第2話
知られた、と。
何が知られたのか、はっきりとはわからない。ただ、知られた、と思った。
そして多分、あの子も知っている。
だから――
だからあの子の瞳はいつも冷たい。
黒い瞳でこちらをじっと見つめる。
電気をつけない屋内は昼間でも暗くて欄間から透き見する明かりもない。
光を吸い込むような飴色の壁や箪笥は日陰にあって尚、濃い影を孕んでいて。わずかに陽射しの落ちる畳を横切って明るい方、次の間に入った。
陽射しもそこまでは手を伸ばせない。椅子にちょこんと座っている、艶やかな黒髪のその子は、猫の目かビー玉のような瞳でこちらをじっと見つめている。
亮太の姿が物珍しげだ。
珍しいのは、母があの子を此処に座らせたまま台所に立っていることだ。そちらの方から物を刻む音、まな板、包丁、目には見えなくても耳がそうだと伝える。
亮太はゆっくりと椅子に歩み寄った。
黒い瞳が光を吸い込んで揺れる。黒髪が風に小さく揺れる。敦子のお気に入りの空色のワンピースの裾も、靴下のレースも、やはり微かに揺れる。
身に付けているすべてが敦子のもので。
面差しさえも敦子に似て。
それでも――
当然のようにそこに座る姿に、苛立ちを覚える。腹の底、胸の奥、喉が熱を帯びる。
「………お前、なんか…、…敦子じゃ…ない……」
微かな囁き、言葉を受け止めて、白い顔がわずかに眉を下げる。
言い捨てると、亮太は妹と喧嘩をしたときにはいつもそうするように、くるりと背中を向けた。
しばらく立ちすくんだ敦子は自分の服の裾を握る。腕に触る。それを邪険にはらうとたちまち涙をためて必死に腕をつかんで振る。そうして大声で泣き始める。
そうすれば母さんが来る。
――亮、お兄ちゃんなのに何をしているの。
あっちゃんを泣かせちゃだめでしょう?
亮太はぼんやりと一人、立ちすくんでいた。
網戸越しに蝉の鳴き声が聞こえる。
ジージーと鳴くのは茶色い油蝉、しゃんしゃんと鳴くのは白い熊蝉、そのうち法師蝉が鳴く。敦子が木の幹を指し示す。こげ茶色の太い幹、陽射しが降って、薄い影、濃い影、一瞬たりとも立ち止まらない夏の陽、あそこ、あそことせがむ声に、虫取り網で捕まえて見せる。
ほら敦子、蜩だ。もう夏も終わる――
高い、澄んだ音にはっと顔を上げて、亮太は自分の手を見遣った。
台所からの音は変わりなく響く。昨日と同じ、去年と同じ、明日と同じその音に、空の掌をぐっと握り、拳を作るとそのまま後を見返らずに二階へと駆け上った。その後を追う、風鈴の澄んだ音色。
父の言うとおり、母は少しづつ良くなっているのだろう。
敦子が居なくなった日から床に伏せていた母が、ほら、下からもうすぐご飯だと呼んでいる。
ただ、あの子を敦子と疑わない、それだけで。それ以外なら、母は変わりない。
変わらず、敦子を抱きしめる。
変わらずあの子を抱きしめる。
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