第3話

 夏の日は毎日が祭りのようで、海辺でのひと時を過ごす者が来ては去り、入れ替わり、たちかわり。

 毎日とは言わないまでも、さざめく人の声は賑やかに家の前を通り過ぎる。いや、夏の間なら、毎日だ。

 朝に出掛け、夕方には戻り、夜ともなれば海岸で打ちあがる花火の音。

 二階の窓から人の流れを見下ろして、亮太はぼんやりとしていた。

 母さんは敦子ばっかりだった。

 昔から、敦子ばっかり大事にした。

 僕の帽子を敦子が欲しがった時も、お兄ちゃんなんだから、と。その言葉で敦子にあげた。ぶかぶかで、敦子が被れるはずもないのに。

 あの帽子と一緒に敦子は海に消えた。

 僕の麦藁帽子。母さんが買ってくれた、僕の帽子。

 敦子は僕から何もかもとっていく。帽子も。玩具も。それに――

 僕は敦子から何もとったりしなかったのに。

 ――ああ、また波の音が聞こえる。

 寄せては返す波の音。激しくうねり、岩を砕き、砂を運び。

 波音が部屋を満たす。潮の香りが辺りに流れる。海の波が家を飲み込む。下が沈む。階段を上がり、廊下に流れ込む。窓からも、波が、黒い波が、高く、高く――

 亮太は目を瞑り、激しく首を振った。


 ――煩い、煩い、煩い――


 無言の叫び。

 腹の底からの、喉の奥の熱くなる、焼け爛れて声にならない、その叫び――

 それに砕かれたか、潮が引く。

 熱に蒸発したか、逃げていく波音。やがてしんと静まり返ると静かな夜の風。

 放心したように窓辺から彼方を見上げた亮太の耳に、小さいもの、硬いような、柔らかいような、何かが触れ合うような、微かな微かな声が聞こえた。


―――やれ、やれ、

―――酷い目にあったものじゃな

―――まったくじゃ、あの波はなんぞな

―――おや、知らんのか

―――知らん、知らん


 亮太は声を探した。窓辺から顔を上げ、ゆっくりと部屋の隅々を見回す。

 濡れたような暗い染みの浮く天井。箪笥の上の硝子ケース、その隙間の陰、今腰掛ける窓辺、風に揺れる硝子。


―――あれはな、此処が家の母御よ

―――この屋の女が、あの波を起こしたか

―――そうともな。この屋の母御はな、娘を波間に攫われたのじゃ。

   それでな、思い返しては、波を呼び、娘の姿を探そうとする。

   じゃがな、その娘は、ほれ、とっくに御前様の人形よ

―――おお、あの、


―――いくら波を呼び、姿を求めても、のぉ


 見つかろう筈のあるものか、と続く声。声にあわせて部屋の隅、窓辺の勉強机の、飴色の陰がゆらりと動く。

 二羽の鳥だ。

 いや、鳥に見えるが――違うものにも見える。足がある。羽がある。黒っぽい羽を震わせて水しぶきをはらう。

 何より違うのは――着物を着ている。

 暗くてよくは見えないが――黒い裾もに赤い斑点、もう一羽は同じく黒い裾もに白い斑点。黄色い帯紐、長く垂らし。

 彼らは小さい水溜りの中を覗いた。

 そこには下の部屋で転寝する母の姿が浮かぶ。目許に滲む、涙。一筋零れ、口許が動く。敦子、と。


―――子を亡くした母は憐れよ。

   しなかったことを悔いる。

   出来なんだことを悔いる。

―――そうして波を呼ぶのじゃな。憐れなの

―――憐れよの。じゃが、残されて憐れなものがまだ居っての

―――ほう、

―――その人形が兄上よ。わしらを今の波から救ったは、その兄上じゃな

―――ほう、


 胸に針が突き刺さった。

 背中から体中を痛い痺れが駆け抜けて、亮太は息を呑んだ。

 彼らは、母の話をしている。

 そして、自分の話をしている。

 ならば人形とは、敦子だ。下に居るんじゃない、本物の、敦子だ。


―――救ってくれたが、礼はどうしたものか

―――さての、さての、

―――あの子は知っておろうかの、御前様のお心に適うたならば人形は戻ろうがの

―――知っておっても、人の身じゃ、海の底までこられようか

―――そうじゃの、無理か――いや、待てよ


 肌が粟立つ。身体の芯が熱くなる。亮太は着物を絞り、水気を切った様子の二羽の声を聞き漏らすまいと見つめた。

 首を振り、さてのと繰り返す鳥、人形を取り戻せると言う鳥。

 早く、早く続きを、と。

 急き立てたいのを懸命にこらえ、亮太は待った。焦れる。胃が痛む。早く、早く教えて。続きを、早くっ

 そして、無理だと言った鳥が、ぽんと手を打ち鳴らす仕草。


―――そうじゃ、そうじゃ、御前様は、彼の人形師殿に、

   見せびらかすと言ってはおらなんだか、

   ほれ、人形のべべをこしらえさせて、それを着せて見せるのだと

―――おお、言うておった、言うておった、

―――憐れよの、人形師殿についてこられれば、のぉ

―――人形が戻れば、またこのような波に吾等が呑まれる事もあるまいにな

―――……まぁ、波が一つ、減るわいな


 からからと笑う声。波は減ろう、と続く声。だが波は消えぬ、この屋の母御一人が波を呼ぶわけではないのだから、と――


―――やれ、乾いたの

―――やれ、長居たの

―――やれ、じきに人形師殿が来られよう

―――やれ、そんな刻限か

―――やれ、いのう、

―――やれ、いのう


 待って、と。

 声をかける暇さえなかった。

 弾かれたように窓辺から立ち上がり、勉強机に駆け寄る。

 その一瞬に、もう鳥たちの姿はない。

 何故、と。どうして?、今、此処で。

 眉を寄せ、泣きそうな顔で首を振り、そこに居たはずの鳥たちの跡を探そうと机に手を伸ばす。

 今、今まで、此処に――

 まってよ、と。亮太は眉を寄せ、声にならない声を挙げる。続きを聞かせて。もっと詳しく。もっとたくさん。聞かせて欲しいのに…ねぇっ!

 あたりかまわず伸ばした指先が――微かに濡れた。

 その指先を見つめ、窓に駆け寄る。夜空を見上げる。

 まだ、何処かに居る気がした。夜を飛ぶ鳥の姿を追い求めて、窓枠に手をかけ、身を乗り出して辺りを探す。

 月夜に浮かれた蝙蝠が飛ぶ。

 違う――違う。


 俯いた亮太の目に、夜を歩く人影が目に映った。


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