2:朝食―Mearning―

 彼女が目を覚ましたのはそれから四時間後。

 月は太陽に変わり、日光がルナリアの目覚めを促した。


「うぅ……もう、朝ですか?」


 二度寝をした彼女は、目を擦らせて壁に掛かっていた時計を見つめる。

 目尻に溜まっていた涙のせいで霞んでいた視界は、ゆっくりとだが彼女に現実を教えていく。


「え……あぁっ!?」


 素っ頓狂な声をあげて、彼女はあわあわと手を震わせた。

 時間は朝の七時。彼女にとっては予定よりも遅い起床――寝坊である。


 ――急がないと……!


 顔が青ざめていく中、急いで着ていた寝間着を脱ぎ捨てて、クローゼットの中で丁寧に掛けられていた修道服を取り出す。

 黒に限りなく近い紺色の修道服を身に纏い、首元を守るように白のスカプラリオを肩まで羽織る。


 ――今日は、これはいいかな。

 ――髪の毛、蒸れちゃうし。


 クローゼットの中でかけられているヴェールは被らずに、彼女はクローゼットの扉を閉じる。

 ドレッサーの鏡に映りこむ姿は、幼いながらも穏やかな雰囲気を漂わせる修道女であった。


「寝坊……おじ様に迷惑をかけちゃった」


 そう言葉を漏らしながら、ルナリアは急いで自室から出る。

 修道院に住んでいるのは彼女と、彼女の保護者である修道長だけだ。だからこそ、彼に迷惑をかける事は少女にとっては罪悪感になる。

 静かな廊下をたったったっと走って、ルナリアは硬くなっていた表情を健やかなものへと変えていく。


「おはようございます!」

「おはよう。良い元気ですね。関心です」


 キッチンのある小さな部屋の扉を開けて、元気よく挨拶をする。

 挨拶の相手は、朝食をテーブルの上に並べていた老人。彼女に優しく声をかけた修道院の主、修道長は黒色の祭服に身を包んだ白髪の男性だ。

 ルナリアを拾った人であり、彼女からすると恩人でもある。

 彼は自身をラルドと名乗り、彼女をこの年になるまで育ててきた。親代わりともいう。


「とりあえず座りなさい。先程、できあがったばかりです」

「はい!」


 ラルドの優しい言葉に招かれて、ルナリアは安堵の声音と共に彼の前の席に座る。

 朝食の内容は、こんがりと焼けたトーストにスクランブルエッグ、レタス、そしてハム。

 修道長の席には湯気の立つコーヒーが淹れられたカップが置いてあり、ルナリアにはミルクが注がれたカップがある。


 ――おじ様らしいシンプルな朝食。

 ――本当なら、もうちょっと凝った朝食を作るつもりだったのになぁ……。


 その事が彼女の表情を一瞬だけ曇らせるが、修道長が手を合わせるのでルナリアもそれに倣って手を合わせる。


「いただきます」

「いただきます!」


 かちゃ、かちゃ、と小気味のいい金属音がキッチンに響く。

 銀色のフォークと真っ白な皿が当たり、彼女達の食卓に朗らかな幸せの音が溢れる。


「しかし、珍しいですね。あなたが寝坊をするとは」

「うっ……その、怖い夢を見てしまいまして……」

「ふむ。しばらくは治まっていましたが、また見たのですね、あの夢を」


 二人が信仰する聖道教会にある伝説、『エアの落日』に似た夢。

 聖道教会が神として崇める地母神『エア』が、人の住まう大地まで下りたという伝説である。

 五百年前を発祥とする御伽話であり、彼女の見る悪夢はそれに近しいとラルドは語る。

 フォークの動きを止めたルナリアに、修道長は優しい笑みを浮かべた。


「ルナ。以前も言いましたが、夢とは未来を指し示すか、過去の後悔が形になると言います」

「でも私、あんな夢の光景、記憶にありません」

「でしょうね……あなたは明日で十三となります。それに、私はあなたを二歳の頃に引き取っていますから、そんな短い間に、そのような過去があったとは思えません」


 十年以上の長い間、その手で育てた少女の力になれないのが悔しいのか、その整った赤い瞳を伏せる。

 彼にとっては娘や孫娘のようなもの。彼女の夢が示す物の正体が解らないのが、親代わりとして苦い味を感じさせる。


「あなたが忘れている記憶か、それとも誰かの記憶か……はたまた、未来からの警告か……こればかりは解りません。ですが、あなたはあなたです」


