第4話

 すうっと開いた襖の向こうは客間以上に薄暗く、ぼうっと浮かぶ、影の中で立ち尽くす何者かが幾つも幾つも見え、上野は一瞬、たじろいだ。

 昼中だというのに、この薄暗いのは二枚障子になっているためか。

 先に小竹は部屋に入り、庭に面したその障子を開ける。が、目の前に広がる庭先の竹薮が生む陰に、障子が開け放たれた後でも、部屋の中は大して明るくはならなかった。

「‥‥薄暗いでしょうかねぇ。明かりをお点けしましょう」

 言いながら、小竹が廊下の方の障子を開け、背中を向けたまま壁を手探りしているのだろう仕草を見せると、程なく電灯が燈った。

 だが、ついた明かりは橙色で、やはり明るくなったとは思い難い。

 それでも文机の上には筆や針、糸、霧吹き、糊、鏡に鏝、他にも並ぶ見たことあるものないものが明かりに浮かんで濃い影を生む。

 壁際には和箪笥、柳行李に葛篭、棚にははぎれか、ある物はそこいらに腰掛け、あるものは立ち尽くす、髪に手をかけて微笑み、座り込んで彼方に視線をやるその人形たちの影――まだ貌のない頭も無造作に置かれている。

「あちらにあったのよりは、随分‥‥大きいものなんですね?」

 幼い少女ほどの大きさはあるだろうかというものから、見慣れた雛人形程度の大きさのもの、もっと小さいもの、部分としての頭も胴も、幾つも幾つも。

「そうですねぇ、色んな大きさのものを昔は創ったものですが。今でも土人形などは結構小さく創りますかしらねぇ」

 へぇと呟きながら完成したもの、まだ途中の物、腰をかがめつつ、あるいは背を伸ばし、上野は色んな人形を見つめる。

「面白いもんですね。全部――なんていうか、表情とか違うんですね、やっぱり」

 夫婦雛、桜雛、市松人形、舞妓らしきもの、動物の姿まで。無造作に出来上がっていると思わしき人形を手にとり、感慨深げに呟きをもらす上野に、小竹は静かな調子で答えた。

「さぁ、どうでしょうねぇ、新たにお持ちになられる方が慈しんでくださるように、そう思いながら創りはいたしますが、特別、表情の違いは考えませんかねぇ‥‥」

 頷きながら、上野は人形に見入った。

「そんなもんですか。‥‥あ、ねぇ、小竹さん、古い物があるってことは――売らないの物もあるってことですか?」

「左様そうでございますねぇ、御譲り出来ないものも、たまさか、ございますかしらねぇ」

 そうっと呟く小竹の声に呼応するかのように、風が竹薮を鳴らした。

 決して煩くはない葉擦れの囁きが、奥からうっすらと届く水の声を呼び覚ます。

「へぇ‥‥いいですねぇ、じゃあ、ずっと此処に居られるってことですよね――売られないってことは。羨ましい話だなぁ」

「羨ましい、ですか?」

 小竹は小首を傾げて上野に問い返した。

 やはり仕草に髪の揺れる。

「ええ。だって此処、素敵なお住まいですから。静かで、なんていうのかな、心洗われる場所‥‥って奴ですかね。許してもらえるなら、飽きるまでぼーっと此処でしていたいと思いますよ、心から」

 人形を手にしたまま庭を見返り、風の囁き、水の音、それらに耳を傾けた後にゆっくり小竹を振り返る。

「独りで竹の鳴るのを聞くのは、少々侘しいものですが、ねぇ」

 小竹の声に、いやいやと呟きながら首や手を振り、仕草でその声を補う。

「一人はいいもんですよ。かみさんなんかいたら、そりゃ煩いだけで。ああしろこうしろ、ああしてこうして。何故してくれないの。何故やらせるの」

 おどけたように上野は続けた。

「ちょっとばかりご飯の味の淡いのを言えば、自分で作れ、こっちは仕事から帰ったばかりだってのに、新聞とってくれと頼めば、ソレくらい自分でしてよ、弁当箱をうっかり忘れて帰った日には、だらしない、の一言で。本当に、煩いばっかり」

