1:陽の当たらない場所 2
セフィーとセフィーの母親は、貧民窟の中でもとりわけひとけのないところに住んでいた。目立つ容姿のセフィーを守るためには人のいないところに行かなければならなかった、と母は言う。
動物の巣穴のように粗末で狭い家だ。土壁には大きなひびが入っている。だが、セフィーにとっては自分を守ってくれる場所だった。
出入り口に申し訳程度にかけている擦り切れた織物を持ち上げた。そして「ただいま」と告げた。
剥がれた壁はセフィーが何度も自分で塗り直してどうにか維持している。えぐれた床も織物を敷いてごまかしている。もちろん入ってすぐのこの一間しかない。家具もない。母が婚家から持ち出してきた衣類用の籐の箱と薄くて穴の開いた敷き布団があるだけだ。
布団の上に母が横たわっていた。彼女は上半身を起こすとセフィーを一瞥した。
「ああ、やっと帰ってきた。ずいぶん心配したのよ、ちゃんとまた帰ってくるのか……」
そう言う彼女の姿は、まだ三十代半ばにもかかわらず、老人のようにくたびれていた。
母の姿を見るたび胸が痛む。
若い頃は美しく嫁の貰い手も
それが今やこんなところで一人干からびている。
セフィーはしばしば自分で自分を責める。もしも自分の髪や瞳が普通の色をしていたら、彼女は今でも夫の店の奥で平穏な暮らしを営んでいたことだろう。自分が生まれなかったら――あるいは、自分を生まれなかったことにしていたら、まだ、救われていたかもしれない。
母は自分を始末しようとしなかった。だから、セフィーは母のために生きている。
「大丈夫だよ。そんなに心配しなくても、セフィーももう十七だよ」
斜め下を見ながら言った。母の目をまっすぐ見て言うことはできなかった。
セフィーは時々心配になる。彼女は、本当は、自分の嘘に気がついているのではないか。まともな仕事を見つけられるはずがない。そもそも外を歩けるようになるわけがない。彼女の子供は化け物だ。それは誰よりも彼女が一番知っている。
あえて騙されているのかもしれない。
彼女は現実を知りたくないのだろう。彼女はきっと、どんな形であってもいいから、自分の子供が一人歩きして自分を養ってくれることを期待している。口には出さないだけだ。
「そう……もう、十七になったのね」
しかし、今日、彼女はいつもより多く溜息をついた。
「もう、十七。よそだったら縁談の上がる年頃だわ……」
胸がえぐられるのを感じた。そんなことまで自分に望んでいるのかと思うと目眩がした。
彼女の望むことは、できる範囲で、ではあったが、何でもしてきたつもりだ。家事も覚えたし仕事も見つけた。人前にもできる限り出ないようにしている。だが、結婚は、無理だ。彼女も分かっているはずだ。彼女の子供は化け物なのである。
「母さん?」
彼女は、セフィーの顔を見ることもなく、目頭を押さえた。
「可哀想に……。お前が普通の子だったら、私も今頃孫の顔を見れただろうに……」
安心すると同時に少し寂しくも感じた。
寂しい――セフィーはそんな感情をよく覚える。
『寂しい』と『悲しい』だけは得意だ。反対に、ヤミーナとヤサーラがよく言う『悔しい』とか『腹立たしい』とかといった感情は感じたことがない。いったいどんな感じなのだろう。自分も長く生きていたらいつか『怒る』という行為をする日が来るのだろうか。
長く生きていたら――セフィーは苦笑する。
自分は早く死んだ方が母を楽にするはずだ。彼女をそんなに悲しませ続けることはない。ただ、自分が今死ねば彼女のために金を稼いでくる者がなくなる。今の自分には死ぬことは許されていない。
「夕飯、作るね」
セフィーはそう告げると土間の方へ向かった。母は「そうしてちょうだい」と言ってふたたび横になった。
静まり返った夜の街を一人歩く。
物心がついた頃にはすでに父がおらず、『旅する見世物小屋』の面々の他に友達もいないセフィーは、家庭というものの話を聞くことがない。したがって夫婦というものがいまいち想像できない。結婚とは、いったい、どんなものだろう。
