第3話
「いいんですか?」
どうぞ、が、自身で蓋を開けなさい、の意味と解した大介は、頷く老人の顔を見つめてから居住まい正すと箱に目を落とし、その蓋を両手ですっと持ち上げた。
顔をちょっと傾けて中を覗き込む。
目を見開く。
二、三度目を瞬いて、慌てたように蓋をする。
「あ、え、あ?」
言葉を失って老人の顔を見上げる。それからもう一度、今度はゆっくり、こわごわと蓋を開けた。
蓋を抱えたなりの手が止まる。見つめた視線がぼんやりとしたものになったのは、或いは集中のしすぎか。
仮面。白い布地の上に、面が一つ。
多分能面だろう。女性の顔ほどの大きさ、小面や猩々、三日月、尉やベシ見、能面にはいろんな面があるが、ここにあるのは般若と獅子口を足して二で割ったような――いや、まどろこしい、一目で思い浮かべたものはただ一つ。
鬼、だ。
箱に収められていたのは鬼面だった。或いは切り落とされた鬼の顔。
蓋を手にしたまま、呆然と長い間それに魅入っていた大介は、ため息を一つついてようやく蓋を箱の脇に置いた。
面は本来動くものである、そう書いた一文を不意に思い出していた。誰であったか。
そう、面は動く。肉体を持ち、甦る。向かい合ったものの中身を抉り出すのは、仮面の持つ力の一つで。抜き取られた顔、魂。
そこにあるのは鬼だった。人らしさというものは一切ない。激しい憤り。怒り、こちらを恫喝し、威嚇する声、向かい合うものを恐怖せしめ、畏怖せしめる鬼の姿。
そしてその底に流れるもの。
面には人としての表情はない。切り取られた「顔」が並んでいる。それは死者に近く、或いは死そのものとも思われる。
ただ、それがひとたび舞手に与えられると、その顔は命を取り戻す。甦った面は泣き、笑い、怒り、喜ぶ。舞手が表情を現すのではない、面がその舞手を呑み込むのだ。面をつけた人は、その面そのものになる。面とはそういったもの。
だが――
だが、大介の目の前に在るのは、鬼だった。
ぽっかりと開いた大きな穴の中に、暗闇という身体をもって鬼が立つ。穿たれた目の奥の闇がこちらを飲み込む。目の前の鬼は怒り、憤り、こちらを追い立て、暴れ狂う。この腕を引き、責めたてる。
面は生きていた。生きて叫んでいた。その叫びは、大介の耳には慟哭となって響いている気がした。塞げる音ならそうするが、それが響くのはこの耳ではない。
鬼の声が――鬼の叫びが――
「――ああ‥‥」
大介はもう一度、そっとため息をついた。
目を伏せ、面にそうっと指を伸ばす。
「何が、哀しいのでしょう‥‥」
ポツリともらし、眉を寄せ。
老人はそれを見つめて口を開こうとしてから、かける言葉を悩んで口を閉じた。軽く眉を寄せ、腕を組む。
この小説家先生の感性は不思議で、澄んだ眼で世界を見透かす。
彼が哀しいと言うのなら、この鬼は、鬼ではない。哀しい生き物、その面――と、その時、扉の開く音。
「いらっしゃいまし」
大介にかけようとした声を客のほうに向けて御隠居は戸口を向き直った。
「‥‥こんにちは、ご隠居さま。ちょいとお邪魔してもよろしゅうござんしょうか?」
濡れたような光沢をもつ濃藍の羽織の上には、面のように綺麗な顔が乗っている。
大介とは違った穏やかな微笑をたたえて、ゆったりとした所作で頭を下げる。手にはお遣い物のような風呂敷包みだ。
「おや、宗匠、どうなさいましたよ、こんな刻限にさ?」
珍しい、の声を飲み込んだ老人の声に大介は振り返った。片手を畳につけ、身体をそらして障子の向こうをひょいと覗いて黒髪の艶やかな姿を見遣る。
「あ、こんにちは、篁さん」
行儀のあんまり良くない姿勢で頭を下げる。
「ああ、鳴海先生でしたか。御無沙汰いたしております」
「先生はよしてくださいよ。僕も橘宗匠、とか、綜月先生ってお呼びいたしますよ?」
緩やかに頭を下げる姿に向かって大介は茶目っ気に返す。それから篁の後ろに立つ老婦人にそうっと頭を下げた。
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