5:笑ってください 2
セフィーは字が読めない、ということをシャムシャが知ったのは、彼が宮殿に勤め始めてからしばらく経った頃のことだった。
シャムシャは現在セターレスによって北の塔に軟禁されている。暇潰しに本でも読もうかと思っても書庫への出入りが制限されている。そのため紙に読みたい本の題名を書き連ねてルムアやセフィーにこっそりと持ってくるよう言っていた。
彼は時々違う本を持ってきた。
おかしいと思って問い詰めたところ、彼は実は文盲であることを告白した。それでも正しい本を持ってこられたのは、シャムシャの字と本の背表紙の表題を見比べていたからだ。字の形で一致していると判断していたそうなのだ。
シャムシャはこの世に文字を読めない人間がいるとは思っていなかった。しかも、教育に限りがある女性ならまだしも、セフィーは一応男性だ。
だが、ナジュムが言うにはさほど珍しいことではないそうだ。色が白かろうが蒼かろうが関係なく、この国にはまだ文字教育に辿り着かない人間がいる。王でありながらアルヤ王国の民の置かれている現状をよく知らないことに気づいた。シャムシャは自らを深く恥じた。
ナジュムに、セフィーに読み書きを教えるよう言いつけた。ナジュムは快く応じてくれた。
だが、そのナジュムを実家に帰してしまった。
ここ数日、セフィーは今まで読み書きの勉強にあてていた時間を持て余していた。
そんなセフィーにシャムシャは自分の目の届くところでおとなしくしているよう言った。とにかくすぐに顔を見られるところにいてほしい。いつでも無事を確認できるよう近くにいてほしかった。
セフィーは案外言うことを聞かない。
「セフィーはどこに行った?」
シャムシャのそんな問い掛けに、茶を淹れていたルムアが何でもないような顔をして答えた。
「先ほどライルさまとお出掛けしましたよ」
「ライルと出かけただぁ?」
顔をしかめる。
「どこに、どうして! あの野郎いくら傷口自体は塞がったとはいえ――」
「いえ、すぐそこの北の庭に、です。セフィーから言い出したですよ。セフィーが自主的に何かをしたいと言うのは珍しいことですからね、ライルさまは大喜びなさっていたです。ラシード将軍までついていかれたので、危なくなったらラシード将軍がお止めになるのでは?」
「ラシードまで? 何をする気だあいつら」
ルムアが振り向いて微笑んだ。
「ご覧になられます? セフィーとライルさまが何をしてらっしゃるのか」
シャムシャは「当たり前だろうが」と答えた。
北の庭とは、北の搭のさらに北側にある庭のことだ。北の搭が殺人的に強いアルヤ高原の太陽の光を遮るため、昼間でも活動しやすい日陰になる空間である。
ここでは草花の代わりに白軍兵士が育てられる。シャムシャは小さい頃からここで教官に怒鳴られてしごかれる新米兵たちを見てきた。しばしば教練が終わった後にもここにとどまって悔し泣きをしている者にも出会った。シャムシャは出会うたびに彼らを慰めてやったものだ。今思えば、セターレスに反発してラシードに従い自分を守ってくれる白軍の幹部にはその時声を掛けてやった兵士が多い。
そんな北の庭に行くとなればその目的は散歩や談笑ではあるまい。
辿り着いたそこで展開されている光景を目にした時、シャムシャは言葉を失った。
セフィーが尻餅をついた。そしてそのまま地面に座り込んだ。セフィーの手に握られていた棒も地面に転がった。
今日のセフィーはふだんの白い女官服ではなかった。白い筒袴に同じく白い長袖の上衣を着て、緋色の帯に黒い長靴を履いている。男物、それも運動しやすい武官の略装だ。白い長髪も緋色の飾り紐で一つにまとめていた。
「ご……ごめんなさい……」
中身はいつものセフィーだ。彼は涙ぐんでうつむいた。
ライルとラシードがセフィーを見下ろして溜息をついている。ライルはいつもどおりの黒い服だ。ラシードは、将軍の証である銀白の長剣を背負って、一般の白軍兵士が教練時に着る白い服を着ている。
ライルは、右手に棒――こどもに剣術の基礎を教える時に使う模擬刀を持っていた。
