青蛙堂綺譚
楸
第1話
框の上に素足を置いて目を移し、少し離れたところにあった靴を踏みつけた。
踵を踏んだまま一歩二歩と歩きだし、玄関戸に手を掛けながら、顔だけ後ろを見返って、
「行ってきます」
と。
そう一言を残して亮太は敷居をまたいだ。
少年の背中にかかる声はない。期待していたわけではないが、微かに俯いて日差しの中を歩き始めた。石畳が目に映る。…ひとつ、二つ。
日陰から出ると当然のように身体に突き刺さる陽射しに、早くもうっすらと額や腕に浮いたのが珠を結び始める。…みっつ、四つ。
温度だけなら確かに家の中は涼しかったが、夏が過ぎようとしているのに、まだ家の中は熱病に浮かされているようで、じっとしていられなかった。
いや、多分、皆、熱病にかかってしまったのだ。朦朧とするのは陽射しのせいではなく、この空気のせいだ。家の隅々にこびりついた海の匂いのせいだ。風のせいだ。
首をちょっと見返れば、前庭の向こうに縁側が見えた。開け放たれた硝子戸、ひさしから吊り下げられた風鈴が南部鉄独特の抜けるような高い澄んだ音を立てている。
陽射しを避けるように座敷に座った影がこちらに背中を向けて、軽く団扇を仰いでいるのが目に映った。母だ。母の仰ぐ団扇の風が傍らに休むその子の髪を微かに揺らす。
艶やかな黒髪を布団の上に広げ、すやすやと寝息をたてているのだろうその姿を思い描いて、亮太は表に駆け出した。
もうありえない光景だ。なのに母はあの子の白い額を撫で続ける。
――少したてば――。
亮太は父の言葉をふと思い返した。
少したてば、母さんも落ち着くだろう。それまでそっとしておいておあげ。
髪を撫でながら言った父の顔はよく見えない。遠くて、暗くて。
坂道を一心に上っていくと、跳ね返った光で目の前も頭の中も真っ白になっていく。
ゆっくりと、俯いたまま白い坂を登っていく。猫の鳴き声が横を過ぎる。はっとして歩みを止めると坂道の曲がり角。
その突端に立って、丁度出来ていた木陰に身を置くと、亮太は小石を蹴った。
蹴られた小石はぱらぱらと音を立てて切り立った雑木林に落ちていく。
不意の音に蝉の声がやんで、しばらくしんと静まり返った道を、また蝉の声が波のように流れ出す。
たった漣は次第に大きく、うねりをともなって、寄せては返す。
海の底も、こんな風に煩いのかしら、亮太はそう思い浮かべて目を伏せた。
静かならば、海の底が良い。
蝉の声は煩すぎて、自分の周りの何もかもを埋め尽くしていくような気がした。
蝉だけではない。微かに遠く、家の軒先に吊るした風鈴の音色。ほら、また。
母親があの子に風をやるたび鳴り響く。
亮太は耳を塞いで頭を振った。
煩い。煩い。煩い。
突端の向こうの海から、波音が耳に響いた。
蝉の声。いや、波音。いや、風鈴、風の音。
海の底はこんな風に煩いのだろうか。それとも静かなのだろうか。
亮太は波の向こうに姿を消した妹の姿を思い出した。
お前もこんな煩いところにいるのだろうか。それとも静かなところにいるのだろうか。
白い砂浜に目が眩んだ気がして、亮太はぎゅっと目を瞑った。硬く目を瞑ってもまだ、白い砂浜が脳裏に広がる。耳に音を届ける。
波の音が繰り返す。敦子の、自分を呼ぶ声がする。
声に従い海に目をやると、青い波、黝い波、白い馬、波頭が砕けて陽射しにきらめく。幾千幾万もの硝子の欠片、音を立て、砕けて生まれる虹の粒。
まぶしくて目が眩む。それでも聞こえる呼び声に、白い砂浜を踏みしめて、波に向かって歩き出す。
待ってろ、敦子。今、そこに――
不意に身体が浮いて、亮太は顔を上げた。腹に圧迫感がある。息が苦しい。咄嗟に後ろを見返った。
「………」
眩しくて目を閉じると同時、すぐに足元が地について、人影が手を伸ばして髪を撫でた。白い手だ。
