第7話

 色を変えた陽射しが亮太の顔を照らして、睫が微かに震えた。

 夏の夕方は遅い。もう鳴きやんだのか、蝉の声が遠く、小さい。それに、少し涼しい。

 緩い風が甘い香りを運び、頬に触れる。何の香りだろう、そう思ってもう一度深く息を吸う。ゆっくりと開けた瞳に、人影が映った。

「……かあさん…?」

 泣き腫らした母親の顔が見える。

「……亮、ごめんね、亮太」

 何故謝っているのだろう。亮太は不思議に思って母親の顔を見つめた。夢の続きかもしれない。だって、ほら団扇を投げ出して、母さんが僕を抱きしめている。

 夢を見た。

 部屋にない自分の姿を捜し求めて、母親と父親があちらこちらと駆け回っている夢だ。

 人を頼み、そこかしこを訪ねて歩き、一晩中駆け回る父母の姿。

 そうして、海岸の岩場に居たと男が母に知らせ。

 母さんが僕を抱きしめてくれて。ずっと抱きしめてくれていて。とっても暖かで、幸せで――僕は敦子がとても羨ましかったのだと気付いた。

 僕は母さんも敦子も好きなのに、母さんは敦子ばっかりで、だから、悲しくて、悔しくて、寂しくて。ごめん、敦子。でも、僕は哀しかったんだ。僕は敦子が羨ましかったんだ。だから、嫌いだって…本当は…違うのに。

 亮太は涙を零した。ごめんね、敦子。

 繰り返す声。毎日、繰り返す声。こたえてはくれない敦子。

 こたえてくれない事に、ずっと苛立ちを覚えていた。責められていた。

 自分が悪くないと言いたくて――だから余計――違う――本当は――敦子、本当は――

――もう、いいよ…

 何処から聞こえたろう。敦子の声だ。

 耳打ちする敦子の顔。そして手を振る。

 亮太ははっきりと目を開けた。

「…ごめんね、ごめんね、亮。亮にばっかり寂しい思いさせて、辛い思いさせて、ごめんね、亮…」

「…母さん…」

 髪を撫でながら、母親が亮太の身体を抱きしめる。

「ごめんね、亮。お母さんね、あっちゃんが居なくなって、悲しくって、亮まで居なくなるところだったのに、全然気がつかなかったの。ごめんね、亮がいっぱい我慢していたのに、気付いて上げられなくて。ごめんね、ごめんね」

 抱きしめる母親の腕は温かい。

「…もういいよ、かあさん。…僕ね、母さんも、敦子も、大好きなんだ……」

 腕の中で、亮太は再び目を瞑った。


 今頃敦子は夢を見ているだろうか。

 海の底で、優しい夢を見ているだろうか、そう考えながら、眠りについた。

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