第1話
――講釈師、見てきたように嘘を言い、
そういう言葉がありますが、これから私が話すのも似たようなもので。
実際には、友人から聞いた話を私が適当に脚色しましたから、まぁ、名前も場所も実際のものではないとご承知願います。
聞いているうちに、なんとなく場所などの見当はつくかもしれませんが、それはそこ、貴方の胸にとどめおいてくれれば良い話。
さて。
暦は春でも実際には程遠く、先日には雪が降った処、まだまだ寒い日の続くある日の事なのだけれど。
道を歩けば風にのって時折花の香りもする、顔を上げれば誰某さんちの庭先に赤い梅、寺の境内には白い梅、天に向かって伸びる焦げ茶の枝を埋めるように、紅いの白いのと花の咲くのを目にすれば、マフラーに首を埋めて歩いていても、春はそこまで、とちょっと浮かれる人のさが。
それでもその日の彼――上野としておきましょう、上野の目には花も映らなければ、青い空も映らない。ただ足元にアスファルトがあるだけで、車さえも目に入っていなかったというから危ない話で。
一つ間違いがあれば、この話を私にすることすら出来なくなっていたろう彼、何にそこまで心を囚われていたのかと言えば、何の事は無い、あの、犬も食わないなんとやら、が原因でして。
アレは後で理由を聞くと、本人たちにも思い出せないことがママあって、上げていく一つ一つを耳にしたなら、なんでまたそんなくっだら無い事で…、と傍目には思うものですが、本人たちにとってはいたって深刻。だからこそ夫婦喧嘩は外で見る分には面白い…失礼、自分ではやりたくないものなのでしょう。
とりあえず、その時の原因も後になれば思い出せないほどの些細な事だったようで教えてはもらえなかったのですが、それでもその時の彼には重大すぎて、ぷいっと家を飛び出したのが昼過ぎの事であったとか。
上着を引っ掛け外に出ると、頭の中では奥様を罵り続け、一つ一つ彼女の至らない処をあげつらい続け。
どれほどの間か、ただ闇雲に歩き続けて、多少は落ち着いたものの、まだまだ俯いたまま、ずんずんと歩いていた上野の視界を彼女に対する腹立ち以外に向けさせたのは、うっすらと辺りに漂い始めた霧だったとか。
腹立ち紛れに石だか缶だか蹴っ飛ばそうと思ったのに、そんなものはありゃしない、代わりに風にのってさあっと流れ寄ってきた霧は消えもせず、次第に濃くなりだして、ようやく彼は足を止めた。
が、気に止めたのは一瞬のことで、またもや歩みだす。
それが足元のアスファルトも覆い、ともすれば、翳す己のてのひらさえもぼんやりするようになって、ようやく上野は立ち止まった。
風はまったくと言って良いくらい無く、太陽は勿論見えるはずもない。
ほの明るい、白い光に辺りを取り囲まれているのは奇妙に面白いものだったが、服の上に珠を結んでいく霧に、寒さがこみ上げてくる。湿気ているほうが暖かいというが、これは論外だろう、と。
上野は、参った、と呟き、辺りを見回した。
しばらくそうしていると、何の音も耳には届かなくて、不意に立ちくらみがする。
人間は五感というものに頼りすぎているきらいのある、目にも肌にも霧の気配、鼻腔にあるのは肺まで濡らす湿った空気。耳には何一つ音の届かないとなると、何故だか己の内に、急に不安が膨れ上がる。
霧が晴れなければ歩くこともままならない、どうしたものか、そう妙に大きな声を出してみるが、かえって辺りの静かなのを思い知らされる。
弱りきって立ちつくしたままどれほどたったか、風が緩やかに頬を撫でるのに上野は気が付いた。
扉が開くように、彼の前の霧が左右に分かたれ、ほっとした彼はとりあえずのように、道のある方へと進みだす。
誰にでも心当たりのあるかもしれない、何も考えずにぼぅっとただ歩きつづけると、自分が一体何処に居るのか判らなくなることがあったりするのだが、まだうっすらと霧の残る道端で、上野はすっかり自分の居場所を見失っている事に気がついた。
歩きなれたはずの街を、一体何処をどうして間違えたのか、見知らぬ路地。
聞こえる鳥の声は耳慣れたもので、そう遠くに来たとも思えないし、大体、いくらなんでも歩く範囲で道に迷うなんて、子供じゃあるまいし、そうひとりごち。
上野は肩をすくめ、ため息をついた。
人影を求めて歩きだす。
とりあえず、此処が何処か判りさえすれば良い訳で、旅行者でも装って誰かに尋ねればいいのだ。バス停だか駅の場所くらいは親切に教えてもらえるだろうし、上手くいけばタクシーを呼んでもらえるかもしれない。近所の顔見知りとだって出くわす可能性はある。
財布が上着のポケットに入っていたことには御の字だな、などと思い浮かべながらそぞろ歩き。居場所が判らなければ、目当ての場所もなくして歩く以外にあるまいか。
――遠くに、女性の声がした。
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