7:旅立―Journepart―

 冷たい身体の感覚で少女は目を醒ました。冷たくも固い床。天井には青い空が見えて光が入り込んでいる。風は涼やかで、それが一層ルナリアの目覚めに繋がった。


「あ……れ……?」

「起きたか?」


 困惑する少女を余所に、そう尋ねる男の声が聞こえてくる。声の方向を見ると、そこには黒のローブで頭と身を隠す長身の男が壁に寄りかかって立っていた。フードのせいで、前髪が赤い以外の事は解らない。

 ルナリアは訝しみながら、いつでも逃げられるようにしながらも男と向き合う。


「あなたは?」

「ラグナス。お前が呼び出したラグナスだ」

「呼び、出した……あっ」


 その名を聞いて霞んでいた記憶を取り戻したのか、その双眸を見開いて自らの震える右手を見つめた。そこには刻まれた悪魔憑きの証は無く、悪魔を切り裂いた跡もない。その瞳も元の紺碧に戻っている。

 それでも失ったものを思い出してしまい、彼女の吐息は荒く不規則になっていく。


「落ち着け、ルナリア」

「できないよ! おじ様が、おじ様が……」

「悲嘆するのは解る。だが、現実だ。泣いてもお前のおじは蘇らない」


 冷たく現実の規則を叩きつけるラグナスをキッと睨んで見せるルナリアであったが、彼の言葉は真実である事を何よりも理解していた。強気を見せる瞳はそれでも揺れていて、今にでも涙を流しかねない。


「あなたに……何が解るんですか!!」

「解るさ。何せ、その相手から言伝を渡されたのでな」


 ラグナスは少女の視線から逸らすように首を横に向けた。ちらりと、彼の肌が見える。影で彩られていた肌を持っていた。焼けたような肌ではなく、本当に漆黒の。そんな彼の頭上から日光が降り注いでいるのだから、少女は刹那だけ悲しみを忘れて綺麗だと感じた。


「亡骸は墓へ。積み荷は少女へ。そして少女の旅路に祝福を――」

「……おじ様」

「お前が涙を流したところで結末は変わらない。であれば、せめて失った者の願いを引き継ぐべきだろう」


 ラグナスが告げた亡き修道長の言葉と、彼が示した道を聞いてルナリアは唇を噛みしめる。

 自分を十年間も育ててくれた大事な人への想いは尽きない。だからこそ、彼が終始願っていた事をするべきなのだ。彼が用意してくれた巡礼の旅。それがどんな旅になるかは解らないけれど――ルナリアは、溜めていた目尻の涙を服の袖で拭き取って、真っ赤に腫れた顔でラグナスを睨んだ。


「あなたを信頼したわけではありません。あなたは悪魔。教会において悪魔は敵ですから……ですが、おじ様の遺言を信じます。ありがとうございます」

「悪魔なのは否定したいが……まぁいい」


 天井から聞こえる鳥のさえずりに、男の溜め息が混じった。



     【◆】



 朝を過ぎて昼となり、ルナリアの心も落ち着きを持ち始めていた。非情な現実に順応したとも言うのかもしれない。

 修道長が用意していたリュックサックには、旅に必要な物が詰め込まれており彼の部屋に置かれていた。言うまでもなく彼女のための物だ。それをラグナスに持ってもらい、修道院を見て回った。

 戦闘の衝撃で、朝食で使っていた皿が割れていたり、テーブルが倒れていたりと散々な光景であったが、少女はそれに触れないようにした。この光景を幸福だけではない物として覚える。世界は理不尽にあって、自身はそれのせいでおじを失った。そんな不幸な光景を。


「……行かなくちゃ」


 少女の瞳に迷いはない。おじを殺した悪魔をこの手で殺したのだ。その瞬間から、彼女の中には生きるという言葉が刻まれている。

 ――思い出ばかり見ていても、生きる事はできないから……。

 それを彼の妻が眠っているという墓の横――粗末ながら作られた修道長の墓で、そう祈りを込める。


「それでは行ってきます。おじ様」


 言葉はそれ以上、必要なかった。彼の死に顔を見れなかったのが残念に思うルナリアであったが、もし見ていたら決心が揺れ動いていただろうな、とも思ってしまう。

 彼の亡骸から目を背けて、少女の瞳に入り込んだのはリュックを持つ男であった。


「それで……あなたは本当にあのラグナスなの?」

「そうだ。お前がそう言えば俺はラグナスなのだろう」

「……それって、私が消えなさいと言えば消えてくれるの?」


 少女の意外な言葉に、フードで顔を隠す男はしばしの間を開けてから、いいやと首を横に振った。


「それはない。この身が形になった事で、俺は俺となった。名とはな、自身で名乗るか、誰かに名づけられる事によって成立する。そして名とは、その存在を確定させる。お前が俺をラグナスと呼んだ。それによって、俺はルナリア・レガリシアのラグナスとなった。それだけの事だ」


