第6話

 御伽噺なら知っている。海の底にあるのは竜宮城だ。

 女が踊る。男が踊る。いや、踊るようにしなやかに動く腕、指先。揺れる袖口、色とりどりの舞う衣。

 歩きながら亮太は思った。これは、夢かもしれない、と。美しい夢だ。

 橘が並んで歩いていた。肩に手を置き、はぐれないようにして下さいましね、と。小さく囁いた声。弛んで響く声。

 青い廊下を歩きぬけ、大きな扉の前に立ち並ぶ。朱色に塗られた見上げるばかりの大きな扉だ。その扉の前で立ち止まり、橘が微かな声で、御開門、そう呟いた。

 音もなく扉は開かれていく。声に押し開かれたように、内側に向かって扉が開くと、奥に青白い、柔らかい光が零れている。

――ささ、此方に参られよ、人形師殿

 ひときわ艶やかに微笑む女が部屋の奥、椅子に座って団扇を緩やかに動かす。此方に、と。

 彼女の座る椅子の奥は色とりどりの布がはためく。波のようにゆらりゆらりと、緋の布、丹の布、茜、桜、紅梅、梔子、山吹、天井からか、その上からか、折り重なる深い部屋。

 彼女の前には珊瑚の色をした大きな丸テーブル。亮太は家のキッチンにあるダイニングテーブルよりもまだ大きい気がして、目を見張った。その上には菓子、果物、花が咲き、部屋を彩る。

 女が微笑みを浮かべて亮太の手を取った。

――こちらに

 横から進み出た女が亮太の手をとり、席の一つに腰掛けさせた。橘は女と向かい合う席に腰掛ける。

――今宵はまた、可愛らしい人形を連れておられるな、人形師殿

 鈴の音のような、涼やかな声が耳を打った。

――したが人形師殿、今宵は吾が手に入れた人形をお見せしようぞ。

  そちらの人形と並べれば、対の雛のようやもしれん

「御注文のお着物、間に合いましてござんしょうか?」

 橘の声に椅子に座る女の衣が動く。緩やかな音を立て、袖が動く。

――勿論じゃ、人形師殿の仕立てじゃ、あのこによぉ映えた

 袖が動いて、奥から盆を手にした少女が進み出た。

 部屋にかかる衣から生み出されたような、花の色。歩くたびに髪が揺れ、着物の裾が揺れ。亮太は自分の横を過ぎていく少女を見つめた。

 着物は歩きにくいか、ちょこちょこと歩み寄り、橘に向かって盆の上の茶を差し出す。

 唇にはほんのりと珊瑚色。

――いらせられませ

 舌足らずな口調で挨拶を。そうしてぺこりと頭をさげると尚愛らしい。

「よぉおできだ。ありがとうぞんじます」

 橘は微笑んで、茶を受け取ると一口含む。

 少女が橘を見上げて微笑むと、亮太は弾かれたように少女の腕を掴んだ。

「敦子、あつこっ」

 少女はゆっくりと振り返る。そして、にこりと笑うとゆっくりと頭を下げる。

――いらせられませ

 舌足らずな甘えた声。笑う顔は、見慣れたものだ。

「敦子、帰ろう、一緒に帰ろう」

 椅子から飛び降り、両腕をとる亮太を不思議そうに少女は見つめた。

――人形師殿、これはどうしたことじゃ…

「…ねぇ、御前様?」

 緩やかな低い声がそうっと響いた。

――なんじゃ、人形師殿。

  人の子など連れて此方に参られるとは、御身らしゅうもない

 非難がましい声をかわし、薄く微笑む。

「……海の方は、御恩返しに何を下さいましたろう…?」

――恩返し、とな

 訝しげな声で女が問う。

「あい。こちらの方が、この坊に助けられたとか、それでこの坊は、こちらに参ったのでございますよ。あたしが案内したわけじゃあござんせん」

 橘の声に部屋を見回す。

――誰か。人形師殿の申すは真か?

 凛と声を出せば進み出る影が二つ。恐縮したように両の膝をつき、頭を低く垂れている。

――高波に足を滑らせ、呑まれて流されましてございます

――このお方が、波を堰き止め、我等を救い出してくださりました

 女は柳眉を動かし、亮太を見やった。

――ならば、礼はせねばなるまい。何が所望ぞ?

