第13話
運が良かったのか悪かったのかと訊ねれば、多分悪かったと答えるだろう。だが、何も知らないものには命冥利、死ななかったのは神仏の加護か。故に答えは、まさに不幸中の幸いだ。
善郎は驚きのあまり階段から転落した。打ち所が悪く、生死を彷徨った。
そのまま死ねなかったのは彼の罪だ。善郎は動くことも出来なければ、意味を成さないうめき声を上げるのみの身体になったが、それでも生きねばならなかった。
誰が何の話しているかも判った。判っても、何一つ相手に伝えることは出来なかった。
いくら金を積んだところで、治る病と治らぬ病がある。彼の身体は治らないものであったが、死はまだ遠かった。
誰も藤乃のしたことは知らない。善郎には伝える術がない。ただ、佳枝だけが藤乃を恐ろしいものを見るような瞳で見たが、何も言いはしなかったし、調べることもなかった。疑いはあっても、まさかそこまではすまい、と。目をそむけた。彼女にはそれが精一杯だったのだ。
父親の身に降り注いだ突然の不幸に、梓は深く心を痛めた。彼女に出来ることは父親の看病だけであったから、梓は心を込めて毎日病人に尽くした。
尽くしても尽くしても、治る見込みのない病だ。治らぬものに注ぎ込む心は、陰を呼ぶ。嘆き、疲れ果てていた梓の支えはただ一つ、傍らに立つ――藤乃だった。
藤乃は優しかった。
寝る間を惜しむ梓を休ませ、代わりに善郎の面倒をみた。身体を拭き、下の世話までした。
善郎にはもともと親戚、などというものはなかったし、梓の母の垂死は酷いもので、爾後母方の親戚とは疎遠になっていたから、自然心頼みにするものの少ない梓が今まで以上に藤乃に頼るのを誰が止められたろう。
父親の横で顔色を青くして座る梓に、廊下からそっと声がかかった。
「お嬢さん、少し休まれませんか?」
まだ日は残っていて、外からの日差しが廊下に満ちていたが、その日差しは返って梓の顔に濃く陰を落とした。
「お疲れでしょう、お部屋で少し休んでらっしゃってはどうですか?」
声に梓はゆっくりと振り返った。
疲れ、身体は思うように動かなくてもその声に心はときめいた。
指先で軽く顔色を隠しながらも、微笑を浮かべる。
「…ありがとう、藤乃さん。いつも…ありがとう」
「お気になさらなくても。さ、お嬢さんが起きて戻られるまで、私が此処に居ますから」
小さく頷いて、梓は立ち上がる。
入れ違いに藤乃が部屋に。そして善郎の傍らに座る。
その背中を見つめてから、後ろ髪惹かれるような思いで梓は視線を外にやった。顔が火照る。
藤乃の後ろで雪見窓を設えた障子の閉まる音がして、硝子の向こうで梓の姿が去っていくのが見えた。
それを見送り、善郎に視線を戻す。
藤乃は善郎の耳元に顔を寄せた。
「………旦那様、お体を拭きましょうか? それとも水でも飲まれますか? 旦那様?」
低い声に囁かれ、善郎はかっと目を開けた。
声の主がわかった。同時に恐怖が虫のように彼の身体を這いずり回った。
声にならない声を上げる。
「……そんなに怯えなくてもいいじゃありませんか、旦那様。命冥加な方だ。母が守っているんですかね? それとも、父がまだ死なせぬと云っているんですかね?」
耳元から顔を離し、傍らにある桶に目をやる。布巾を絞り、鼻と口を覆うようにそうっと掛け、耳元で囁く。
「……大丈夫ですよ、苦しいだけです。死んだりはいたしません」
薄く笑んで顔の半分を覆われた善郎を見下ろす。濡れた布に息を奪われ、苦しげに顔をゆがめて開いた口の形に布がぱたぱたと上下するのを眺める。
「…苦しいですか、旦那様? ねぇ、どれほど苦しいでしょう、旦那様…?」
言いながら、布巾を顔から外す。善郎の、息を求めて激しく咳き込むのを聞く。
「そんなに慌ててしまっては、喉が詰まってしまいますよ、旦那様」
笑みを浮かべながら布巾を絞り、桶の縁に掛ける。