「別に、謝ることではないが」
しかしそう言うライルの表情は不満げだ。想像以上に手ごたえがなかったに違いない。
ラシードが「まあまあ」とひとの良い笑顔で間に入る。地面に座ったままのセフィーの肩をつかむ。
「こういうのには向き不向きがあるよ。僕はほら、メフラザーディー家の長男として将軍になるよう小さい頃から訓練を受けてきたからさ。ライルももともとは北方の騎馬民族の王子様なんだ、物心がついた時からずっと戦士としての教育を受けてきているんだよ。だから、ね? 比べない、比べない」
「はい……」とセフィーがさらに肩を落とす。
ライルが溜息をつきながらセフィーの正面にしゃがんだ。それから、セフィーの両手を取った。セフィーが顔を上げ、ライルの顔をこわごわと見る。
「俺もラシードの言うとおりだと思う」
「そうですか……」
「そんなに心配しなくても、お前のことは――間違えた、シャムシャのことは俺が守、」
言葉の途中でシャムシャがライルの背中を踏みつけるように蹴った。ライルは前に倒れてセフィーに抱きつく格好となった。
「おい、貴様、汚い手でセフィーに触るんじゃない。孕んだらどうするんだ」
ルムアとラシードが「シャムシャさまったら……」「陛下におかれましてはご機嫌麗しゅう……」と涙ぐんだ。
「何をするっ」
「どこからつっこんだらいいのか分からなかったので、とりあえず、こう、何となくやりたいようにした」
「お前のそういう発想はどこから出てくるんだ、アルヤ人はチュルカ人を野蛮だ何だと言うが俺に言わせてもらえばアルヤの王族の直系の連中の方がずっと野蛮だぞ」
ライルを押し退け、今度はシャムシャがセフィーの前にしゃがみ込んだ。
セフィーの白い手を取る。セフィーが怯えた顔で「どうかなさいましたか?」と訊ねてくる。シャムシャは「こっちの台詞だ」と答えた。
「いったい何をしている? まさか剣の稽古か」
セフィーの眉尻が垂れ下がった。上目遣いになった。シャムシャは思わず「可愛いやつめ」と呟いてしまった。
「いけ、ません、か?」
「どうしてそういうことになったんだ。お前から言い出したと聞いたが」
「はい……」
紅い瞳が地面へ落ちる。
「あの時……、ぼくも、剣ができたら、な。って、思って」
「あの時? お前が斬られた時か?」
「はい。ぼく、何にも、できなく、て。剣が、できたら……陛下のこと、守れたのか、な。って」
腕を伸ばした。我慢できなかった。今すぐ彼を抱き締めなければと思った。
強く、強く、抱き寄せる。背中に触れたら痛むのではないかということに気づいたのはだいぶ後の話だ。
「ばか……っ」
自分が守られるべきお姫様であったのは、遠い昔の話だ、と、思っていた。
「相手は訓練を受けた白軍兵士だ、ちょっと剣ができるくらいの民間人が敵うわけがないんだぞ」
違う。言いたいのはそんなことではない。そんなことではないのに、どうして自分は素直に言えないのだろう。
シャムシャとは違ってセフィーは素直に言えるのだ。
「初めて、だった、から」
「何が」
「ぼくも……、役に、立てたら。って、思ったのが」
ただ、それだけの言葉が、
「陛下のために、ね? 何か、したくて――」
あまりにも、優しくて、
「何にも、できない、けど。でも、しないでいるよりは、いいかな、って」
嬉しい。
「セフィー」
だが、自分が守られるべきお姫様であったのは、確かに、遠い昔の話なのだ。
シャムシャは、セフィーを離すと、右手で彼の左頬を包んだ。
自分は、今は、お姫様ではない。王であり、太陽なのだ。
「何にもしなくていい」
自分が、守る側になったのだ。
「私がお前を守るから」
けれど、せめて、
「お前は、私の傍にいればいい」
この気持ちだけは彼に守ってほしい。
セフィーはしばらく呆けたような顔でシャムシャを眺めていた。だが、やがて、「はい」と言って微笑み、頷いた。
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