第5話
暗い波間に浮かぶ白い光は数を増し、いつの間にか、黝い波が昼間のような青い色に変わっていた。
波音は低く微かに繰り返す。遠い彼方で繰り返されているように。青い波間を歩けば目の前を横切る魚。いや、鳥か。
空を仰げば水が揺れる。水溜りが反射して、天井に揺ら揺らと光を映す、丁度あんな感じだ。揺ら揺ら、揺ら揺ら。
零れ落ちるのは波か光か、区別がない。
そこを男の背に従い、二人で道行き。歩いていくと、何処から現れたのだろう。陽炎のように立ち昇り、女が一人、出迎えた。
初めは一人。それから、紅やら萌葱やら、藤やら二藍やら、色とりどりの着物を身に纏った女たちが出迎える。
双髷に結った髪には珊瑚か、紅梅色や桜色、珠と光る櫛飾り。揺れるたびに、波頭が砕けるしゃらしゃらとした音がする。
――よぉおいでなされました、橘さま
――遠いところを、ささ、こちらに
手、指先を衣で隠した女たちは、柔らかく揺れる袖口、帯や領布を揺らして此方にといざなう。
見上げれば、海は彼方の青天井。青白い光が揺ら揺らと零れ落ちる。
「…お招きに預かりましてございます」
橘、と呼ばれた着物姿の男が低い声で囁けば、水を含んで緩やかに通る。
涼やかな。いや、ここでは暖かく聞こえる。
亮太は揺れるような音に耳を傾けた。
――おお、これか、これが御前様お待ちの品か、人形師殿
緩やかな声の間に、はっと耳を打つ声がした。女たちの間に、黒い水干、裾に朱色の模様を織り込んだ黒い小袴姿の男がぬぅと現れ、亮太の手にある風呂敷包みに手を伸ばす。
この声だ。羽はないが、この声だ。
――これ、妻取殿、ご無礼な
女が一人、亮太の手から風呂敷包みを奪うその姿を諌めた。
――よいではないか、はよぉ御前様にお届けせねばなるまい。
お待ちかねじゃ、さぞかしお待ちかねじゃ
笑いながら風呂敷包みを取り上げた男は、風呂敷包みを戴いてするすると歩き出す。
亮太は二三歩追いかけて、その足を止めた。何処に融けたか、姿がない。大切なものを奪われて怯えた子供に似る仕草。泣きそうな顔で橘を振り返る亮太に、女たちは口元に袖をやって鈴の音で笑う。
――愛らしい。人形師殿の小童か?
手を伸ばし、髪を撫でる袖。衣が動くとふわりと香る。花の香りだ。海の底にもお花はあるの?
思わず問いかけた亮太に、桜色の唇が微笑んだ。
――ええ、ありますよ、ほら、
袖が示すその先に飾られる花、揺ら揺らと青い水の中で揺らぐ花びら。水の中から香る風。
綺麗で、静かだ。波音は煩くない。遠くで微かに響くそれは、眠りを誘うように穏やかだ。
――よいところでございましょう?、御身も此処に留まられるか?
女が此方を覗き込んで微笑んだ。
――そうしたいのなら、人形師殿から貰い受けよう
艶やかに微笑む女の顔に酔う。
柔らかい指先、目を瞑った亮太の耳に、高く響く音が届いた。
その音に、柔らかい指先は遠のく。目を開ければ、女たちは膝をつけ、深々と頭をたれている。
遠くから、次第に高くなる硬い音。
わけもわからず立っていると、女が亮太の服の裾を引き、両膝をつかせると、無言のまま優しく顔を伏せさせた。
響く足音は近くで止まる。いや止まる前に快活な声が。
――人形師殿、よぅ参られた。また、奥のわがままか?
その声に、立ったままでこそあるが、深々と頭を下げていた姿を盗み見る。
言葉を濁し、緩やかに首を振る姿に、あれも困ったものだな、と続け。
――この間は、折角お願いした人形をもういらぬと返したと聴くが
申し訳ないことをしたなと告げる声にやはり緩く首を振り、いいえ、と。
「いいえ、人形は、導かれてその方のお手元に。返された人形は、きっと他の方に呼ばれたのでございましょう」
そろりと頭を下げれば揺れる黒髪。
その声にまた笑った姿を亮太はちらりと見やり、息を呑んでぺたり、と床に座り込んだ。
黒い、大きな――蛇。いや、違う。厳しいたてがみは銀になびく。黒く見えるのは、彼の身体が大きくて、この天井にまで届くからだ。鋭い爪の伸びる脚。なんて大きな獣だ。なんて――
畏怖だ。恐怖を越した。怖くて、どうしようもなくて、床に座り込んで見上げる姿。此方に気付いて、ぐぅ、と首を、怖ろしい顔を向ける。
――…私が怖いか、童
快活な声だ。明るい声だ。だが、天から響く。地の底から響く。その声にただ頷いてぎゅうと目を瞑ると、彼は一層愉しげに笑い、亮太の髪を撫でた。
「まだ怖いか、童」
ふと目を開けた亮太の目の前に、もう黒い影はない。ただ、背の高い青年が立つ。
髪は銀。身に纏う服は青銀に黒い柄。甲冑にも見える滑らかな表面。天井からの光を浴びてきらきらと輝く。
とても綺麗だと亮太は思った。
とても美しいと思った途端、それまでの恐ろしさがすうっと消えた。波が引くように消えて、今はただ、綺麗だ、と。
小さく首を振った亮太に笑いかけ、青年は橘を振り返った。
「…人形師殿のつくる人形は、いづれもよい目をしておるな」
橘は、何もいわずに頭を下げた。
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