恩讐

第1話

 おや、いらっしゃい、そう白髭豊かなご隠居様に声を掛けられて、鳴海大介はこんにちはの代わりか、穏やかに微笑みながらゆっくりと頭を下げた。

 長い年月を経るうちに煤けたような、穏やかな飴色をした磨り硝子をはめ込んだ扉は、幽かな鈴の音をたてる。

 緩やかな曲線を描くアールヌーボー調のデザインを抱き込んだ扉は、押しても良し、引いても良し。大介の姿を飲み込んでもしばらくの間は扉のきしむ、キィ、キィ、という音に合わせて、ちりりと可愛らしいのが鳴り続けていた。

 この店、外から見れば扉だけをとってみても洒落たつくり。西洋骨董趣味な喫茶店のようにも見える。

 もっとも看板は出ていないから、間違えて扉を押し開けるものはない。が、いつかは押し開けてみたい気分にさせる。

 道行く人がちょっと眼を止め、見返り、通り過ぎるのがその証拠。

 何があるのか判らないからこそ躊躇われる足を留めることなく、慣れた仕草に扉を押し開けて入るのは、此処が何屋かよく知っていればこそ、だ。

 本業は骨董品屋のご隠居が、趣味で始めた商いの屋号をお気に入りの小説になぞらえてつけたのが此方。最近とみに此方の屋号で呼ばれることが多いのは、本業を息子に譲って楽隠居と決め込んだせいもあるだらう。

 もっとも、楽隠居というにはトシをとりすぎた感もある。ちなみに頻々に顔を見せるのは此方ではなく、骨董品屋の店先だ。

 ――この店の名を青蛙堂、という。

 目を瞑ってドアを潜れば此処は香りの海だ。

 本の香り、新書の紙の匂い、インクの匂い、あるいは洋書独特の甘い匂い。

 中でもとりわけ強いのは古本の匂いだ。青蛙堂は古本屋なのだから、古本の匂いが勝つのは当然だった。

 時間と以前の持ち主を偲ぶ匂いは、鼻から胃の腑に落ちて、胸にあがる。人によってはわくわく、と。人によってはシクシク、と。

 紅茶か珈琲の香りを楽しむように息を深く吸い込んだ細身で背の高い人影が、ゆっくりと扉から離れると、ドアのふり幅がわずかになるに従って、次第に小さくなっていく鈴の音、軋む音。そして音が止む。

 目で確かめなくとも閉じられたことを示すかのような静けさ、陽光を和らげたガラスからの明かりが店の中をセピア色に染めた。

「こんにちは、ご隠居さま。今日はこちらだったんですか」

 眼鏡の奥からのどかで和やかな微笑を浮かべつつ、帳場にと足を進める。その声に軽く頷き返しつつ、老人は袖下で組んでいた腕を解いた。

「何です先生、今日ぁいやにお早い。お仕事、シト段落ですかい?」

 そういって背筋のしゃんと伸びた、闊達な老人はからからと笑った。別に早い時間ではない。世間では午後のひと時、ただこの人物と太陽を一緒に見るのが稀なだけで。

 禿げた頭をつるりと撫でて、その手を袖の中に。葡萄茶色の着流しの上に刺し子の綿入れを羽織っているが、それでも背中が丸くは見えない老人が珍しげに見た客は、照れたように頬を掻いて小さく頷いた。

「はぁ。おかげさまで。この寒いのになんだかすんなり目が覚めちゃいまして。折角だし、何かこう、面白いことはないかなぁって」

 のんびりとした声に苦笑をもらして老人は己が店の中をくるりと眺めた。

 面白いことを探して古本屋に足を運ぶんじゃぁ、ねぇ。そう老人は思ったが、大介には大介の目論見があって。

 青蛙堂の御隠居は岡本綺堂の小説をなぞらえて、青蛙堂の会というのをたまさか開く。そこでは皆が持ち寄った奇妙な話、不思議な話、怪談めいた話などがなされる。

 コレが仕事明け、三日はゆうに眠りこけていた兼業小説家・鳴海大介の狙いで、実際それはいつもの話だった。

「ああ、丁度いい、お上がんなさいましな、先生。一服と思っていたところなんですよ。さぁさぁ、遠慮は要りませんよ」

 半身振り返り、障子を引く。と、奥に座敷がひろがる。

 帳場から立ち、框に雪駄を置いて二、三段の階段を上がり。

「さぁさぁ、先生」

 畳の上から障子に手を掛けたまま振り返る。片手で手招きする。その姿に応じて、

「あ、はぁ、じゃあ、お邪魔します」

 微かに、何度か頭を下げながら、大介は老人に従って靴を脱いだ。

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