第18話

 みしみし、だか、メキメキだか。続いて小さい、軽い音。場に相応しくない音が響いて篁はそちらに顔を向けた。

 顔を向けられてもしばらくはぼんやりと彼方を見る眼差し、いや、何も映さない眼差し。

 彼の手にはのみがあり、木があった。木は彼女の顔を浮かび上がらせ、大介はそれを彫り起こした。

 一心不乱のその横で、見守るように見つめる面が一つ。花が一つ。

 ああ、哭くな、鬼よ、待っているがいい。お前は独りではない――

 此処にはない大介の顔を見ながら、篁が鳴海さん、と。静かな声。

 不意に夢から醒めて、大介は障子から手を離した。奇妙な音は、大介が握り締めたその障子があげた声だ。白くなるまで握り締めていた手を離して、すみません、と。慌てて後ろに下がる。

 身を入れていたのが余って、桟を握り締めていたらしい。おまけに障子に、指の跡。穴が一つ。

「す、すみません、ご隠居様~」

 がっくりと肩を落として両手を合わせると、子供ではない、張りなおしますから、と悪気のないのを謝って。

 それから篁に顔を戻すと、苦笑を飲み込めずに肩を震わす姿が映り。

「…たっ、た、篁さん~」

 笑ったまま顔を伏せ、片手の平を大介に向けて、ちょっと待ってくださいね、と。言葉の代わりの仕草をやって、一息つく。

「…炭の火は焔を吐き出すたびに身を削り、やがて灰となりましょう。鬼の声に突き動かされ…復讐に囚われて、成し遂げても渇きはいえますまい。溜飲さがっても、何も生み出しますまい。藤乃さんもそうだったのでしょうか、いかな三橋の家の旦那さんの不幸な姿を見ても、結局藤乃さんの心は晴れなかったのでしょうね、だから、足りない。鬼は貪欲に何もかもを飲み込みたがりましたが、思えば――善郎のときにも一度、彼は追われておりました」

 篁の声に面の納まった箱を手に、ご隠居が立ち戻った。

「…こいつにぁ、天敵がいたのだね?」

「あい。たった一人」

 頷く姿に、あ、と声を上げる。

「梓さん」

「…あい。梓弓。鳴弦、響けば破魔の声。鬼にたぶれた彼の心に鳴り響いて、ようやく正気に戻った、というところでございましょうか」

「それで…お二方はどうなったんです?」

「藤乃さんは、梓さんの顔を写して一つの面を打ちました。それを、鬼の面と合わせて、ご両親や旦那さんの菩提寺に納められたそうなのですが、鬼の面だけがいつの間にか消えておりましてね。それで、御住職にたのまれて、そこかしこ探していたんですが、ようやくたどり着いたというわけで」

 ご隠居は頷きながら、箱を篁のほうに押しやった。

「…お寺さんのものなら、商売にぁならないねぇ。寄進ってぇことで、宗匠、かたづけておくんない」

「ですがご隠居」

「功徳ですよ、宗匠。しかし、なんだね、そのお嬢さんの面ってぇのを拝みたいもんだねぇ? 出来ればさ、そいつを見せておくんない。それで一つ、丸くおさめてさ」

 手を顎にやって髯を撫でる指先。笑いながら出した声に

「ああ、それなら…」

と。篁はすっと手を伸ばした。

「…お譲りいただけないときにぁ、こいつも一緒にしていただこうと。いやさか、離れ離れよりかはそちらの方が随分と良いもんですから、そんな心積もりもございまして」

 老人と自分の間においた風呂敷包みに白い指先伸ばし、濃い紫のその布を緩やかに剥いでいく。風呂敷が風を孕むと焚き染められた香か、ふわりと不思議な匂いがした。

 知らずと身体を前に倒して篁の手元を覗き込んでいたご隠居の瞳に、やがて映る仏の姿。

 大慈悲観音菩薩。

 ゆっくりと老人は手を合わせて瞑目した。

 果てない微笑み。梓の顔かもしれない、だが、仏の面だ。すべてを赦し、包み込む。喰らうなら、すべてを。その身のすべてを与える仏だ。

 目を開けた御隠居の後ろで大介が嘆息漏らした。

「………巣晴らしい、ですね。素朴ですが、…ああ…」

 言葉を続けられずに大介はただその面を見つめた。知らずに片手を耳に添える。

 鬼の慟哭が消えていく。耳を打っていたあの泣き声を包んで水底に共に沈むように、或いは一緒に天に昇るように。微笑に似た不思議な表情が――

「……神さん仏さん、揃われて時折残酷なことをなさいます。まるでこの一対の面、思えば人の心の鬼と仏を彫りださせたかったがために、藤貴さんの、その奥方の、その息子の、梓さんの命、人生に石を投げ込み、無理やり波紋立たせたようで。……それでも、後に残るこの面に、あたし達は心動かされるのでございましょう」

 篁が重ねた言葉に大介はゆっくりと頷いた。

 地獄を見なければ鬼は打てまい、仏を見なければ慈悲を知るまい、心の中に恒にある怒りと赦しと。

 面に向かったものはほんの一瞬、知るのだ。心の奥深く、己も知らない姿。

 ――面は、鏡だ。

 篁は風呂敷を包みなおすと、ご隠居が差し出した箱の蓋を開け、綿を重ねてそれを入れる。

 もとからそうであったようにぴたりと納まった箱を閉じると懐から取り出した風呂敷で包んで、長居いたしました、御隠居、と。

「さって、長居いたしました、御隠居、そんならあたしはこれにて失礼いたしますが」

 ゆっくりと立ち上がった篁に大介は声をかけた。

「お疲れ様です。…ねぇ、篁さん、お連れのご夫人が、そのお寺さんの――安寿さんでいらっしゃいますか?」

 実は――梓ではないのかと、そんな期待をしながらかけた声。篁はゆっくりと大介を振り返った。

「…あたしは、一人で此方に参りましたよ、鳴海先生?」

 篁の声に大介はその奥を見やった。

 老婦人が腰掛けた辺り。ご隠居が、ほら、足元にストーブを――

 篁以外に姿のない店の中に大介はゆっくりと顔を上げた。

「……左様、そんなら」

 緩やかに会釈し、篁は箱を抱いて歩き出した。

 足音は一つ。

 すでに暗くなり始めた外を映す磨り硝子の扉が篁の姿を飲み込んで、しばらくは微かな声を上げていた。

 外は青闇、黄昏時をすぎて、もう人の姿は曖昧で。


 ただ、仏の微笑だけが心に残っていた。


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青蛙堂綺譚 @syu_kiryu

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