 調子にのって節回しのように続けた上野は、小竹の穏やかな笑みに気がつき、照れたように頭をかいた。

「とにかくまぁ、煩いんですよ、かみさんってのは」

「‥‥何方かがそばにいれば思うこと。物言わぬ者こそが傍らに欲しければ、人形を飾る外にはござんせんからねぇ、人と一緒にと望むのならば、仕方の無いことでございましょうねぇ」

 うっすらと笑う。

「いや、それはそうですが。でも、やっぱり独身時分の気楽さを思い出すと懐かしくなっちゃいますよ」

 本音か否か。上野は小さく呟き、そっと続けた。

「‥‥あぁ、いいなぁ、羨ましいなぁ‥‥。自分もいっそのこと人形になって、この風景をずっと眺めていたいもんだなぁ‥‥」

 竹薮に、そして彼方に目をやり、ため息を一つ。それから話題を変えるためにか、思い出したように訊ねる。

「‥‥そう言えば、小竹さん、譲れない人形って、例えばどういうものなんです? やっぱり、ものすごく出来が良かったものとかなんですか?」

 小竹は首を傾げた。

「御譲り出来ないものは‥‥例えば――そうですねぇ」

 思案顔を浮かべ、和箪笥の並びの棚から一つ、人形を取り出す。

「これなんかは、御譲り出来ないもの――でしょうかねぇ」

 儚げな女が、座った形をしている。何かを抱いている仕草だが、胸元には何もなく、ただ泣いているようにも見える。

 上野はふと、先にみた女の横顔を思い浮かべた。

「手に取らして頂いてもよろしいですか?」

 小竹の手から上野の手に人形が渡される。と、人形も小竹の手も冷たく、触れた途端に寒さを思い出し、同時、立ち尽くす背筋にひんやりとしたものが走りぬけた。

「‥‥冷たいですね」

 上野の呟きに、ああ、お寒いですか、そろそろ閉めましょう、そう小竹は応じて障子に歩み寄った。

 すうっと明かりの落ちる室内とともに、かしん、と障子の合わさる音がした。

 こちらに背中の向けている小竹を振り返る。

「‥‥これも綺麗な人形ですね。これ、どうして売らないんです?」

「売らないというよりは、売れない、が正しいでしょうかねぇ」

「え?」

 苦笑しながら小竹は続けた。

「そちらはあたしの創ったものじゃござんせんがね、まぁ、怪談めいたものがその人形には御座いましてねぇ。持ち主になられた方がお返しに見えられるので、此処で埃を被っている、というわけです」

 またまたぁ、と上野は笑った。小竹さんが仰ると、冗談に聞こえませんよ。

 しかし小竹はやはり薄く笑んだまま、可哀想なお話がありましてね、と呟いた。

「お聞きになられますか?」

 小竹の目とかちあう。

「あ、‥‥ええ。お願いします」

 このまま聞かずに立ち去るとなんだか後々思い悩みそうに感じて、上野は小竹を促すことにした。

「見て御判りになりましょうか、それは母子人形でしてね。本来は、ほら、人形の此処に――子を抱く形になるものなんですが」

 人形を作るに相応しい繊細な指先が、上野の手の中の人形の胸元を指した。

「これを注文なされたのは、とある御婦人で。生まれながらの病弱、線の細い方でしたが、幸せな御結婚をなされました。――ああ、お座りになられませんか、上野さん」

 小竹はすうっと腰を落とした。

 上野もつられて畳に座る。

 どうぞ、足をお崩しくださいな、座布団はそちらに、いえ、私は慣れていますので結構ですが、上野さん、お寒いでしょう?

