3:隣町―Nextown―
森の中に隠れるようにある修道院から、東へ歩いておよそ一時間の場所にはクリェートと呼ばれる町がある。彼らの食事はそこで購入した物であったりするし、修道院の聖堂を結婚式の会場として提供などをしているため、修道院と隣町の関係は密接である。
クリェートは自給自足を確立できている町であり、それらを輸出入をして様々な技術を蓄えている。また過去の資料などを残している大図書館があり、ルナリアはそこで物語を読むのが趣味であった。
「でも、今日はそのような時間はありませんからね」
「はーい」
そわそわしているルナリアをそう諌めながら、修道長は服屋の店員と話し合いをして、どうにか安く服を仕入れようと交渉をしていた。彼女のために貯めたお金も無限ではない。如何に安く、如何に質の良い物を手に入れられるかが重要である。
「ラルドさんには結婚式の際にはお世話になったしなぁ……」
「その点、頼みたい」
「むぅ……防塵ローブはともかく、他が揃うかどうか……予算は?」
「多く見積もって……これぐらいか」
「……倉庫見てくるよ」
ルナリアは話を続ける二人を余所に、町中の景色に目を向ける。煉瓦作りの家に、石畳が敷かれた街路。至る所には電灯が聳え立っており、噴水を中心とした公園もある。子供がはしゃいでいて、そんな子を母親が追っている姿を見て、ルナリアの瞳は複雑に揺れる。
とても綺麗な町だと彼女は思う。他の町を知らないから、というのもある。彼女にとってはこの町こそが始まりの町であり、何度も思い出す町でもあるからだ。
「おじ様。少しだけ見て回っていいですか?」
「……図書館はダメですよ。長くなります」
「はい」
倉庫へ向かった店員を待つ修道長を置いて、ルナリアは数日後には離れるであろう町の最後の散策をする。二度と戻ってこられないかもしれない。そんな最悪な可能性を考えての行動だ。
旅がおじから聞くほど楽なものではない、と彼女は理解している。本などを読んで知識こそ付けているが、所詮は本での知識。経験をしているわけではない。
「……弱気、すぎるのかな」
せめて経験者が手伝ってくれればいいのに、と思うのは仕方がない事だと言える。だからといって、修道長についてきてもらうという選択はしたくはない。親に自分だってやればできると、頼らない姿を見せたくなるのと同じ思考だ。
前途多難な旅路に不似合いな深い溜め息を吐く――と、その時、ルナリアは僅かながら違和感を覚えた。いつもの町であり、よく通る道。そこにひっそりとある路地裏にいる、茶色いローブの男がルナリアを見ていたのだ。
「…………」
逃げ出した方がいい、少女の感覚はそう伝えている。伸びに伸びた黒い前髪のせいで、男の顔は解りやしないし、背丈からして彼は大人。もし掴まれでもすれば、逃げる事はできないだろう。
それでも、彼女は修道女である。おじの教えを守る生真面目な少女は、向けてくる視線を無視できるほど強い心を持っていなかった。
「あ、あの……どうなされたんでしょうか?」
「……ッ!」
僅かに震える右腕を左手で抑えながら、少女は表情だけは気丈に男に声をかけた。よく見ると、男の羽織っている茶色のローブはボロボロで穴も空いている。履いているロングズボンも穴だらけで、靴も履いていない。
見る限りでも浮浪者だが、その目線はしっかりとルナリアの碧眼を見つめているようであった。
「……ルナ、リ……ア……?」
「えーっと、どこかで会った事ありましたっけ?」
「ルナ……ルナ……」
擦れた声で、名乗ってもいないのに男性は彼女の名前を呟くばかりだ。それを人は狂人と呼ぶのかもしれないが、ルナリアの中にはそれに該当する名前が無い。
そのためにすぐに逃げるべきところを一瞬だけ遅れてしまった。とんっと右足を下げた瞬間、彼女の左腕を男が掴んだ。
「えっ……」