「…あぶのぅございますよ」
しなやかに黒髪の揺れる。白い顔。濃い藍の着物、紗が重なりで微妙な模様を生んでいる。
その白い顔が、突端の先、ずっと先の海に目をやり、
「…海の向こうには、綺麗な声で歌う人達が居りましてね、その声に導かれて、海に還るんでございますよ」
見上げると穏やかに笑っている。
海に向いていた顔が、亮太を見つめる。袂から伸びる白い腕が海を指差し、またあちらを見やり、ほら、手を振ってございましょう?、と。
切り立った崖、濃い緑の木々の間から広がる海。惜しげもなく振り注ぐ陽光に光る漣、青い海の間に白い波が立つ。
白い波が揺れて風花のように散る。散った花がまた揺れて、こちらに向かっておいで、おいでと手招きする。
「…大概は還る時分が決まっておりますから、ただの波音、あぶかしいものでもございませんが、たまさか、誰ぞを呼んでいる声を耳にして、己が呼ばれたと勘違いをしたものか、そのまま付き従って彼方に歩んでしまう。そうして戻れないものも居りましてねぇ」
いつ膝を折ったか、同じか少し低い目の高さ、瞳を覗き込み、こちらに向かって口許でゆっくり笑むと夏の陽も緩む。
ですから、お気をつけなさいまし、と。髪から手を離し、立ち上がったその人影は坂道を下りはじめた。
亮太はその背中をじっと眺める。黒い背中。影のような細い、背中。あれは、あの子を連れてきた男だ。目を細めて、ちっとかそっと考えた。
亮太にはその姿に見覚えがあった。熱病をばらまいた男だ。忘れようがない。
こんな声で喋るのだ。静かな、落ち着いた、低い声。流れる水のような声。
母さんはあの子のお医者様だといった。
父さんは人形屋だと言った。
一月ばかり前にあの子を連れてやってきた。
敦子が居なくなって、二月。もう二月なのだろうか、まだ二月なのだろうか。
まだ微かに眩迷する視界の先の男の背を亮太は追った。
重なり追う足音を男は気にも留めない。この陽射しの中を暑くもないのか、同じ調子でただ歩く。歩いて歩いて、坂を下りきると、今度は壁づたい、社のほうに折れて曲がる。
間違いない。うちに向かっている。何をしにきたのだろう。あの子を連れ帰りに来たのだろうか。それとも…?
濃い緑の葉がひょっこり姿を覗かせる灰色い壁を同じように曲がったところで、立っていた男の膝にぶつかった。
「…お前様、あたしになんぞ、御用かぇ?」
男は袂の下で腕を組んだまま、亮太を見下ろした。
「……帰ってこられないの?」
「あい?」
亮太は男の着物、揺れる袂を握り締めた。
「声を聴いてしまったものは、帰れないの? だから敦子は帰ってこられないの?」
男は軽く眉を寄せ、小首を傾げた。目線をよそに落とし、浅く頷く。
「…なるほど、荒川様がお宅の…お兄ちゃんかえ」
亮太は一つ頷くと、男の目をじっと見上げた。
「もう、帰ってこられないの?」
「……さって、そいつぁ、あたしにぁしかと答えられやしませんが」
言いながら男は顎先を撫でた。
「あたしの仕事は人形を作ることでね、海に還った者を呼び戻すことじゃあない。力になれなくて申し訳ないねぇ」
男は亮太の頭を軽く撫でた。
「お前様、妹さまがお戻りになるのを待っていなさるのかい?」
言われて、はっとしたように亮太は男の顔を見た。
「………」
男はその顔を見ると、何もかも見透かしたような目で微笑んで、もう一度髪を撫でた。
「…遊びにお出掛けになるンでしたら、お気をつけなさいましね?」
微笑むと、ゆっくりと背を向ける。そのまま道を歩き出すのを一瞬見やって、亮太は踵を返すと坂の方に走り出した。
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