第17話
通夜、葬式におとなう客も、お焼香の一つを上げに来る者も、大しては居なかった。
隆盛を誇っていた三橋の家の当主の――元の主のものとは思えない静けさ。その中で忙しさにのめりこむようにこまごまと動いた。
形ばかりの精進あげ、酒肴の席すら長くはなく、そぼ降りだした雨に背中を押されるように引き上げる人々。
その背中を見送った後は、狭いはずのこの家が広々と感じるほどにがらん、としている。
喪主である梓は部屋の片隅でぼんやりとたたずんでいた。
三間続きの狭い部屋。一番奥の開け放たれた庭を眺めるその場所で、濡れる木々も見えず、ただ、屋根に落ちる雨音、地を打つのだけを耳にしている様子。
湿気を含んだ風が時折抜けて、淡い香りが。
誘われるようにそちらに顔を向けるたび、人形のようにただただ其処にたたずむ姿がある。
したしたと土を打つ雨音、屋根を叩き、葉を叩き、落ちる雫。露に濡れる髪。
ぼんやりと外を見つめ続ける彼女の横手に、白い箱。すっかり小さくなった父親の果ての姿に手をやって、雨音を聴き続ける背中。
「…お嬢さん、冷えましょう?」
酒肴の席を片付けて、ようやく梓に声をかけた。
「…お嬢さん?」
答えはなく、雨音だけが。しばらく後に、ようやく梓は口を開いた。
「……お嬢さんは、やめて…」
重い口から出た声は掠れ、虚ろを響く。
もう、お嬢さんなんて身分じゃないのを知っているでしょう?
「…ですが、私には、お嬢さんはお嬢さんですから」
私にとっても、貴方は貴方だわ。
梓は酌婦の仕草でこちらを見返った。身体をひねり、髪を揺らせ。おくれ髪を撫でつけながら、伏せる眼差し。濡れる唇。
善やさんがね、香典代わりだといって、残りの借金を棒引きにしてくださるって。でも、この後、どうしろっていうのかしら?
身売りの生活から開放される喜びを梓は持たず、苦笑を浮かべた。
「…どうしろって…お嬢さん…」
ねぇ、藤乃さん、貴方はそれでいいの?
瞳を伏せたまま問いかけられて、梓の横顔を見つめた。
「…当たり前じゃないですか、もう借金がないのなら、お嬢さんは自由の身じゃありませんか」
本当に、それでいいの?
再び重ねられて、訝しげに梓の顔を見つめ続けた。白い首筋に髪が落ちる。ゆっくりと梓は顔をあげ、藤乃の瞳を見つめ返す。
「…もう、いいんですの?」
「何がですか?」
「…だって藤乃さん、貴方、三橋の家を憎んでらっしゃったのでしょう?」
奇妙に緩やかな梓の声に、ゆっくりと目を見開いていった。
驚きはじわりじわりと身の内に食い込む。
「……お…嬢…さん…」
梓は己の横の白木の箱をするりと撫でた。
「父は、ほら、こんな姿になったけれど、私はまだ此処にいるじゃない…?、いいの?」
言葉が続けられずに口を閉じたこちらに向かって伸びる白い指先。
「…もう、気は晴れまして?、もう足りまして? 貴方は私を喰い殺しては下さいませんの?」
――貴方の鬼は、と。
「…私は貴方に喰い殺されたいのに。それすら叶えては下さいませんの?」
畳を滑る衣の音。伸びた指先が顔色を失った頬に伸び、ひたりと触れる。
「……お嬢さん…一体……?」
「気付かないと思ってらしたの?、だって私、ずっと貴方を見ていたのよ」
頭の中まで白くなり、あえぐように声を出した。
「………ずっと…」
「ええ、ずっと。昔から。ずっと」
ずっと知っていましたわ。貴方が父を憎んでいることを。貴方が敦を嵌めた事も。
でも、私にはそんなこと、どうでもよかったの。だって、貴方は、その間、ずっと私の傍にいてくださったでしょう?
貴方は私のこと、ちっとも見ては下さらなかったけれど、私が苦しめば、父が苦しむ。だから貴方、私には優しかったでしょう?
私はそれでよかったの。
父が苦しめば、貴方が喜ぶんですもの。
霞がかる脳裏に焼きつく梓の微笑みは美しかった。優しかった。それでいて、激しかった。鮮烈だった。
今この目の前にあるものなのか、遠い昔に見たものなのか、彼女に呑まれてわからない。
――鬼が叫んだ。
足りぬ。と。
自分が叫んだ。
もう十分だ、と。
梓が笑った。
私を喰い殺して、と。
鬼に梓が身を捧ぐ。
私を喰らって、と。
ゆっくりと身の内に温もりが染み入る。
重みが加わる。
梓の重みを抱きとめて、もう何も考えられなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます