第7話

 明るい声と一緒に長い黒髪のしなやかにゆれる娘が入ってきて、藤乃さん、いらっしゃる?、と。赤い髪飾りが夏の陽射しにあたって光を零す。

 その声に彼は顔を上げた。手にしていたのみを放し、胡坐に座っていたひざを立てて立ち上がると、戸口のほうに歩み寄った。

「どうかしましたか、お嬢さん」

「ええ、ちょっと」

 そういってから、彼女はためらいがちに付け足した。

「ねぇ、せめて二人で居るときは、お嬢さんはやめてくれない?」

 一歩入った土間で彼女は恥らう花のように微笑んだ。

「…旦那様に叱られますよ」

 静かな声でそう言って、藤乃は困ったように微笑み返した。

 梓は三橋の家の一人娘で、三橋屋といえばこの辺りでも指折りの名家。旧家で素封家だ。その威勢は今藤乃の目の前の娘が着ている着物一枚にも現れる。絹の光沢、織り込まれた柄。誰が普段にこんな着物を着ていよう。

 手広く商いもしていて、藤乃に言わせれば、いや、世間の目から見ても、彼らは親しげに振舞うには、あまりにも不釣合いだった。気に留めようとしないのは彼女だけで、それは梓の純真さから来るものでしかない。

「構わないわ。父がなんて言っても気にすることはないのよ」

「そんなことをおっしゃるものじゃありませんよ」

 藤乃は娘に向かって諭すような口ぶりで話し掛けた。外の日差しのようにまぶしい娘は、その声に眉を寄せて俯く。

「今の父は嫌い。私、覚えているの。昔はあんな人じゃなかった。もっと……」

 唇を噛み目線をよそにやる姿を見下ろしながら藤乃はなんとも言えず黙り込んだ。

 彼にとっては彼女の父は最初から今と変わらない人だったから、彼女の憂いはわからなかった。

 何より、祖父が言う。旦那様にはご恩がある、と。幼い頃はわからなかったが、今ならわかる。三橋の家から藤乃たちは援助を受けていた。今でもわからないのは、何故三橋の旦那様が良くしてくれるのかということだけだ。

「ところで、どんなご用です?」

 藤乃は二人きりのときでも、親密さとは距離のある言葉をけっして崩しはしなかった。彼女の気持ちを知っていたがそれには気づかない振りを続けているのは、朴念仁と梓に思われることより、はるかに世間の目が痛いからだ。

 ものの道理のわからない幼い頃は一緒に泥まみれになって遊んだものだったが、両親のない藤乃は、自分に容赦なく浴びせられていた声に――身分をわきまえろという声に教えられ、ちゃんと距離をとるようになっていた。世間は自分の態度次第で優しくもなり、冷たくもなる。

「…ああ、あのね、うちの蔵の中のものなんだけど」

 彼女は指を組んで小首を傾げた。

「長い間使っていなかったみたいで痛んでいるけれど、ちょっといいものがあったの。それでね、直せるものなのかどうか見てもらえないかしらと思って」

「…わかりました。お嬢さんはいつがよろしいですか?」

「藤乃さんがいいなら、今からでもお願いしたいのだけど」

 もう一度、わかりましたと低く答え、藤乃は道具を取るために部屋に上がっていく。そのそっけない背中を見送って梓はほんの少し眉を曇らせた。

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