第3話

 見知らぬ御人に誘われて、そのまま家にあがり込んだ上野のことはどうしたものかと考えモノ――ああ勿論、誘う側も誘う側、不用心には変わりのない――、例え差別と言われようとも、やはり女子供なら、そう簡単に誘いに応じてついていくものではないと。ねぇ。もっとも、オヤジ狩り、なんてのがある昨今を思えば、決して男でも安心出来たものではないとは思うのだけれど。

 さて、心理的に罪悪感が働いて、到底断ることが出来なかったのだ、などと言うのは適当な事後分析で、単に思考が停止していたか、興味をそそられたに違いない。

 大体、男の方も見るからに優男、俳優にでもなれば良いのにと思わせるほどの端正な顔立ちで、不審な素振りは何一つないから、安心しきって上野は彼の招きに応じたそうです。


 中庭から廊下を経て取次に入るのは、玄関をくぐらなかったからこそ、舟天井の土間に靴を置くと、上野は玄関から前庭を見返した。

 格子戸の向こうに、白い石畳、その向こうにあるのは石段か。なら、あすこで音につられ、あの石段を脇にと上がったらしい――、一人納得顔を浮かべ、彼は立ち上がった。

「まるで――そう、茶室か別荘みたいなつくりなんですね」

「ええ、仰る通りでございます。此処はとある御贔屓筋の方の別荘で。それをあたしがお借りしているものでしてねぇ」

 男は上野を先導し、歩きながら言った。

 廊下を歩き、広縁を歩き。奥の見えない庭の広さに対して考えるならば、住まい自体の広さは、さほどないように感じられる。

 普通の住宅よりはよっぽど洒落た造り、別荘的な用途に建てられたものと考えるのが妥当かもしれない、そう思った上野の勘は当たったようだ。

 程なく、彼は一つの部屋に通された。

「お見苦しくって申し訳ござんせん。一応客間に使ってはいるのですが、あまりお客様もみえられませんので‥‥」

 開けられた障子の奥は薄明るい。

 黒光りする座机、その奥に琵琶棚の床構え。掛け軸、香炉をしつらえている。

 ここに投げ入れの活花でもあれば、切り取られた写真か何かのようだと感嘆する上野の後ろを歩き抜けて、男は琵琶棚の横、入ってきた障子の向かいを開け放った。

 と、見えるのは、先ほど迷い込んだ庭だ。

 石畳は白く、土の上に光る。緑は若草、浅葱、萌葱。まだ残る霧は、まばらにうっすら漂う。花は赤く、或いは白く。

「本来の持ち主の方はこの奥手の、ほら、あすこにございます竹薮の立派なのに、御自身で竹取の庵と名づけておられましてねぇ。それが私の名と重なりますので、これも何かのご縁かとお借りしている次第ですが」

「はぁ、そうなんですか」

 上野の気の抜けた相槌に、男は思い出したように、ああ、失礼いたしました、と。私はコダケと申します、そう続けた。

「あ、すみません、自分は上野と申します。上に野原の野で上野、なんですが。コダケさんは――どんな字ですか?」

 音だけではどうも想像がつかない。タケトリノイオリって何だ、そう思いながら上野は問い返した。

「漢字ですか?、小さいに竹――それで、コダケと読みますが」

 上野は、ああ、なるほど、と頷いた。

 男は――小竹は座机の手前にあった座布団をくるっと裏返すと上野に席を薦めてから、お茶を用意しましょう、と立ち去った。

 障子が閉められると静寂が訪れる。

 静寂と一言でいっても無音ではない。風の音、水の音。色んな音が微かに混じり、そうして紡がれたもの。花びらの落ちる音さえ聞こえそうな静けさだ。

 上野は目を瞑り、心に思った。

 風が通る。水が流れる。時間の感覚は消えさり、ともすれば、自分さえも空気に融けてしまいそうだ。自然があり、音があり、そうして静寂もまた同時にあることを上野は初めて知った気がした。成程、寺や社、庭を訪う者は、このことを知っているのだろう、と。

 ふっと、肩の力が抜け落ちた気のする。

 どれくらいたったのか、上野は正座の足を胡坐に崩すと深いため息をついた。

 ぼうっと眺めていた庭から部屋の中にと目を移すと、庭から入る明かりに影を生むもの、部屋に入ったときには、床構えの立派なのに目に入らなかった、琵琶棚、床脇、小さい影がいくつか並ぶのに気がつく。

 上野は立ち上がると床の間に歩み寄った。

「ああ――」

 人形だ、という言葉は彼の口からは漏れなかった。

 上野は自分の前の幾つもの人形と対峙する。

 貌の白い、綺麗な、そう、小竹によく似た顔立ちと言っても良いのが並ぶ。雛人形の善し悪しってのは、お貌の気品できまると言うらしいが、なるほど、人形にも気品はあるかもしれない、見事なもんだ。

 膝を進めてもっと間近に見ようとした上野の後ろで障子が開いた。

「ご興味がおありですか?」

 小竹は紫檀の座机にお茶を置き、一服どうぞと勧めながら上野に問うた。

「いや、綺麗なもんだと‥‥自分は詳しくはありませんが、うちの奥さんが結構人形とか好きなもんで」

「‥‥ああ、そうでしたか」

「綺麗なもんですね。この目許の涼しい‥‥人形は貌が命って言うんですよね?、本当にその通りですね」

 琵琶棚の上、中の一つを無造作に手にとり、上野は呟いた。

「ありがとうございます。つたないものですが、お褒めにあずかりまして」

「は?」

 上野は小竹を振り返った。

「それは、私の創ったものです。そう最近のモノでもござんせんが」

 手の中の人形と小竹の顔を何度か見比べ、ああ道理でと上野は呆けた声を出した。

「道理で小竹さんの貌とよく似ていると‥‥小竹さんは人形を創られるんですか?」

 自分の貌によく似ていると言う言葉に苦笑めいたものを浮かべ、小竹は上野に近寄ると同じように琵琶棚の傍らに膝をつき、他の人形を手に取ると応えた。

「ええ、人形師を務めさせていただいております。こちらのは、先代の作品です」

 それは上野が小竹の貌を思い浮かべた人形で、あれ?、そう言って上野は笑った。

「ああ、じゃあ、小竹さんがこの人形のモデルだったんですか?」

 小竹は曖昧に微笑んだ。

「あちらの方に仕事場がございますが、ご覧になられますか?」

 横手に膝をつけていた小竹が、真後ろの襖をさす。振り返った上野は、興味を惹かれて即答した。

「ええ、是非。お願いします」

 人形を置いた小竹は音もなく立ち上がると、どうぞ、と言いながらそちらに歩み寄り、続く上野を見返ると、襖に手をかけた。

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