叫びよりも、驚愕の方が勝った。何せ握られた左腕の感覚は、あまりにも冷たく感じたからだ。生物の温度を感じさせない、そんな死んだ生肉のような感触がして、顔が青ざめて――
「失礼。困っているようなので、横入りさせてもらう」
ルナリアが悲鳴を上げるか否かのタイミングで、その声は耳に届いた。浮浪者の男と、少女の間に割って入り込む一人の男。淡い金色の短髪と端正に整った輪郭が、一瞬だけ少女の視界の中に映る。
ルナリアよりも頭二つ分ぐらいの高い背丈を持つ男性は、左腕を握る浮浪者をルナリアから引きはがす。解放される彼女はその反動で前のめりになって倒れかけるが、どうにか持ち直して振り返る。未だに残る左腕の寒気を右手で抑えながら。
「ぅっ……ぁぁっ……」
「……人身売買の類ではないか。あり得るとすれば――」
「うぉぉぉぉぁぁぁぁッ!?」
立派な金の刺繍がされている白衣を纏う男の目の前で、浮浪者は突如大声で喚き、そのまま路地裏の奥へと逃げていった。反響する叫びはどこか悲痛を感じさせるほど擦り切れていた。
「ふむ……狂人はどこにでもいるものか」
「あの……ありがとうございます」
「いえ。正義を成しただけの事」
そう言ってルナリアと同じ目線になるように屈むので、少女はやっと男の顔を理解する。自身と似たような碧眼を有しているが、その輪郭は鋭い。しかしそこに厳しさよりも優しさを思わせるのは、彼の言葉が決して強くはないからだろうか。
そして服装には、彼女がよく知る聖道教会のシンボルマークである、草原の上で立つ羽の生えた十字架が縫いつけられていた。
「それ、教会の!」
「そういうあなたも、教会に属しているように見えますが」
「はい!」
紺色の修道服を着ているからか、尋ねてくるルナリアは元気よく返事をする。何せ、おじ以外で初めて見る教会に所属している人物であるからだ。
彼女とは真逆の純白の祭服を着て、肩には薄紫色のマントが金色のボタンで留めていて左腕を隠していた。腰には黒のベルト、そしてそこに差されている――剣。
「聖道教会所属、聖騎士マークス・ベンゼンです。大丈夫ですか、お嬢さん」
「ルナリア・レガリシアです。ありがとうございます」
教会の騎士を名乗るマークスという青年に右手を差し伸べると、彼は笑みを浮かべて快く応じる。聖道教会には悪魔を排除する騎士がいる、とおじから教わっていた彼女はまさかとは思うが、少なくとも容姿の気品は備わっていたし、助けてくれたという事実は本当だ。
「ルナー!」
「おじ様の声……」
「おじ様?」
修道長がルナが入っていった路地裏に現れる。黒色の祭服を纏った白髪の老人の登場に、先程まで笑みを浮かべていたマークスの目の色が変わった。現れたラルドの方へ行くルナリアはそれに気づかない。
「ルナ。服屋さんに行ってサイズを計ってきてください」
「おじ様は?」
「少し……早めに戻りますよ」
ルナリアは首を傾げこそしたが、服のサイズは自分しか解らないのだから先程の服屋へと走って行った。その様子を、老人と青年は慈しみ深く見つめる。
「孫ですか?」
「いいや、拾い子です。この手で育てました」
「そうですか……して、その恰好は?」
「修道院ですよ。教会の教えを、彼女に教えました」
「ふむ……それはおかしい」
碧眼を細める金髪の男に、白髪の下でラルドの表情が歪む。彼の右手は腰にかけてある剣の柄を掴んでおり、いつでもラルドの肉体を裂ける状況である。
「この周辺には教会の手は届いていないと聞く。それゆえに、私のようなチャーチルの騎士が出向いているが……」
「なるほど、騎士か。道理で鋭い目つきだ。して、私を殺すか?」
不敵な笑みを浮かべる修道長であったが、白髪の下の赤目は決して笑ってなどいない。冷や汗などはかいていないが、それでも決して余裕のある状況ではない。
しばしの殺気による沈黙は、金髪の青年が視線を逸らした事で終わりを迎える。