「……御前…様…」

 小首を傾げた橘の横で、亮太は女に向かって声を上げた。

「…敦子は僕の妹です。おうちに帰してください」

 少女の横で、深く深く頭を下げる。

「…敦子がいなくなって、母さんは敦子のことばかり考えて…病気になってしまいました。…父さんも、毎日毎日、難しい顔をしていて。僕も……敦子が居なくなったときのことばっかり考える…」

 声と共に、亮太の瞳から涙が零れる。

「…敦子を家に…帰してください…」

 女はゆっくりと団扇で己が口許を覆うと、人形と自分の間に立ちはだかろうとする姿に目をやった。

 しなり、と身体は椅子の肘掛にもたれ。

――だけど、坊。お前様、妹御がお嫌いなのではないのかえ?

 女の声に亮太はびくりと身を震わせた。

――お前様を呼んで泣いていたのを

  ほうっておいたのは、お前様じゃないのかえ。

  …よぉ聞こえた。泣く声がの

 女はゆらりと袖を動かした。髪が揺れ、髪飾りがしゃらしゃらと音を立てる。しゃらしゃらと響く音は、砂が流れて鳴るようで、亮太は白い砂浜を思い出した。

 砂浜に波が寄せては返す。

 陽射しに時折光る貝殻。

 拾って、母さんに渡そうと思って、敦子に邪魔をされたくなくて…

 答えぬ姿を急かしもせず。ただ女は亮太の顔をみやる。

「…………そう…です…」

 やがて声が。

「……僕、です。僕は、……敦子が……、嫌い…でした」

 しばらく黙り込んで、ゆっくりと、掠れた声で亮太は呟いた。

「…敦子は僕を呼んでいたのに、…僕はわざと…ほうっておきました…」

 波の音が亮太の耳の中にこだまする。

 繰り返し、寄せては返す。

 繰り返し、にぃにぃ、と呼ぶ声がする。

 あの声に、あの声に駆け寄っていれば。

 あの声に返事をしていれば。

 犯した過ちは取り戻せないの?

 やり直す機会は訪れないの?

「……敦子は、僕の帽子をとった。母さんに買ってもらったのに。…敦子は僕の玩具も勝手に壊す……僕が、母さんに買ってもらったものなのに」

 ぽつぽつと話し始めた声は、やがて大きな流れと変わっていく。

「……敦子は、母さんにまとわりついて、母さんの邪魔をして…僕は、我慢して、母さんに遊んでもらえなくても、抱っこしてもらえなくても…僕は我慢してるのに、僕はいつも我慢してるのに、いつもいつも、僕ばっかり我慢して…敦子は、いつも母さんに抱っこしてもらって、いつも一緒に眠ってもらって、僕はいつもお兄ちゃんなんだから、って。僕は我慢してるのに…ちゃんと我慢してるのに…それなのに、敦子ばっかり…僕は母さんにあげようと思って、綺麗な貝をいっぱい拾いたくて、ただ母さんにあげたくて、綺麗でしょって、そしたら…母さんは…ちょっとは…なのに、敦子はそれも邪魔する。敦子は全部邪魔する。何でもかんでも僕の邪魔をして、なのに敦子は母さんに甘えてばっかりで……だからっ……僕は、だから僕は、敦子なんか、嫌いで、嫌いで、大嫌いで、居なくなっちゃえばいいって、いつも、いつも…思ってて――」

 堰をきった想いと言葉。

 後から後から流れ落ちる涙をぬぐいもせずに続ける亮太の姿、それを目に男は袖で涙を拭った。亮太の悲しみに女たちも涙を零し、すすり泣く。

 哀しかったのだ。悔しかったのだ。

 その中で、ひときわ美しい女だけが、薄く微笑んだ。

――ならば、よいではないか。

  坊やの望みどおり、妹御は戻らぬ。

  なんの不満があろう

 涼やかな声は一層涼やかに。涙に濡れ、声を枯らす亮太の胸に突き刺さる。

「……だけど、母さんは、毎日毎日、敦子のことばかり考えて、哀しんで、僕だって、毎日、敦子のことばかり思い出して、だから」

――だから、捨てた人形を取り戻すか?、勝手じゃの?

