第12話

 善郎がどんなに離れ傍の蔵に触れたがらないかは、もう厭というほど分かっていた。判っていたからこそ、藤乃は至極あっさりと善郎を蔵に連れ出すことが出来たのだ。

 秋も深まった頃、梓の稽古事の日を見計らい、藤乃は母屋を訪ねた。

 中庭から縁側を挟んで、旦那様、よろしいでしょうか、と。頭を下げながら声をかける。

 陽は傾いて、藤乃の長い影は座敷の中に延びる。文机の上にまで影が落ちて、善郎は眉間に皺を寄せたまま彼を見返った。

「何ぞ用か?」

「はい、お嬢様のことで、少し…」

 声を殺す藤乃に一瞬眉を動かし、すっくと立ち上がると縁側に歩み寄った。

 藤乃は縁側傍に膝をつくと頭を下げる。

「梓がどうした?」

 善郎は藤乃の声にすぐさま反応を見せた。

 彼は梓の気持ちにうすうす気付いていたのだ。子供の頃から親しくさせすぎたかも知れない。いくら藤貴の息子であったとしても、結局は金も地位も名誉もない、ただ自分に雇われているだけの男だ。釘を刺さねばならない、いつもそう思っていた。ただ、言い出すきっかけがなかっただけだ。

 もし何か――梓の将来に関わる何か――たとえば梓と約束を交わしたとか――ありえないとは思うが――そんなことになろうものなら、彼を追い出すことすら考えていた。

 だから、善郎は藤乃の、梓について告げる声には過剰に反応した。

 しかし、告げられた内容は彼の不安とするものではなかった。

 それは、別の不安を生む声だった。

「…はい、お嬢様に、離れの傍のお蔵のことで相談されましたので、旦那様にお伺いしなければと思いまして……」

「なんだと?」

 俯いたままの声に頭上から棘のある声を浴びせる。

「なんでも、中に人形やら調度品やらがあって、それが良い品だから、使ってみたいのだけれど、修理できないものか、と…」

「……それで?」

 微かに声の震えるのを藤乃は俯いたまま聞いていた。日は翳り、急に冷え込みが襲ってくる。それを気にせず、藤乃は続けた。

「あちらのお蔵の事は私には判りませんのでお答えのしようがなくて、旦那様にご相談をと思いまして。もうお嬢様は何か持ち出されたご様子でしたが……」

 それだけを耳にするとざっと身を翻し、善郎は部屋の中の何処かを開けた。庭に座る藤乃には、そこが何処であるかは判らなかったが、微かに聞こえる物音が彼の思惑通りに事が運んでいることを伝えていた。

 響くのは金気の音だ。彼は鍵を取り出したろう。そう思い浮かべた間も無く砌の方に降り立った善郎は、灯りも持たずに中庭を横切る。

「……旦那様?」

 慌てた様子を見せる善郎とは裏腹に、藤乃は静かに立ち上がると彼の背中を見送った。急がなくとも行き先はわかっていた。途中で台所の裏口に立ち寄り、灯りを求めた藤乃は、ゆっくりと離れに向かって歩を進めた。

 青闇の中に物の陰が一層濃く浮かぶ。闇が溶け出したように形を朧にしていく。

 もうすっかり日は落ちていた。

 虫の声が響く中を離れへ、そして蔵へと。

 開け放たれたままの蔵の扉を目にして、口元に淡い笑みを浮かべた。

 灯りを持ち、迷路のような中に足を進めると、奥のほうから、或いは上の方から物音が微かに響いた。

「……旦那様…?」

 階段の下からそうっと声をかける。

「来るなっ」

 激しい叱咤とともにガタガタと物音がした。

「…何かお探しですか、旦那様…?」

 鼻腔に不思議な香りを吸い込みながら、藤乃は薄く笑った。何故か、母の匂いの気がした。

 上で彼が何を探しているのか、藤乃には手をとるように判っていた。懐を撫で、灯りを足元に置くと、風呂敷包みを取り出し、それを愛しげに見つめる。

 目を瞑り、彼は階上の様子を思い浮かべた。

 善郎はあの箪笥を開け、引き出しを探り。あちらの引き出し、こちらの引き出し、すべてを開けて、中を引っぱり出して探ってみるだろう。でも、ほら、求めるものはない。だって、ねぇ?

 うちひしがれたように善郎はよろめき、床に崩れるだろう。狼狽し、力なくこちらに戻ってくるだろう。間もなくだ。

 みしみしと微かに響く足音に、心地良い音楽を聴いているような表情を浮かべた。

 藤乃は口元に零れる笑みを隠そうとはしなかった。目を開けるとゆっくりと包みを解きながら、もう一度階上に声をかける。

「…旦那様、一体何をお探しですか?」

 声の終わらぬ間に階上にゆっくりとした軋む音が聞こえ、影が二階の薄明かりから階段のほうに延びて、彼は面で顔を覆った。

「……ああ、旦那様、もしや、これをお探しですか?」

 面の内側で篭った声とともに、足元にあった灯りを手に取ると、すうっと上体を起こし、面の真下から照らし上げた。

 闇の中にぼうっと鬼が浮かび上がる。

 階下から、鬼が善郎を見上げて笑った。




 藤乃の夢の中で鬼が笑う。

 炎の中で鬼が笑う。

 いや、笑うのは自分だ。

 炎が熱くて喉が渇く。

 身のうちが熱くて喉が渇く。

 喉の渇きに目を醒まし、当てもなく彷徨い歩く。暗い部屋、障子の向こうの影。広い広い黒光りする廊下。闇の中。

 誰かの――いや、誰か、ではない。善郎だ。善郎の呻く声を聴くときだけ、ほんの少し渇きが癒える気がした。

 もっと、もっと泣いてくれ。もっと叫んでくれ。もっと。もっと。


 ……まだ…足りない…

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