第2話

 顔を向け、しかし、確かにこの辺り、と思う場所にはすでに人影はなく、ただまだ残る霧の、ところどころに浮かぶ風景の美しさに見とれ、立ちつくす。

 と、早足か、草履の擦れる音が聞こえた。

 すすり泣く声。涙をぬぐう仕草を見せる横顔が薄い霧の向こうに。

 淡い紅色の着物。霧に消える。

 後に残るのは、手前の砂利、石組みの階段、そこからのぞくのは、庭園、と呼ぶのに相応しい景観だ。

 近くに、こんな立派な庭のあるお寺や神社、或いは公園めいたものがあったのかと驚く以外には出来なかった。

 つられて階段を上がると、飛び石が庭の奥へと誘う。

 緑の足元には何色かの実が落ちる。庭の霧の向こうに続くのは、深い静かな竹藪。霧は竹の色を映してうっすら翡翠色。

 奥からは水の音が微かに届き、誘われるまま奥へ奥へと歩き出した上野を呼び止める声が、幻のように彼方から響いた。

   もし、すみません――?

 不意に夢心地から醒めて、驚いた顔のまま、彼は振り返った。

「は、はい?」

 光沢のある黒っぽい着物に身を包んだ細身の男が目に映る。

「――何かこちらに御用でござんしょうか?」

 静かな声は、男の見かけと釣り合うか否か。

「え?」

 上野は反射的に声を返した。

「うちに何か御用向きでも?」

 静かに問い掛ける男は、年の頃なら三十そこそこ、長すぎもせず、短くもない髪は着物の肩先に触れる事もなく、ただ小首の傾げる所為に揺れた。

「うちって‥‥? え、あれ、‥‥此処は、貴方のお宅ですか?」

 勘の鈍い、ようやく思い当たって上野は声を上げた。

「あい、左様で‥‥。では、貴方様は手前どものお客様ではないのでございますね?」

「はい、そうです。あの‥‥好いお住まいですね」

 ゆったりとした音の響きに、上野は間の抜けた言葉を口にする。

 男はうっすら微笑んで、独り身のわび住まいですがねぇ、と呟いた。

 その言葉に、えっ?、と驚く。

「お一人で、こんな立派な所に? いや、あれ、でも先に、女の方が‥‥」

 いや、実は、自分が此方さまに入り込んだのも、その女の人の言い争うような、泣いているような、そんな声が聞こえて、一体何事があったのだろう、そう思ったのが始まり。声のした方、音のした方に引き寄せられて歩いてきたらこのお庭だったと言うわけで、いや、まったく、申し訳ない、と。

 仕方ない、下手をすれば家宅侵入か何かで警察沙汰になりかねないからな、上野は内心に、織り交ぜる多少の誇張を言い訳した。

 男は上野の眉を読むかのように目を注ぎ、それから首を傾げると、妙でございますねぇ、と小さく呟いた。

「‥‥確かにこの屋にはあたし一人。住まいも仕事場も一緒にしておりますので、あんまり人を寄せ付けませんし、大体、御客様を含めましても、滅多に他人様はみえられませんから、女性の声と仰られてもねぇ‥‥」

 男の困惑顔に、申し訳のない気もしたが、とりあえず、コレで警察沙汰はないかなと上野は心に呟く。

「‥‥でも、なんだか気味が悪ぅございますねぇ。‥‥ああ、そうだ、もしおよろしいようなら、ちょっと一緒に――ここに面した、ほら、その建物なんですけれど、そこを一緒に覗いてはもらえませんかねぇ?」

「はぁ?」

「お急ぎでないのなら‥‥。無理にとは申しませんが。ほら、最近は古い町でも近所付合いってのが減っていく一方で、物騒な事件も多くございますからねぇ」

 男は穏やかにつけたした。

「お茶なりとも、おいれしましょう」

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