 修道長は慈しみを込めた言葉を残し、湯気の立つコーヒーを口に含む。彼には、彼女の苦しみを和らげる言葉しか思いつかない。


「はい……私は、ルナリアですから」


 前髪の下で青の瞳が揺れている。

 彼女には決定的な始まりの記憶が無い。

 どこで生まれたのか、どうしてこの修道院に貰われたのか。

 父と母はどういう顔だったのか……数えればきりが無いほどに。

 自分という存在を確立する要素をラルドにしか持たない彼女は、彼から与えられた名前を呟くしかない。

 それだけが彼女が持てる、自分という存在の鎖なのだから。


「いい天気ですね。こう明るくてぽかぽかだと、私も元気が出ちゃいます」

「そうですね。巡礼の旅の兆しとしては、素晴らしき天候でしょう」

「巡礼……巡礼!」


 暗い事、不安な事から逃げるように話題を逸らすと、今度は彼女にとっては重要な事へと話が繋がる。

 湧き上がる心を表すように立ち上がる彼女に、ラルドは苦笑を浮かべながらも座りなさいと諌めた。


「旅です! そうそう、一大ビックイベントがあるのでした!」

「えぇ。本日はその買い出しへ行きますよ」


 聖道教会には、十三歳となる修道者に最東の教会国『チャーチル』までの巡礼が義務付けられている。

 彼女が住まうこの地は最西。旅路は長いものになると思われるが、ルナリアはむしろそれを待ち望んでいた。


「おじ様のような旅……できたらいいなぁ」

「そうですねぇ」


 幼少の頃から聞かされてきたラルドの旅の話は、物語が好きな彼女にとっては刺激的で、かつ現実味のある物語であった。

 それこそ、隣街の図書館にある物語よりも勝ると感じているほどに。

 そのような経緯もあってか、自分がその未知なる世界へ足を進める事に抵抗はない。それがどんなに辛い道筋であろうとも、彼女の中に湧きあがる好奇心はそんな苦難に立ち向かえるほど膨らんでいく。


「あー……でも」


 そんな好奇心を抑えてしまうのは、彼女の右腕に浮かび上がる悪質な紋章であった。

 今は疼きが治まっている。それでもずっと残っている赤き痣。


「その問題も考えないとですね。この周辺ならともかく、チャーチルでは迫害の可能性もあるでしょうし」

「……はい」


 悪夢と一緒に現れる忌まわしき痣。聖道教会はそれを、悪魔憑きの証、と呼んでいた。

 悪魔は人を狂わせる存在。巨大な姿を持ち、人間を殺し貪る化け物。

 教会はそれを敵として考えているようで、その悪魔を使役できる存在には痣のような紋様が浮かぶとしている。

 ルナリアは悪魔など見た事はないし、使役しているつもりなどないが、教会から見た彼女は異端であり排除対象であるのだ。


「……これってやはり、いけない物なんですよね」

「教会からすれば、ですね。私は決して悪いとは思っていません。原因となる魔とは万物に宿る物。誰もが持っている有り触れたエネルギーなのです」

「でも、教会はダメだというのですよね」

「えぇ。彼らは組織。少しでも脅威となり得る対象には徹底的に敵対するでしょう。危険に念頭を置くのは当然の在り方とも言えます」


 過剰な魔を宿しているから痣が浮き出て、悪魔憑きが生まれる。人類にとっての敵だと悪魔を認識している教会は、差別的な常識を伝播させて危機を先に排除する。

 旅をしたいと願うルナリアにとって、それはあまりにも厄介な思想だった。

 ましてやルナリアは聖道教会の修道女であり、その彼女が悪魔憑きだとされるのは教会にとっての汚点ともいえる。


「旅をしたいのに……」

「旅に出られるようにどうにかしましょう。そのために、買い出しに行くのです!」


 そう言いながら食事を終えた修道長を見て、ルナリアは自分の皿を一瞥し、話に夢中で手が動いていなかった事に気が付いた。

 また迷惑をかけてしまうと、後先の不安など考えずに朝食を摂る彼女に、


「大丈夫、世界はあなたを祝福しますよ」


 と、修道長はそう言って慈しみの瞳を向けた。

 少女はその視線を受ける事はなく、むしゃむしゃとトーストを頬張っていた。

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