起源回帰のラグナス
紅葉紅葉
プロローグ:あなたの名を呼ぶ
1:夢死―Dreamd―
――その光景を、私は知っている。
少女の目の前には、青白い鎧を纏った女性が俯せになって倒れていた。
女性は顔を少女に向けているが、その大きさは
――また、死にかけている……。
愛おしさを覚える顔立ちをしていた。慈しみに溢れた輪郭を持っていた。僅かに見える瞳は、夜明け前の空のように深い蒼をしていた。
そんな彼女が、なぜ倒されたのかも解らないような、曖昧な表情で少女を見つめていたのだ。
――あなたは何をしたというの?
対峙する少女の右手には、赤光が迸る剣が握られている。僅かに震える右手が、地に接した刃の音を鳴らしていた。
そんな人型の何かである彼女の真下に、白い服を着た小人が見上げて何かを訴える。
「準備は整った」
「……解った」
少女ではない、誰かの声が答える。
少女は驚愕から口を手で抑えようとするが、その身体は少女の思うように動かない。
彼女は、その自由の利かない何かの身体の中で、これから起こる事をただ見つめる事しかできない。
――いつもの。そう、何もできない私を嗜めるような、そんな嫌な夢。
誰かが操る少女の身体は、ふと後ろへ振り返る。
星色の空の下に――純白の騎士、青緑色の獣人、剣を持った骸骨、鳥のような翼を持つ剣士――多種多様な人がいた。
彼らは叫ぶ。老若男女の声を張り上げて。
「殺せ!」
「早くそいつを殺してしまえ!」
「それで全てが終わる!」
――なんで? この女の人が、何をしたと言うの?
少女の瞳は、震えが止まらない赤色の剣を見た。
光は刃を作り上げ、まるで血で染まっているように見えた。
彼らは囃し立てるのだ。その剣で、女を殺せと。
「……ッ」
――ダメ……。
剣を握る黒色の籠手に力が籠った。
少女は必死に止めようと思うが、身体は動かない。
騎士のような姿をした肉体は、ゆっくりと女性の顔へ近づいていく。
処刑者の剣は力無く降ろされ、大地に引き摺られガリガリッと音を鳴らす。
項垂れ近づく様は、まるで死刑を執行する処刑者のようだ。
――やめて。止まってッ!
少女の悲痛は、ここでは意味を成さない。罵詈雑言の野次に消え、ただ胸にその痛みが増していくばかり。
それも、いずれ終わる。
――えっ……?
ふと、執行者は女の顔を見上げた。
女性の顔には幾つかの線があった。瞳から伸びるそれは、涙の跡なのか、それとも彼女の存在を示す模様なのか。
「……すまない」
また、誰かの声が口から漏れ出した。騎士の兜の下で、その声はどんな気持ちでそう呟いたのか。
その身体の中で見つめている少女には解らなかった。
剣が、天に掲げられる。
女性の瞳がその赤く光る刃を見つめる。
今から始まる処刑の執行をやっと理解したのか――彼女は、笑みを浮かべた。
――なん……で?
「――ッ!?」
彼女の笑みは少女に困惑を生み、それに呼応するように白と黒の鎧が僅かに震えた。
悲しみも未練も感じない、全てを受け入れるかのような慈愛に満ちた笑顔――それが瞳に映りこむ。
だけど、その右手の力が抜ける事はない。
刹那の動揺は終わり、剣は振り下ろされてゆく。
――いや……いやっ……いやぁぁぁッ!!
