第7話
庭先には、いつの間に火をいれたのか、ぼんやり浮かぶ灯篭が道案内。淡いのを頼りに座敷から砌に降り、庭を歩き抜け、互いに口数も少なく、帰りの挨拶を交し合う風景は、実は見慣れたもの。
ちろちろと高く響く水琴窟の音、風に灯篭の火が揺れて。
庭木の葉擦れは今夜に聴いた、闇の中に息を潜める何者かの影。
お客の退けた座敷の奥は、夜の闇がうっすら紛れ込んで寒さもひとしお。春先の夜は冷える。
そちらに歩み寄りながら、ご隠居さま、鳴海さん、今日は此方にお泊りになられますかと声をかける者がいた。
鬱陶しげな黒髪、眼鏡の縁が瞳にかかって、あまり表情の読めないその青年に向かって声を返すのは、白髭豊かなご隠居さま。
ああ、あたしはそうさしてもらおうかしらねぇ、先生はどうします?、と。
青年とよく似た眼鏡をかけた男、鳴海さん、或いは先生と呼ばれた――鳴海大介は、顔を上げて、いや、お構いなく、と返した。
もっとも、そう返したところで、もう今晩はこちらにご厄介になることが目には見えていたのだけれど。
先生と呼ばれてはいるが、大介は学校の教師ではなかったし、勿論政治家、代議士先生でもなく、その正体はと言えば実のところライターだったり小説家だったりの売文業で、本人は先生と呼ばれるとなんだかくすぐったい、恥ずかしい思いがするので先生は止して下さいと頼むのが常なのだけれど、御隠居のそう呼ぶのだけは止められないでいる。
「今日は割りっとお客さまが多かったねぇ。お前さんには毎度のことだけれど、忙しく茶坊主させちまって、すまなかったねぇ」
いいえ、と。久しぶりでしたから、寒さをおして皆様、お集まりになったのでしょうね、そう青年は穏やかに微笑みながら返すと、座敷から姿を消した。
ご隠居は書院造り風の床の間にしつらえた、三本脚の蛙の形の香炉を持ち上げると、放っておいても害はない、まだ微かに燃え残るのを確かめて、もとに戻した。
先程まで庭を歩いていた客の姿ももうなく、深緑の着物、襟の袷を右手で直しながら、青蛙堂の御隠居はすっくと立ち上がった。
青蛙堂といえば岡本綺堂の短編小説で、これを真似てか、趣味の商い、古本屋の看板をその名に掲げた店の主は、青蛙堂の会ってのをたまさか開く。
内容はと言えば、勿論参加者自身が見聞した怪談めいたもの、だ。
百物語では無いから、隣の部屋まで灯火の芯を消しに出かけたりはしないが、まぁ互いに顔も名前も知らないもの同士、正気では話難い信じられない話、奇妙な話、怖い話を語り合う。
会合場となるのはいつも決まって青蛙堂の主人の持つ別荘――といっても、今はその眼鏡の青年の家の離れ。そこで何かと細やかに気の使う青年が、御隠居の段取りを手伝うのが常。
少しは申し訳ないからか、御母屋の客間に二人分の布団を敷きに戻った青年を追って、ご隠居さまは、どれ、あたしも手伝おうかしらねぇ、そう言いながら姿を消した。
もっとも多分、手伝わせてはもらえまい。横で眺めるだけがよいところだろうけれど。
後には大介独りが残り、もう上がり慣れた座敷のこと、戸締りの一つでも手伝おうかと腰を上げようとしたとき、ようやくまだ客の残っているのに気がついた。
「あ、すみません、気がつきませんで‥‥。えーっと、お帰りは――」
慣れない大介の応対を、だがその客は薄い笑みを浮かべたまま彼を見つめる事で返した。
「先程の――貴方様のご友人の御話、大変面白く伺わせて頂きました」
軽く頭を下げながらそう言った、濃い藍の着物姿の客は、三十路をいくつか越した大介と同じか、あるいはまだ少し若いくらいの年の頃――もっとも、大介の外見は年齢不詳。
「ああ、ありがとうございます。どうも人前で話すのは苦手でして、勝手の悪いところをお見せいたしました」
浮かせかけた腰を下ろして胡坐をかくと軽く頭を下げ、大介は凪いだ海のようなのんびりとした微笑を浮かべた。
「いえいえ、大変楽しゅうございました。失礼ですが、鳴海先生で――いらっしゃいましょうか?」
「先生はやめて下さい。なんだかくすぐったくって、僕はどうも‥‥。鳴海で結構ですから。――橘宗匠?」
悪戯っぽくにこにこと笑う大介に、客は、宗匠は止して下さいましな、御老人から?、そう返した。
「お噂だけはご隠居さまに。今晩お見えとは知りませんでしたが、お噂通りでしたので」
お互い様だが手品の種は客によく見えているようだ、大介は早々に手の内を明かした。
「橘綜月です。はじめてお目にかかります」
「はじめまして。鳴海大介です」
大介はあらためて、橘を見つめた。
闇から生まれたような黒い髪、黒い瞳、着流しの肩はそう広くはないが、しなやかな印象を与える。創る人形も本人も水のしたたる、そう御隠居が形容していたのを思い出す。
本当は――、大介は小さく呟いた。
「本当は今日はこのお話をするつもりはなかったのですが、お客様に貴方がいらっしゃるのが見えて、急に変えたものだから、ちょっと、あっさりとやっちゃいました」
下手な小説の言い訳のように続けた大介にむかって薄く微笑む。
「あたしを見て、急に、でござんすか?」
「ええ、実は、貴方に二つばかりお尋ねしたい事がありましたので――橘さんがお越しでなかったのなら、僕は御隠居にお住まいを教えて頂いて、同じ話を抱えてお邪魔する予定でした」
ほう、と橘は呟いた。
「あたしに一体なにを?」
大介は無邪気そうに、にっこりとやった。
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