘だ。自分にはセフィー一人動かすことができない。セフィーのために何一つできない自分に何もできるはずがない。

 しかし、

「そのとおり」

 ハーディも後押しするように言った。

「今日の今この瞬間より、フォルザーニー家のすべてが貴方様側に回ります」

 ここに、アルヤ王国の頂点が集っている。

「どうぞお使いくださいませ」

 自分にはアルヤ王国を変えることができるかもしれない。

 セフィーを変えることはできなくても、セフィーが生きているこのアルヤ王国を変えることはできるのだ。

 いくら考えたところでセフィーのすべてを理解できる日など来ない。何をしても自分本位だ。

 けれど、シャムシャは、セフィーと過ごしている間は幸せだった。それだけは真実だ。

 何とかしてセフィーに報いたい。

 できることをしよう。

 一方通行かもしれない。押しつけかもしれない。でもできることがあるならしよう。

 世界をセフィーにとって怖くないものに作り変えよう。

 セフィーが目覚めた時のために、

「――やりたいことがある」

 この世界からセフィーを苦しめるであろうすべてを排除してしまおう。

 それがシャムシャにとっての愛であり、償いだ。

 二人が揃って「何なりとお申し付けを」と答えた。

「私は、この国を変えたい。私になら、できるのだろう?」

「もちろんでございます」

「だが、邪魔がある」

 二人の目が、輝いた。

 セフィーのためになるならどんな犠牲も厭わない。

 まずは、セフィーの友人を貶めた連中をこの国から消す。

「宰相セターレスを解任し延期していたハヴァース元王太子の死刑を執行することは可能か」

 二人は即答した。

「陛下がお望みならば」

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