第4話
月夜は明るい。満月なら、尚更明るい。白い砂は月の光を照り返す。
暗い波は月の光に飛沫を煌かせる。
夏の海、夜の海は暗く静かに波音を響かせる。風の音に溶けて、そこかしこ、海も砂浜も陸もない。ただ、波音が。そして波頭の煌き。
月夜に濃い藍の着物姿の背が歩いていく。使いの途中か、手には風呂敷包み。
砂浜をゆっくり、岩場に向かうように、ゆっくりと。
その背が夜闇よりも一層暗い波、波音に包まれても、ゆっくり、ゆっくり歩いていく。
まるでその歩み方が必要であるかのように。昼間ならば緩やかに、それでも流れる水のように歩いていたろうその背中が、一歩一歩、歩みを確かめるように、先に続く明りに従い、歩いていく。
暗い道の先にぽつぽつと浮かぶ白い光。
それを辿ってしばらく歩いたその先で、不意と足を止めた背中は、そろりと首を傾げつつ、後ろを見返った。
と、――驚いた。
波音に混じって、何か音がする、そう思って止めた足だが、何もないことを確認するための動作のはずだったのだ。 それが、そこには一人の少年の姿があるではないか。
もう月はない。
暗い波音、海蛍。時折煌く飛沫、自分が歩くその後ろに、いつからついて歩いたのだろう、少年が一人。
「……お前様…荒川様がところの…」
「亮太です。お願いです、…連れてってください」
訊ねる声に名乗ると、そのまま顔を上げ、濃い藍の着物の袖を握り締める。
「連れてっとくれといわれても、お前様、あたしが何処に往くのか――」
「…海の底に、連れて行ってください。敦子が居るんです。…連れて行ってください。御前様のところに、連れて行ってください…」
敦子が居るんです、と繰り返す声。
「お前様、……一体、誰にそんなことを…」
呆れた声。
困ったような、手に負えないと言わんばかりのその声に、連れて行ってくださいとただ繰り返す。
彼が鳥達の言った人形師だと、何故か信じて疑わなかった。あの後姿を見たせいかもしれない。すがりつけるものはその背中しかなくて、連れて行ってくださいとただ繰り返した。
繰り返すたびに下げる頭。何故か涙が零れて頬を濡らした。
波音が聞こえる。波音だけが聞こえる。男は何も言わず、不安に胸を痛める。
「…連れて行ってください、お願いです、僕を、連れて行ってください……」
亮太の声に何を思っていたのだろう、海に沈む濃い藍色の着物の袖を微かに揺らして思案顔を浮かべていた男は、やがてそろりと息を吐いた。
白い手を伸ばし、亮太の頬を指先で撫でると、濡れた指先で髪を撫でる。
「お前様、男の子だろう、しゃんとおし。…あたしはお前様を連れて行くだけですからね、それでよろしゅうございますね?」
波音の合間に男の声が。
亮太は顔を上げ、深く、しっかりと頷く。
「しかし、お前様、一体どうして、あたしの行く先が判りました?」
怪訝そうに小首傾げながら、手にしていた風呂敷包みを亮太に渡す。
薄紫の、柄ならば端の三角に描かれる青海波。受け取りながら、亮太が答える。鳥に聴きました、と。波音のこと、鳥のこと、亮太は歩きながらに話していく。
ふむ、と。
男は一通り聞き終えた波間に、ため息か何か零して言い含めた。いいですか、お前様、あたしはお前様が妹さんを連れ帰る手助けはできませんよ、と。
それから、お前様、お前様はあたしの荷物を持ってやってきたのだから、勝手に何処かに行かないでくださいましね、姿を見失ったら、この広い海、あたしはお前様を見つけられやしませんから。よろしゅうございますね?、と。
かんで含める声は続く。風呂敷包みをしっかりと抱いた姿に頷きかけて、
「もし、お前様を見失ってしまったら、あたしはお前様を連れて帰れやしなくなる。そうしたら、お前様、お前様の母上様は、一層、お嘆きになるのだからね。いいですね?」
低い声は波に溶けず静かに響く。
その声に亮太はためらいがちに頷いた。
それでも瞳には光が宿る。海蛍のような淡い、儚げな光ではなく、もっと明るいものが。
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