第5話

「――え?」

 風に揺れる竹薮の影が暗く映りこみ、障子の向こうでそれが、ごぅ、と泣いた。

 小竹の微笑みは優しいのか冷たいのか。

 こちらを射抜くその瞳は闇の中を覗くように瞑く、視線を外すことの出来なくなった上野は正面にいるはずの小竹の声が背中から闇のように覆い被さり、耳を打つ囁きを繰り返している心地に囚われた。

   なられますか、人形に‥‥

 暗い室内はいっそう暗く、竹の鳴る音は寒さを呼んだ。

 芯から冷えても身体は指一本動かせない、上野は顔をそらすことも出来なかった。

 しかし一方で、甘い香りのする。魂さかる気がしないでもない、背中にある闇が暖かく自分を抱き締めている気がする。このまま、目を瞑って、闇に埋もれたら――

 遠くで電話の音だろう、微かだがベルの鳴り響くのが聞こえた。

「‥‥厭ですねぇ、上野さん、蒼い顔なすって。冗談ですよ」

 小竹は音もなく立ち上がった。

「どうぞ御自由に、お手にとって御覧くださいましな。ちょいと、失礼いたします」

 そうして部屋の外へ、小竹の足音の遠ざかって行くのが聞こえて、ようやく上野は一息、生唾を飲み込んだ。

 驚いた。

 今味わったのは、一体なんという気持ちだろう。自分の声で繰り返す。なられますか、人形に。‥‥人形になりますか?

 ぶるっと震えてから、立ち上がろうとした上野の眦にかかる、文机に置いた母親の姿の人形。

 抱く子のない母、子を抱けなかった人形。

 上野はじっとそれに目を注ぎ、断ち切るように顔を上げると、立ち上がろうと――上体を起こした途端にたちくらみ。

 上野はまたもやその場に腰を下ろし、目を瞑ると、耳の奥に高い金属音の鳴るのを我慢した。

 音は次第にうすれ、白くなった視界がまた常に戻る。

 顔を上げた上野の目に飛び込んできたのは、見慣れた母親の後姿だった。


 母親は、白い布団の前で頭を畳につけたまま上げようともしない。自分はといえばその後ろで座っているのか、視界は低い。

 それを遠くから眺めているもう一人の自分、そんな奇妙な感覚に囚われた。

 枕もとの後姿に、その向こう、白い布団に座る人の影は見えない。ただ、着物の柄が目に映る。

 白地の浴衣、赤い花の散る浴衣。

 もう一人の自分が庭を眺めて違うと呟く。

 いや、庭に在るのが赤い花、椿か、山茶花。熟れ落ちる果実のように、赤い花びらが白い石畳に落ちる。血だまりに、ぼとりと落ちる赤い花びら。

 二人が見つめる。花びらのようなのはその人の唇、赤い花の咲く――

 白い浴衣よりもまだ白い貌、白い腕、白い指先から花びらの零れる。花の咲く唇が自分を呼ぶ形をつくる。

 ぼうや――わたしのぼうや‥‥

 霞みかかる白い肌、花を生み出す赤い唇が、愛しい私の坊や、と――

 不意に思い出した。


 ‥‥かあさん‥‥


 どうして忘れていたのだろう、これは自分の母の姿だ。彼女こそが本当の、自分の母親だ‥‥

 白い腕が伸ばされる。こちらに、この頬にかすかで良い、触れたくて、触れたくて。

 頭を下げているのは、自分を育ててくれた母。――そうだ、母に連れられて誰かの家を訊ねた事がある。

 上野は記憶を反芻した。

 白い布団に横たわる、白い人影、彼女が自分を抱きしめようと腕を伸ばす。

 ああ、そうだったんだ、と。

 何故忘れていたのだろう。何もかも判った気がした。

 自分は人形だったのだ。

 彼女を慰めるための‥‥自分は人形。

 伸ばされる彼女の腕に、白い胸に引き寄せられ、上野は目を瞑り、抱きしめられるのを待ち望んだ。

   かあさん‥‥

 白い胸は暖かい。白い手が髪を撫でる。

 何度も何度も、優しく置かれた手に、もう何も考えられなくなる。深く息を吸えば甘く薫る母の匂い、眠りに誘われる。

   かあさん、ずっと一緒に‥‥

   ずっと――



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