「ァァァァァアアアア――ッ!?」
縦に向けられた刃は、少女の制止の言葉を無視して巨大な女性の顔を引き裂いていく。鉄を裂くような、肌を裂く音が少女の耳に届いた。
少女は必死に祈る。これは最悪な夢だと。早く目覚めてくれと。彼女は目を瞑って、身体を震わせて必死に手を重ねる。
女性の絶叫は止まらない。いつまでも少女の耳に響いて――それは彼女が意識を失うまで続いた。
【◆】
「はぁ……ッはぁ……」
何かに突き動かされるように、少女は掛け布団を跳ね除けて上半身を起こした。
瞳は信じられない物を見たように開かれており、焦点は定まらずに波紋のように揺れる。
胸にある心臓の鼓動は収まらず、必死にそれを落ち着かせるために細い手を当てた。
不規則に漏れ出す生温かい息を止めようとするが、唾は乾燥して、喉はひりひりと呼吸をするたびに少女に鈍い痛みを与える。
「はぁッ……はぁ」
数十分を経て、彼女の心臓の振動はやっと緩やかになった。
耳に届く自身の荒い息と、冷や汗で濡れてしまった水色のパジャマが、現実に戻ってきた彼女が最初に感じた物であった。
夜の低温に冷やされた自分の肉体を、その白い左腕で抱きしめる。
「はぁ……」
最後に漏れたのは冷えた溜め息だった。
また同じ夢を見た。女性が切りつけられるという胸が痛む夢を。
少女はそれをただ見つめるしかできない。
止めようとしても身体は勝手に動き、何度もその手で女性を殺してきた。
そのような夢を見るキッカケを彼女は持っていない。
彼女の慕う人はそれを、未来のお告げか過去の記憶が見ているのでは、と言っていたが、彼女の記憶にそんな過去は無い。
十二歳の彼女は、二歳の頃に修道院に貰われた身でもある。
「……だめっ」
少女は寒気立つ身体に不安を抱きながらベッドから降り、部屋に置いてあるドレッサーの前に立つ。
鏡に映っているのは、いつもの少女の姿であった。
腰まで伸びた金色の髪。
不安げにこちらを見返してくる両目。
ただでさえ白い肌は、汗のせいで冷えて青白くさえ見えた。
いかにも少女らしい細い体躯が、窓からのぞく月光に照らされて儚さを漂わせている。
その露出した右腕に走る、赤く輝く痣を除けば。
「私の、名前は……ルナリア」
彼女が彼女である証拠の名前を呼んだ。
自身が剣を握る何者かに変貌し女性を殺す夢は、あまりにも普段の彼女とはかけ離れている姿だから。
彼女は自分自身を――ルナリア・レガリシアと再認識する。
十二歳の彼女にとって、自分という存在はまだ完全に成り立ってなどいなかった。
その出自があまりにも不明瞭な事もある。だがそれ以上に、右腕に刻まれたそれが彼女の存在を揺るがせる。
「また、出てる……」
忌々しく疼く、その右腕を左手で握る。
血管が浮き出たような赤い線。それは彼女の無自覚な罪を責め立てるように、それは鼓動していた。
心臓の鼓動に合わせるように。彼女の吐く息に合わせるように。
ルナリアには必要のない、彼女の無垢を穢す傷。
苦い表情を浮かべてもどうしようもない。自然に消えるのを待つしかないのだから。
落ち着きを取り戻した彼女は、壁にかけていた時計を見つめる。
「まだ、三時……」
暗闇に差し込む月光が、ルナリアの熱の籠った溜め息を照らす。
彼女を拾った修道院は辺境の地にある。そんな場所であるからか、主である修道長は規律に甘い。こんなに早く起きてしまっても修道長はまだ寝ている。
口を噤み、ルナリアは首を横に振った。
もう漏れる溜め息もない。これも全てあの夢と右腕の赤い痣のせいだと決めつけて、彼女はグシャグシャになったシーツへ飛び込んだ。
「寝なくちゃ」
冷や汗が滲んだ寝間着を温めるために掛け布団を頭から被る。少しでも震える体を止めたかった。右腕は未だに熱を持ち、彼女の身体を痛めつけていく。
左腕が寒い。胸が寒い。
怖気が神経を麻痺させて感覚を無くしていく。病に冒された少女の意志さえも削ぎ落として、ただ彼女は怯えるばかり。
深夜は終わりを迎え、冷たき夜は、いつしか祝福の朝へと進む。閉じられた瞳から涙がベッドへ落ちた。
彼女に朝焼けはまだ来ない。ただ今は、その瞳の中の闇に沈んでいく。
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