 違う、と。

 敦子が居なくなることを望んだ。でも、だからといって、本当に、本当に死んでしまうなんて思ってもいなかったのだ――違うのだ、本当は、そんなことを考えたんじゃない。本当は違う――取り返しのつかない過ちを生んだ、この想いが、この想いを抱いた自分を責める声なき声が――

 首を必死に振る亮太の姿を眺めやり、女はゆっくりと立ち上がると、少女の傍らにと歩みを進めた。

――これは吾の人形じゃ。誰にもやらぬ

 亮太の前に立つと、女は人形に微笑みかける。袖が舞い、ふわりと少女の肩を抱く。愛しげに頬を寄せれば、少女は嬉しそうに微笑んで、女の腕に抱かれる。亮太の腕から逃げ、女に抱きしめられ。

 自分の傍からするりと逃げた少女の姿を亮太は呆然と見つめた。

「…敦子、ごめんね、あっちゃん。ごめん、意地悪してごめん、もう意地悪しないから、あっちゃん、一緒に帰ろう。母さんのところに、一緒に帰ろう…?」

 女に抱き上げられ、此方を見下ろす瞳を見つめ返す。

「…歌も一緒に歌うから。また蝉をとってあげるから。敦子、ごめん、あっちゃん…っ」

 何度も夢で謝った。泣いて目覚めることが何度あったろう。

 毎日頭の中で、心の中で、何度も何度も謝って、謝って、こたえてくれない妹の前で、謝って。今目の前にいる敦子の前で謝っても、やはり少女はこたえてくれはしない。

 途方にくれて涙を流し続ける亮太の頬を、ひた、と撫でる指先があった。

――…お歌?

 小さい指が、亮太の頬を撫でる。亮太はそうだよ、と言いながら何度も頷いた。

 掠れた声で歌い始める。敦子の好きな歌だ。

 掠れていても、少年の、高い澄んだ声が部屋に響き渡る。衣を揺らし、細波立てる。

 たった細波がやがて少女の声と重なる。

 細く、高く、歌声が響く。

 金の漣、銀の漣、朝日に照り、夕日に煌き、漣は緩やかに。海の上を行く風か、鳥か、歌声が海に広がり、染み込んで。

 しばらく誰も口を開かず、歌声に聞き入っていた。

 歌声が消えても、しばらくは。

 女はゆっくりと少女を降ろした。

 少女は亮太の手を握る。にっこりと笑って歌を続ける。同じ歌を繰り返す。

「……敦子、ごめんよ…」

 少女は亮太を見つめてにっこり笑う。笑って小さく頷くと、小さな声で囁く。

「……敦子…」

――…連れて行くがよい

 柔らかく微笑んだ女の声を聴いてもしばらく亮太はぽかんとして、はっと気がついたように少女を抱きしめた。

 ありがとう、ありがとうございます、そう女に向かって繰り返す。

「…帰ろう、一緒に帰ろう、敦子。母さんが待ってる。父さんも待ってる。帰ろう…」

 少女を抱きしめる亮太の姿を見下ろし、女は踵を返した。その衣擦れの音を聞いたか、後姿を追って、少女はまた亮太の腕からするりと逃げる。

「敦子っ」

 声に振り返った女のもとにちょこちょこと駆け寄り、甘えるようにすがりつくと、女が少女を抱き上げる。

――にぃにぃ

 掌を向け、こちらに向かって振る。さようなら、と。笑ったまま、手を振る。

「敦子、敦子っ?」

 少女を抱き上げ、髪を撫でると、女は微笑んで少女の頬に珊瑚の唇を落とした。

――人形師殿、礼は別に考えよう。坊を連れて戻られよ…

「…あい」

 席に座したままだった橘がゆっくりと頭を下げると、静かに席から立ち上がった。

「敦子、敦子、どうして、敦子っ、母さんのところに、帰ろうよ、敦子っ」

 悲痛な声は少女には届かず、女の腕の中で目を閉じる。まるで今、母親に抱かれているように安らいだ表情を浮かべ。

「さ、お前様、戻りますよ」

「ねぇ、どうして、どうして?」

 橘の着物の裾にすがり、問いただす。

「なんで?、どうして敦子は一緒に帰らないの?、ねぇっ」

 少女を抱いたまま、衣の奥にと姿を消す女。追いかけようとした亮太の肩を掴んで、橘はゆっくりと首を振った。

「……帰ってもいいって言ったのに…なんで…?」

 取り返したのはつかの間。また消え去る温もり。

「……お前様、あの子はもう、海のものなのでございますよ。…あの子の母御前は、もう、お前様のおっかさんではないのですよ…」

 わからない、解らないと言いたげに首を振る。振って、振り続けて、何も聞こえなくなる。橘の声、敦子の声、波音、何もかも聞こえなくなって、亮太は冥い海に沈んだ。

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