第15話

 辻町淳――今は三橋敦となった彼は、春も深まったある日、町中を独り歩いていた。

 その面持ちには暗い影があって、婚礼前に見られていた人のよさげな、あどけない顔ではなくなっている。眉間に皺を寄せ、不満を湛えた顔だ。二十半ばの顔が老けて見える。

 見合い話が持ち込まれたときから彼は、身体の利かない舅のいることをちゃんと耳にしていたが、見ると聴くとは…、という言葉もある、特に病人などというのはまったく始末に終えない。

 三橋の家の財産も美しい梓も魅力的で、一も二もなく縁談話に飛びついたのは、家に居たところでどうせ次男だ、そのうち追い出されるのが関の山なら、格の釣り合いの取れた家に婿養子に入るのは運が良い、そう思ったからだったが、あの病人。

 舅は使用人たちに世話をされることを嫌がった。何かにつけ梓を呼んだ。呼ぶといっても声が出せるわけではない、ただ、使用人たちの顔を見ただけならばそれだけで嫌がった。呻いて、手間をかけさせる。それで彼らは仕方なく梓を呼ぶ。

 新床の夜ですら、梓を呼んだ。

 今、若夫婦の部屋に鈴がたらされている。紐を手繰ればすぐ隣にある善郎の部屋の、彼の指につながっていて、微かに動く指先で、りん、と振れば梓は父親の元に駆けつける。

 そんな生活が待っているとは夢にも思わなかった敦は、しばらくはそれに目を見張り、ついで呆れ、今は憎しみさえ抱くようになっていた。

 確かに自分は婿養子だが、あまりに軽んじられていることに、苛立ちを覚えるほかにやりようがなかった。不満のぶつけ先すらなかったのだ。

 歩く道端の土塀からは鳥の声が響く。梅も終わり、木瓜の赤いのがちらちらと見えても敦の心からは憂鬱が去らない。いや、家の中にいると病人の臭いに余計に気が滅入った。

「……もしや、三橋の若旦那じゃありませんか?」

 掛けられた声に敦は振りかえった。見慣れない男だ。

「…ああ、失礼いたしました。私は善やの徳次と申します」

 訝しげな敦の顔に気付いたのか、男は物腰柔らかく頭を下げた。人好きのする微笑を浮かべた顔は、年のころ四十半ばであろうか。

 すっかり春めいた空の下で徳次と名乗った男は笑う。笑いながら、季節の話、商売の話、当たり障りのない世間話に花を咲かせる。決してなれなれし過ぎもせず、慇懃でもない、だが丁寧に此方を立ててくれる、二十ばかり上のこの男がとる態度こそが、「旦那」となった敦の望むところで、彼はこの徳次という男が気に入った。

 道行を供する形で歩く徳次に、もうしばらく後にはすっかりと敦が心を許していたのは、徳次の人に取り入る術の巧みさに他ならなかったろう。歳若い敦に彼を見抜くことは出来なかった。

「…ところで、旦那様はどちらかにお出掛けでございましょうか?」

 それまでの世間話とは違った様子にふと徳次が問いかけた。

 敦は首と手を同時に振る。当てなどない。ただ病人の臭いが厭で出てきただけだ。そうとは口に出さず、ただ、いや別に、と答える。ちょっとした気分転換だ、と付け足したのは憂さ晴らしという言葉をはばかった婿養子の卑屈だ。

「…ああ、それならば良かった。旦那様のお時間をとらせたばかりかと。どうです、お近づきのしるしに」

 言葉に頷きながら徳次は敦を誘った。私と一緒にいかがですか?、いえ、この辺りはちょいと私は詳しいんでございますよ、と。

 その誘いに敦は乗った。

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