「……逃がすのか?」
「彼女が悲しむ。しかし、後に訪問させてもらうとしましょう」
そう言って白衣の青年は、柄から手を離して鼻歌交じりで修道長の横を通り過ぎていく。
残されたのは路地裏という日陰で顔をしかめる老人のみ。ルナリアにはあまりに見せない、唇を甘く噛み目を瞑る様は、老人と言うよりはヘマをした少年のように感じる。
「そろそろ潮時かなぁ」
その呟きは、誰にも聞こえずただ町中の喧騒に消えた。
【◆】
「それではルナ。少しばかり宿屋と交渉をしてきます。待っていてくださいね」
「はい!」
昼食を摂り終えた二人は、数日間の滞在をするための予約をするために宿屋へやって来ていた。ルナリアには修道院を離れてから生活の練習、とラルドは言うが、実際にはあの男の訪問への対策であった。彼女に迷惑をかけるつもりはない。そう、育て親の彼は考えていたのだ。
一階は酒場、二階は宿屋を営む店への交渉をしに来たラルドは、ルナリアを置いて一人で二階へと登っていく。酒場に残された彼女は、どうしようかと周りを見渡してみるが、昼間からお酒を飲む人がいるだけで面白みはない。酒飲みの会話は支離滅裂で会話も少女には理解できない下賤な話ばかり。
酒場の外で待つべきか、と大人の空間から脱出しようとルナリアは振り返ろうとすると、
「じょーちゃん」
「きゃあッ!?」
いきなり耳元でそう囁かれて怖気が立った。酒場に甲高い叫びが響いて、酒に溺れる者以外が少女の方へ視線を向ける。顔を赤らめて、ひっひっひと引き攣るような笑い声をあげる男性が、ルナリアに抱き着いてきたのだ。
酒臭い口臭に気分が悪くなりながらも、必死に動こうとするルナリアであるが、大人の筋力から逃げ出す事は難しい。
「聖女様~。どうか懺悔聞いてくださいよー」
「あ、あの、私、聖女じゃなくて修道女です! だから、その、離してください!」
「えぇ~。たのむよー。こちとら毎日――ブヘッ!?」
ルナリアの言葉も聞かず、更に体重を彼女に預けようとする男性であったが、その減らず口のある顔を思い切り凹ませながら後方へ吹き飛ぶ。顔には靴の跡が残り、頭を打ったのか口から泡を出して意識を失う男性に、蹴り飛ばした靴の主がルナリアを庇うように前に出ながら吠える。
「女の子にたかって……大人が恥ずかしくないの?」
黒が混じるような金髪を持つ女性が、ファイティングポーズをしながら言葉を荒げていた。しかし、彼女の言葉は男の耳には届かない。その事を遅れて理解すると、構えを解いて呆れを込めた溜め息を吐く。
カーキ色のロングコートを翻しながら女性は、脱力してペタンと床に座ってしまうルナリアに右手を伸ばす。
「大丈夫? 怪我はない?」
「は、はい……助けてくださってありがとうございます!」
彼女の右腕を頼りに即座に立ち上がると、女性に対してぺこりとお辞儀をするルナリア。それに対して金髪を一つに纏めている女性は、いいよいいよと、彼女と同じ視線になるように屈んで頭を撫でる。
「でも、気をつけな。こういう輩もいる。私のような輩はそうはいない」
「はい……肝に銘じておきます」
「そうしなさい。こういうところにあまり近づいちゃダメよ」
女性の青色の瞳が閉じられて、口角は僅かに吊り上る。そして、カーキのロングコートを翻して蹴り飛ばした男性の元へ行き、後の始末をし始めた。
「ルナ。大丈夫ですか?」
「あ、おじ様……はい」
交渉を終えたのか、修道長が下りてきてルナリアに声をかける。何かがあったのは明白だが、ルナリアは彼に心配をかけないために真実を話さない。ただ、自分は無力であり、このような事が旅路に起こり得る事を覚悟しないといけない。そう、心の中に刻み込むのであった。
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