第9話

 ほの暗い部屋の中で目覚めた藤乃はそこがいつもの夢の中だとすぐに判った。

 ほら、飴色の天井、古びた箪笥。障子から差し込む金茶の明かり。白い布団から起きだすと床が揺れた。天井も揺れた。奇妙にぐらぐらと歪む視界の中を歩き出す。

 額の奥がくらくらとする。気を抜けば暗闇に引き込まれそうになるのを堪えて廊下に出る。冷たい板の間、廊下を歩く耳には、日毎夜毎に聞こえる唸り声の代わりか、別の声。

 耳に留まる犬の唸るような、叫ぶような、遠くから低く聞こえるその声は苦しげで悲しげで、その合間合間に聞こえる木の削る音、叩く音、カンカンと高く響き、また途絶えては聞こえる叫び声。少し前までは母親に、そして今は祖父母にしがみついて眠る日々。

 だが、今はすっかりその声が消え、しんと静まり返った家の中をふらふらと歩く。

 やがて先だって聞こえた声がした。

 ――…まだ足りぬ……足りぬ…足りぬ……

 廊下に落ちる影を見てからゆっくりと視線を上げていく。

 とおちゃん?、と。声をかける。

 見慣れぬ着物の膝、帯、呼びかけながら眠たげな目で見上げた顔は――鬼だ。

 鬼。目を見開き、こちらに向かって牙を打ち鳴らし、炎を吐きながら歩いてくる。

 腰が抜けてその場に座り込んだその横を鬼が通り過ぎていく。笑い声が響いて、一度こちらを高いところからじっと見下ろした。

 しばし見つめ合った。深い闇色の目に見つめられ、歯の根の音が合わない、がちがちと音を立てるこの傍らをゆっくりと鬼は過ぎ行く。長い間背中を見送った。もっと長い間、立ち上がることは出来なかった。

 腑抜けたように鬼を見送る幼い自分の傍らで、夢見る自分がやはり鬼の背を見送った。

 じっと見送った。いつまでも見送った。鬼の消え行く背中を。その背中には重ね合わすことの出来る影がある。

 そのことにようやく気がついた。

 夢の意味に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る