第10話

 慌てて出たせいもある。

 梓は手に鬼の面を持ったままだった。それを土蔵に戻そうとするのを藤乃が止めた。理由を聴かなかったせいもあるのか、梓はそのうち面を持ち出したことを忘れてしまった。

 気分が悪くなったという藤乃の言葉をたやすく信じてしまうほどに、梓が藤乃を好いていたせいもある。

 だが、傍らに鬼の面を置いたまま藤乃は忘れはしなかった。

 否。一つ一つ思い出そうとしていた。


「佳枝さん、いるかな?」

 下働きの佳枝は藤乃や梓より古く、長く、三橋の家を知っていた。住み込んで二十五年ほどか。三橋の家ではいまや古参だった。

 蔵を建て替える話のついでか、妾を囲っていたと話をしていたのは数人、陽の下で何人かの下働きたちが談笑していた。そのとき不意に現れた藤乃の顔を見てさっと顔色を変えたのは彼女だ。あの時、顔色を変え、すぐさま話を変えたように思えたのは、多分気のせいではなかったのだ。

 裏口から、薄暗い台所を覗いて藤乃は声をかけた。燻したようにくすんだ黒い壁が、薄暗い台所を一層暗く見せる。立ち働いていた四十半ばの痩せた女が顔を向けた。

「おや、藤乃さんかい。何の用だい?」

 女は食器を棚に仕舞っていた手を止め、しごきを解きながら歩み寄ってきた。それを伴い誘うように、外へ。

 裏手の、離れそばの蔵がちらりと見えるひと気のない所まで歩いて、不意に藤乃は足を止めた。ゆっくりと蔵を見返り、それから佳枝の顔を冷たく見つめた。

「佳枝さんは知っていなさるね。あの蔵に囲われていた女が誰か」

 冷たい、乾いた声がした。佳枝は藤乃の顔を一瞬見上げてから目をそらした。

「…しらないよ。用事がないなら戻るよ」

 つっけんどんな物言いの腕を捕らえて藤乃は佳枝に顔を寄せる。

「黙ってる義理もないだろうに。教えてくださいよ」

「しらないったらっ」

 振り払おうとする腕を一層強く握って藤乃は耳元に顔を寄せ、微かな声で呟いた。

「俺の、母親だろ?」

 佳枝は動きを止め、恐ろしいものを見ているような目で藤乃を眺めた。

「………」

「黙っているのは、その通りだと受け取って良いんだね。旦那さんの妾は、俺の母親だったんだね?」

 佳枝は腕を振り解いて藤乃を見上げた。怒っているような、悲しんでいるような、不思議な顔だった。

「あんた、何を証拠にそんな突飛なことを言い出すのさ。いい加減におしよ。自分の母親になんてことを。親不孝な…」

「…人形を見た」

 ぽつりと呟いた。まくしたてるように早口な佳枝の声とは正反対の静かな声で藤乃は呟いた。

「あれは親父の作った人形だ。見覚えがあるよ。…いや、覚えちゃ居ないがお袋に良く似てた気がする。それから――」

 藤乃は懐から包みを取り出した。

 はらりと落ちる風呂敷が藤乃の腕を隠してまるで宙に浮いているよう。それを顔半分にかけ、じっと佳枝を見下ろし。

 鬼の面と同じ虚ろな闇が彼の目の中に広がって、息を呑んで青くなっている佳枝を映していた。

「………あんた…」

 ゆっくり、小さく首を振った。もう二十年近く前だ。なんて恐ろしい鬼。鬼の面。昔、遠い昔に見せられたもの。それでもその遠い昔を一瞬に思い出した。

 素晴らしいものだろう、そう言った旦那様の声、恍惚とした表情、面をなぞる指先、やはり私の見込んだ通り、あいつには天分の才がある、と。そしてその面をかけ、彼がしたことといえば――佳枝はぎゅっと目を瞑った。

「…あんた、それを一体どこで…?」

「…あの蔵の中で」

 低く尋ねる声にちらりと後ろを見返ってから、藤乃は薄く笑った。

「……何もかもその面が悪いんだ…」

 佳枝は手のひらを握り締めた。思い浮かべる過去の出来事に自然と声が低くなる。

「…そいつを手に入れてから旦那様は変わっちまったのさ…。ああ、みんなその面が悪いんだ。旦那様は…その面のせいで…鬼になっちまったんだ…」

 母屋を見返り、何処かに座しているであろうその姿を思い浮かべ、顔を顰め、眉を寄せ。背筋を寒くさせる。

 梓の父、三橋善郎は実際の年齢よりは随分若く見えた。

 齢六十近いが足腰も丈夫で、髪も黒々としていた。眉間に深く刻まれた皺の緩むのは一人娘の梓を相手にしているときぐらいで、遅くに授かった梓を大切にしていたが、度を越すものではない。

 梓の母は二十年ほど前に死んだ。それについて多くを語るものはない。それを語ることで梓を悲しませたくないと誰もが思っていたから、梓の素直さ、愛らしさが皆の口を自然に閉じさせていたのだ。

 だが蓋を閉じたところで、記憶から消えるわけではない。冥い闇の中に押し込んでいた記憶がふつふつと湧き上がるのを佳枝は感じていた。

 闇がこちらを見ていた。

 下働きの娘が廊下に雑巾をかけるのを見回り、歩く部屋の先々、あるいは障子に手をかけた瞬間、色んなときに色んな光景が頭をかすめた。廊下に落ちる影からすら、あの鬼の目を感じた。

 暗い、陰鬱な闇。あの鬼の目が闇なのか、闇の中にあの目が浮かぶのか。この家の中のすべてが自分の記憶と結びついている。忘れてしまっていたことを思い出すのは、忘れていなかったから、に他ならない。

 梓の母の死因は心労だった。夫・善郎の狂態に心を痛め、苦しみながらこの世を去った。

 自ら死んだに近い死に様だったが、だからといって善郎の行状が変わることはない。枯れた花を活け換えるように女を囲い、取替え、金にものを言わせて人の心を踏みにじった。

 だが、あの一、二年が一等高い波であったのかもしれない。あとは潮が引くように段々と善郎の行動は落ち着きを取り戻していったからだ。そして後には善郎の眉間に刻まれた深い皺だけが残った。

 それまで三橋の家に満ちていた光、明るい快活な笑い声も、笑顔も、残らず波が攫っていったのだ。

 そして幼子だった梓だけが変わらずそこに取り残された。梓だけが、三橋の家の中に残された明かりだった。

 佳枝の頭の中を二十年近く前のことが頭の中を幾つも幾つもよぎって行った。不幸な出来事はすべて、その面がもたらしたように思え、また現れたそいつは、厭なことが起きる予兆の気さえした。

「……その蔵の中で死んだって言う妾は、お袋なんだろ?」

 遠くから聞こえてくるような声に抗う術がないように、佳枝は力なく頷いた。

「…あの蔵の中で、階段から滑り落ちて亡くなったよ。あんたの父親が亡くなってすぐにだった……」

 浅く、微かに何度か頷いて藤乃は面を風呂敷包みに直すと、また懐に戻した。

 陽炎のように薄く微笑みながら、胸に大切に抱くよう懐に面を直すと、何度も何度も着物の上から撫で続けた。




 もう、夢は怖くなかった。

 もう、鬼は怖くなかった。

 鬼は、自分だ。

 ――さぁ、ゆこう

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