第8話
三橋家の土蔵は母屋の近くに二つ、離れの奥に一つあった。普段の荷物の出し入れは母屋に近い蔵であったから、離れの奥の土蔵を藤乃は珍しげに見上げた。
あまり手入れがされていないらしい、母屋のほうの蔵に比べるべくもない傷み方だ。離れの裏手では人目にもつかないし不便だから、忘れられて居るのだろうか。そういえば母屋のそばのほうに、もうひとつ蔵を作るという話をきいたような気がする。その時、何か話を聞いたような――?
しげしげと眺めていた藤乃の横で梓は土蔵の鍵を開け、引きずる重い音を立てた。それに気づき、後ろから無言で扉に力を添える。
その腕の下で頬を染め後ろを見返って、ありがとう、と。梓は微笑んだ。
外の熱気とは裏腹に、中に一歩入っただけで、ひんやりとした湿気が鼻腔から腹に落ちた。かび臭い、と一言で言うには不思議な香りだ。磨りたての墨のような、甘いような、懐かしいような。緩く小首を傾げた藤乃を置いて、梓は先に歩き出す。
扉付近は一歩入るとすぐに物がうず高く積まれてあって、奥に進むのは一人がやっとだ。まるで扉の内側に塀が建っている様子。両脇の棚にはほとんど物は置かれていない。やはりあまり使われていないらしい。
壁に突き当たるといっそう暗い向こうに木の階段が見えた。そういえば天井が低い。この蔵は二階建てになっているのか、そう心の中で思いながら藤乃は浅く何度か頷いた。目の前を行く梓の背中は階段のほうに向かって進んでいく。
「お嬢さん?」
声にちらっとこちらを振り返り、梓は階段を静かに上っていく。藤乃はため息を一つついてその後に従った。
一体直すほどの何があるというのだろう。持ち込んだ道具が、階段を一段上がるたびに、微かな金気の打ち合う音を立てた。
古い階段は藤乃の体重を受け止めるたび、みし、みし、と音を立てた。乾いた音がしないのは、蔵の中にある適度な湿気のせいだろう。手すりのない階段をあがりきった藤乃は、何気なく視線を横にやってから驚いたように立ち止まった。
薄暗いそこに広がるのは、土蔵の中というより、切り取った異国のようであったからだ。
味気ない壁を装飾するように張られた布。波打つ薄暗いそれは細かな柄の絨毯のようでもあった。暖かい色をしている。天窓からの微かな明かりに天鵞絨のような光沢を見せる。波斯絨毯だろうか。深い床の色は海の底のように思えた。
一つ足の丸い木製テーブルがある。薄暗くて材質はこれと決めにくいが、色合いから察するに、多分マホガニーだ。その上にあるのは洒落たランプ。シェードが滑らかな曲線を抱いたステンドグラスになっている。テーブルと揃いだろう椅子が置かれていて、横にはベッドだ。そして絨毯を挟んだ向かい、梓の前に洋箪笥が並ぶ。
箪笥の上には大きな鏡。そしてその手前にいくつかの人形が飾られている。黒髪の艶やかな市松人形、だ。洋室の中の和人形が、遠い異国の中に持ち込んだ故郷、過去をしのぶ思い出の品のように見えた。
藤乃はゆっくりと梓のそばに歩み寄った。
手を伸ばすと、人形の一つに触れる。箪笥の上には埃が積もっていたが、人形は埃を被ってはいなかった。ただ頬がこすったようにほんの少し汚れていて、多分梓が埃をはらったのだろう、そう思った。
懐かしい気がした。この人形を見たことのある気がした。
「…ねぇ、素敵でしょう?」
梓が藤乃を見返った。
「あ、ああ、ええ、そうですね」
あいまいに答えながら、藤乃は不意に思い出した。口さがない使用人たちが言っていたこと、頭の中に思い返して目線を動かす。
――旦那様は昔、お妾さんを住まわせていたことがあるんだよ
ああ、そうか。そう藤乃は頭の中で頷いた。離れの裏の土蔵が使われないのは、昔、お妾さんを住まわせていたから、だった。だから近寄ろうとはせず、新しい蔵を建てるのだ、と――確か、その女性は亡くなったはずだ。そう、土蔵の中で亡くなったから、使わないのだ、と……
不意に背中が寒くなって、ただなんとなく後ろを見返った。
嘘か真か、どちらにしろ興味のない話であったから忘れていた。何がどこまで真実かはやはりさっぱりわからないが、多分、此処に誰かを住まわせていたのは事実だろう。だとすれば、妾であるとか、亡くなったという話も事実かも知れない。藤乃は眉を寄せると人形から手を引いて、梓に目線をやった。
「お嬢さん、ここのものは、触らないほうが良いでしょう。もう出ませんか?」
妾の話が事実なら、梓は傷つくだろう。旦那様もこの土蔵の中のものを持ち出されて良い顔をするはずがない。藤乃はそう判断した。
もし、人が死んだことも事実なら、――此処で亡くなったことも事実なら、此処にあるものはすべて、死人の残したものになる。それは、不吉な気がした。
「まぁ、どうして?」
梓は一度藤乃を見返ってから、箪笥の開きを開けた。そこを開けると小さい引き出しが何段か並んでいて、その一つから風呂敷包みを取り出す。
「これなんて、物凄いの。私、初めて見たとき一人だったから、思わず声を上げちゃったくらい」
片手に持ち、紫色の風呂敷をはらり、はらりと解いていく。
「……お嬢さん」
諭すような口ぶりに、梓はうつむき、風呂敷包みの中のものを片手にとった。背中が邪魔で梓が何を持ったかは見えない。あるいはわざと見えないようにしているのか。
「…父のことはいいじゃない。父は父。私は私。あんまり言われると、恨めしい」
恨めしいのは父のことばかりを気にして自分の気持ちを考えてくれないことだ。ほんの少しでも自分のことを気にかけてはくれないのだろうか、と。自分の一人相撲なら、こんな恨めしいことはない。
梓は片手にあったものを顔にあてて振り返った。
黒い影が動いた。
――……りぬ…まだ…足りぬ………
藤乃の耳に声が響いた。
冥い声。寒々しい声、藤乃は耳を塞いだ。
だが、その耳の中に声が響く。目の前の梓が――否、鬼が、こちらに向かって手を伸ばした。
――…まだ足りぬ……足りぬ……
ゆっくりと此方に向かい進み出る足。
何を、だ? 鬼が? 自分が? それとも他の誰かか――?
叫んだと思った。あらん限りの声で。でもそれは彼の思い過ごしで、ただただ薄暗い倉の中で蝋のように蒼褪めていただけだった。
藤乃の様子のおかしいことに、梓は面をとって初めて気づいた。面の視界は悪くて彼が一歩も動かないことしか判らなかったのだ。
「…藤乃さん?」
目を見開き、ぎょろりと動く視線に梓は驚いて手を伸ばした。面を片手に持ったまま、藤乃の身体を抱きとめる。背中をさする。藤乃さん、藤乃さんと声をかけながら、服の上からでもそうとわかるくらいに冷えた身体をさすり続ける。
「………お嬢さん」
微かに震える声をようやく出した。
「出ましょう、此処を」
梓は頷き、藤乃の身体を抱きとめるようにして、ゆっくりと歩き出した。
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