第14話

 何かありましたかと柔らかな声を掛けたのは藤乃だ。

 このところ、日々無口になっていく梓に問いかけたのだが、梓はその声にはっと顔を上げたまま、ただ無言でしばらく藤乃の顔を見つめ返すに留まった。

 母親の死以来、母方とは付き合いの遠ざかっていた家だったが、善郎が利かぬ身体になってしまった今も付き合いを見合わせるほど薄い情けの持ち主ではなかったらしい。

 善郎の仕打ちは今でも憎いが、それでも梓は忘れ形見だ。父親がああ成ってしまっては、放っておくわけにもいかないと思ったのだろう、記憶の片隅の伯父が現れたのは間もなくのことだ。

 それからは月に何度かは顔を見せるようになった。年頃の娘が感心にも世話を続けるのが、哀れでもあったからかもしれない。

 一月、二月とたち、替わった季節も深まったある日、同じように現れた伯父は、梓の行く末を心配してよくよく考えたのか、見合いの話を土産に現れたのだ。

 家の格式と年齢の釣り合った良縁は、伯父の愛情であった。

 梓の心は藤乃にあったが、それを知るものはない。ないが故に、伯父の優しい心遣いと自分の想いとに挟まれて、その話は重く梓の上に圧し掛かった。相談の相手もしようもなく、ただ胸の内で苦悶した。

 それでも、いたずらに返事を延ばすことも出来ず、梓は独り胸を痛めるしかなかったが、それを見咎めたのか、何も知らぬ藤乃が声を掛ける。

 梓は藤乃に伯父からの話を出来なかった。なんとしたなら、自分にまったく望みがないことを知る結果になるかもしれないからだ。

 傷つくことを恐れ、言葉にならない思いが胸のうちに溢れてつまる。だが、どちらにしても、このままでは伯父は話を進めてしまうだろう、もう残った時間は少なかった。

 梓は一旦下ろした顔をもう一度藤乃に向けた。

「…私に…お見合いの話が…あります」

 ためらいがちに梓は口にした。

 雪見障子は室内の温度で曇っていた。向こうの庭先が曇った窓で雪に覆われているようにも見える。

 病人の寝息を聞きながら、梓は顔を下ろし、目を閉じた。

 藤乃が穏やかに微笑んだ気がしたからだ。

「…おめでとうございます」

 畳にゆっくりと手をつける藤乃の所作に、梓は、ああ、と息を吐いた。

 望みはまったくなかったのだ。はじめから、望みなどなかったのだ。善郎が倒れたとき、今も、自分を支えてくれる藤乃に、自分独りが浮かれ、喜んでいたことを知った梓は、体中から力が抜ける思いがした。

 春を待たず、梓の婚礼は決められた。無言の花嫁御陵は周囲の言祝ぎの声に、寂しげに微笑むだけだった。




 声がした。

 父親の叫び声か、母親の泣き声か。それとも善郎の呻き声か。

 鬼に食われて彼らが泣く。

 鬼が…自分が、彼らを喰らう。

 腕をもぎ、足をもぎ。泣きながらそれを食う。喰いながら泣き続ける。

 もいだ腕が生え変わるので、何度も何度ももぎ続け。そのたびに父が泣く。母が泣く。善郎の赦しを求める姿が瞳が映る。

 それを聴きながら、喰らい続ける。

 終わりがない。喉が渇く。

 渇きを癒す何もない。

 彼らの叫び声は渇きを増すだけ。

 まだ足りない、そう聞こえる。

 まだ足りない。

 まだ足りない。

 身のうちで、鬼が哭く。

 まだ足りない。

 熱に浮かされ、渇きに堪えられず、鬼の声にただ従う。

 疲れて、疲れて、もういいのに、まだ足りない。

 涙が零れた。

 泣きながら、喰らい続けた。

 …まだ足りない……

 …まだ…足りない…

 ……まだ……

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