動かぬ身体で、ぎょろりと目玉だけを動かした善郎の瞳に、鬼の顔が映った。
息を呑んで、不自由な身をよじる。
「どうかなさいましたか、旦那様?」
変わらずに穏やかな声だけが響く。顔を覗き込むのは、光の加減か、顔がもうわからない。
ひゅうひゅうと喉の鳴るのを聞きながら、藤乃は布団を掛けなおした。と、足音が響く。そちらに顔を向けると、一拍おいて、からりと障子が開いた。
「藤乃さん、いつもご苦労様やなぁ。なんか用事はないかいね?」
まだ顔に幼さを残した娘が明るい声を上げた。立ち上がり、畳の足音に変わる。
「ああ、丁度良かった。旦那様はもうお着替えなさったのかな?」
「まだや思います。てとぉてへんさかい」
はきはきとした返事に軽く頷く。
「じゃあ、お湯を頂けるかな。悪いね?」
娘は軽く手を振った。
「とんでもない。藤乃さんが旦那様のお着替えやってくれはるさかい、どんなに助かってるか。嬢様と二人がかりでも、重とうておもとぉて」
娘は屈託なく笑った。
「女の細腕じゃあ、大変だね、確かに」
「男手ゆぅんは、大切やわ」
娘は明るい声でそういうと、藤乃から渡された手桶を受け取り、立ち上がった。
「ほな、お湯とお着替えと、もってきますさかいに」
「ああ、よろしく頼むよ」
立ち去る娘の背を見送り、藤乃は善郎を見下ろした。
「…女というのは、かしましいものですね、旦那様?」
薄く笑う。低い囁き声を善郎の耳に落とす。
「かしましい上に、堰の切れたか箍の外れたかで、とんでもないことを平気でしでかす。ねぇ旦那様、梓お嬢さんが私におっしゃるんですよ。二人きりで逢いたいと。人目につかぬところで逢いたいと。旦那様、母もそうだったんでしょう?」
善郎の見開かれた目をまっすぐ見下ろして藤乃は笑った。布団をめくり、首筋に手を回す。腰に手をやり、引き起こすと同時に耳元に囁く。
「…それでね、折角ですから、旦那様が母をそうなすっていらしたあのお部屋をね、使わせていただきました。あれはいいお部屋ですねぇ。声も灯りももれない。どんな狂態も、隠してくれる」
善郎が、声にならない声で叫び始めた。微かに動く手を動かし、彼の腕から逃れようと身もだえする。
足音が響いた。
「藤乃さん、どないかしはったんです?」
着替えと湯桶を手に娘が入る。
「いえね、ちょっと脱いでいただこうと思ったんだけど、お嬢さんがやっぱりいいんだろうね? いつものことだけれど」
さも仕方なさげに微笑んで、藤乃は善郎の身体を支えると、こともなげに浴衣を剥いだ。
「旦那様、暴れはったらいけませんて。嬢様は今、ようようお休みになったところですさかい、起こさはったら可哀想ですよって」
うなり声を上げる善郎の身体をなれた手つきで拭いていく。
人形のように浴衣を脱がし、赤子をあやすように垢を拭き取り、声を掛ける。
「すぐにさっぱりしますよって。あたらし寝間着にかえましょうなぁ」
弄ばれる玩具の扱いをただ声を上げて善郎は抵抗するが、その抵抗が何なのかは誰にも伝わらない。
藤乃の言葉が嘘であろうと誠であろうと善郎にはそれを確かめる術はなかった。それどころか、確かに藤乃を頼みとする梓の姿は、まさに女のそれだと見て取れたから、善郎はその言葉を信じるだけだった。
自分をこんな姿においやった男を頼り、裏切る娘。そしてただ嘆くことしか出来ない自分を呪った。
藤乃は苦悩を浮かべる善郎に、穏やかに微笑みかけ、そうしてその耳に毒を吹き込み続けた。
何を吹き込んだかは、誰にもわからない。ただ、膿のように善郎の身体に根ざして広がり、身体を、心を蝕んだ。
蝕まれて上げる声に藤乃は耳を傾けた。
自分の中の鬼が、もっと聞かせろと叫んでいる。
まだ足りないんだ。
もっと聞かせてくれ。
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