 難しい話で、ルナリアはラグナスのいう事を把握するのが困難であったが、この悪魔が自身がそう名付けたせいで生まれてしまったのは理解できた。

 彼は力こそ自分に貸してはくれたが、果たしてこの存在を野放しにしていいのかと考える。


「何を悩む。さて、それで今後はどうする?」

「今後? 私は隣町のクリェートへ向かいます。巡礼の旅をしないと」

「では同行しよう」

「えぇッ!?」


 ラグナスの言葉に先程までの考えが吹き飛んでしまう。確かに、それが一番最適な策である。亡くなったおじも、自分のした事は責任を持つ事と、と言っていた。

 だが、この悪魔を御する事が自分にできるのか。第一、このような経緯で生まれた悪を信じていいのか。リュックサックを預けている時点で、半分は信じているが、残りの警戒心が少女の決断を遅らせる。


「なんだ? 用心棒程度にはなるだろう」

「用心棒は、おじが雇ってくれたって――」

「その金を支払う相手がいなくなったのだ。現れる事はない。それに、これは正当な取引だ」


 そう言ってリュックを降ろすラグナスに、ルナリアは一歩右足を退かせる。戦闘でもするかと思ったのだ。単に彼は、積み荷は取引の対象から除く、と見せただけというのに。


「俺はお前が死ぬ限りこの世界にいるだろう。であれば、俺はお前を護る必要がある。消えたくはないからな」

「……それで?」

「だが、そのお前は旅に出るという。ならば、俺はそれに同行するだけだ。金も要らない。お前の身は俺が護る。重たいリュックも持ってやる。お前の損はない。話し相手にも困らないし、孤独感も感じずに済む」


 その条件は、たとえ彼が信仰に背く悪魔であろうとも悩みに値する好条件であった。特に孤独感は、想像していなかった事もあり苦い顔をする。

 なまじ十三歳。そのほとんどを修道長と暮らしてきたのだから、その襲い掛かる負の感情は計り知れない。それを紛らせてくれるのは他者であり、この場合、ラグナスである。


「ぐぅ……っ」

「悩む必要はないと思うんだが……そうだな。では契約しよう。約束でもいい」

「契約?」

「俺はお前の意見を正しいと思えば正しいと支持し、間違っていれば間違いと語ろう。そしてそれがなぜ間違いなのか、それを告げる――言ってしまえば、間違いと思うこと以外は全て従う」


 あくまで従順である事を語る悪魔に、ルナリアは折れるしかないと悟った。この男は意地でも自分を護るために動くだろう。付きまとわれると思うと面倒であるし、そうであればこの目で彼を見ていた方が気が楽である。

 盛大な溜め息を吐いて、ラグナスが怪訝な表情を浮かべるような気がして、ルナリアは小さく笑った。


「契約を結ぶ――けど、そのフードを外して? あなたの素顔を見たい」

「……絶対か?」

「うん」

「……仕方がない」


 どうにも嫌なポイントだったらしく、ラグナスは渋々とローブのフードを捲った。

 露わになる黒が混じる赤い髪。その髪の下の肌は何者よりも黒く、口は大きく開くかのように線が見える。何よりもその目に当たる部分には、兜の下に隠していた赤い一つ目があった。

 人と同じ大きさになってはいるが、そこだけはそのままらしい事を確認したルナリアは、やっと確証を得られて胸の中のわだかまりが消える。


「いいわ。あなたは私を護ってくれた騎士。まだ全部を信じるわけじゃないけど、信じてみる」

「ルナリア……」

「ルナでいいわ。これから長い旅路になるから」


 そう言って金髪を翻して、紺色の祭服を纏うルナリアはゆっくりと青空の下を歩き始める。

 フードを被り直したラグナスはその後に続こうと、彼女の影に踏み入れた時に少女はくるりと振り返り、


「これからよろしくね、私だけの騎士様」


 そう、微笑んで見せた。

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