いくら考えたところで、自分には関係のない話だ、ということも、分かってはいる。結婚をするためには、家と仕事と支度金、そして何よりまっとうで健康な身体が要る。自分にはどうにもできない話だ。
寂しい、とは、思う。十七歳というのは、世間一般では、母の言うとおり、そういう年頃だ。
人間になりきれないのに、一人前に人恋しさを覚える。
誰かに愛されてみたい。もちろん、そんなことなど夢のまた夢の話で、自分が望むなどおこがましいことなのも分かっている。だが、誰かと二人きりの世界に浸ってみたい。ひたすら大事にし、大事にされてみたい。
ふと、昼間の新聞のことを思い出した。国王シャムシアスが縁談を蹴った話だ。
かの方は、今、いったい何をお考えだろう。縁談をもちかけられることほど良い話もないのに、いったいなぜ、破棄なさったのだろう。
頭上を見上げた。真ん丸の月が白く輝いていた。
アッディーンはうまいことを言うものだ。青白く頼りない光の、夜にしか輝けない月――あの月に、自分はとてもよく似ている。
「セフィーダ」
突然声を掛けられた。視線を月から真正面へ戻した。
潰れた丸い鼻の小男が立っていた。
セフィーはこの男を見るたびに溜息をついていた。
こんなにもいやらしくて意地汚い男でも社会はこうして働くことを認めている。対して、博識で口がうまく頼もしいアッディーンは社会に拒まれている。身長がこの男の半分もないだけだというのに、社会はなぜアッディーンも認めないのだろう。
化け物だからだ。
「なんだよ、その目はよ」
丸い顔をひきつらせて、男はセフィーを睨みつけた。それから大股で歩み寄ってきた。
「化け物のくせに生意気なんだよ。誰のおかげで生きてると思ってやがんだ」
小声で「アヌーシュじゃない」と答えたら、「俺のご主人様だろうがこの白痴が」と罵られた。
男の太い手が伸びる。短い指先がセフィーのあごを捕らえる。
セフィーは、その手を、何となく、汚い、と思った。
だが、セフィーに抵抗は許されない。
この男の言うとおりだ。この男の主は上客だ。彼は今日もその主の命を受けて自分を迎えに来たに違いなかった。
昼間の世界から追い出され、読み書きもできないセフィーには、それなりのところに就職して稼ぐことはできない。セフィーに残されていた仕事は、唯一、真っ白なセフィーを面白がり、怖いもの見たさで声を掛けてくる男たちを相手にからだを売ることだけだ。
「お高くとまってんじゃねェぞこのガキ。ちょっと旦那様に気に入られたからって調子に乗りやがって」
そんなつもりはないのに、と思ったが、セフィーには反論も許されない。反論する気もない。反論したところでどうしようもない。
アヌーシュも言いたいだけなのだ。仕方がない、彼も疲れているに違いない。ぶつける相手が必要だ。自分より弱く劣っている存在に対してそういう振る舞いをすることも人間にとっては必要なことなのだろう。自分は人間ではないのでそういう行為は必要ない。
「……ふん」
アヌーシュが鼻を鳴らしながら手を離した。セフィーは何事もなく手が離れたことに胸を撫で下ろした。これから仕事をするというのに殴られて痣でもできたら大変だ。セフィーの白い肌は痣ができると目立つのだ。
「とんでもねェガキだ」
呟きながら歩き出し、「ついて来い、馬車を待たせてある」と告げる。案の定、彼の主がセフィーのからだを求めているらしい。セフィーは、すぐに客を見つけられたことに安堵して、深く息を吐いた。
「まったく、お前は本物の魔性だよ。道理で何人もの男をたぶらかせるわけだわ。月明かりでお前の紅い目が輝いてらァ。俺にまで取り憑いてくれるなよ」
そんなことをしているつもりはないのだが、やはり、セフィーは言わなかった。
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