 小竹は文机の前にあった座布団を上野に勧めると、自分は端座したまま話を戻す。

「‥‥とにかく、旦那さまも良い方で、結婚自体は幸せなものでしたが、御婦人のお身体の弱いのだけが不幸の影で。しばらくはお幸せに暮らしておいででしたが、その奥様が身篭られた時にとうとう不幸せなことになってしまわれました」

「‥‥そのご婦人が亡くなられた――とかですか?」

 上野は先を急いだ。

「ああ、いいえ、お亡くなりにはなられませんでした。もっとも、酷くお身体は弱ったみたいですが、何とか無事に、玉のような男の子を産み落とされたそうです」

 そりゃ良かった、そう呟いた上野ににっこりとして、小竹は続けた。

「ただ、産み落とすのに死線を彷徨う御人が、それから無事に赤子を育てられるかと言うと、無理な話でございましょう?、旦那様も周囲の方もそう思われたのですねぇ、乳飲み子をそのまま、余所様にお養子さんに出されたのだそうです」

 上野は嘆息をついた。酷い話だ。生死を賭けて、必死になって産んだ子を取り上げられたのか、その女性は――

「御婦人の身になれば、なんと言い聞かされても、納得できるはずも御座いませんが、恨みに思うのは己の身体の弱いことばかり。泣き疲れて、諦めきるためにか、彼女は一つの人形を注文なさいました」

「それが、この人形ですか?」

 上野の質問に頷く。

「ええ。己は抱くことの叶わぬ吾子、せめて自分の姿を映した人形だけでも、可愛い赤子とともに居たい、そう願われましてねぇ」

 なるほどといわんばかりに上野は首を動かした。

「この人形は御婦人の姿を写したものだそうでしてねぇ、そういった――つまりモデルのある人形という意味ですが、そういったものはちょっと日数がかかるのが常なのですが、もうお心の随分弱くなっておられましたのでしょうねぇ、もともと露ばかりのお命、母親の姿を創り上げたところで、御婦人は身罷られましたそうで」 上野は思わず声を上げた。

「可哀想な…お話ですね」

「ええ。ここからが怪談ですが」

 上野は思い出したように、ああ、と呟いた。

「デるのは、じゃあ、このご婦人ですか?」

 小竹は苦笑を浮かべた。上野の言い方はなんだか風情が欠ける。もっとも、風情があっても仕方ない。

「さあ、あたしはお逢いしたことがござんせんので、なんとも申し上げられませんが。ただ、こういうお話のお好きな方はたまさかいらっしゃいましょう?、始めはお身内、譲られたお友達、物好きなお方、見たと仰られて此方に来られた――数人の――方の言い分では、誰も居ない筈の部屋に、美しい御婦人がたたずんでいて、坊や、といって泣かれるそうでしてねぇ」

 怪談の似合いそうな薄い笑みを小竹は芝居っ気に浮かべた。

「後に勇気をふりしぼって部屋に戻ってみれば、この人形だけがあったそうでしてねぇ」

「‥‥‥‥‥」

 聞いてよかったのか拙かったのか、上野はどぎまぎと相槌めいたものすら口に出来ずにただ小竹の表情を伺った。

「――と言うお話なども一緒に抱えて一人暮らしはやはり物寂しい、というわけですが、どうでしょうねぇ?」

 穏やかに小竹は笑った。

「あ、あの、小竹さん、売れない人形って、大抵そういう――」

「大抵こういうお話がつきまといまして。たまさかですが、御譲り出来ないものも在る、というわけです」

 本気か冗談か量りかねる笑顔だ。

「厭でしょう?、庭が良くても、口煩い奥様がいらっしゃらなくても」

 小竹のその言葉に、乗せられたかな、と上野は思い浮かべた。と、その次にはもう強気に返してみる。

「いや、まぁ、こんな素敵な、物静かなところに、そういう寂しい話がつきまとうのは仕方ないことですよ」

 小竹は薄く微笑んだ。

「そんなに――気に入って頂けましたか、この家は」

「いや、家とか庭とかそう言うものだけじゃなくて、なんていうんですか、落ち着いた静かな場所‥空間、と言いますか。自分の家は狭いマンションですから、大体、こんなゆったりとしたところに住むのは高嶺の花と思う以前の問題ですからね」

 上野は笑いながらそう言い、手にしていた人形を小竹に返そうとしたが、彼の視線がこちらにはなかったので、仕方なく文机の上にそうっと置いた。

「――上野さん、先に、人形になって、と仰られましたよねぇ」

 障子に視線をやったまま、ゆっくりと呟く。

「はい?」

「‥‥なられますか、人形に」

 振り向いて、薄く小竹が微笑んだ。

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