4:亡霊―Deaspirit―

 隣町で旅に必要な物を購入した二人は修道院へと戻り、細やかながらいつもより豪華な食事を摂る事となった。新鮮な野菜を使ったサラダに、肉屋から祝いにもらった鳥肉を使っての丸焼き、コーンを磨り潰してミルクで溶かしたスープ、主食であるパン――節制をしている彼女達にとっては十分な贅沢である。


「すごい……けど、おじ様。いいんですか?」

「えぇ。あなたの門出です。最後ぐらい、こう贅沢をしても罰は当たらないでしょう」


 そう言って食事を始めるのだが、彼女はここに至って小さな不安を覚えていた。

 隣町での自分の無力感。浮浪者に左腕を握られた時も、酔っ払いに抱き着かれた時も、自分一人では対処できなかった。決して何もかもが一人でできる、なんて自惚れていたわけではなかったが。現実を見せられた。


「おじ様。私はとても無力です。旅に出たいという気持ちはありますけど……」

「否定はできませんね。あなたは芯の部分は強いですが、どうしても突然の出来事には弱かったりします。それにあなたは十三歳。世間一般から見ても、決して大人とは言えないでしょう」

「うぅ……」


 慕っている人だからこそ、その意見は否定できない。誰よりもルナリアの本質を理解している彼の言葉は、少女のスプーンの歩みを遅くするには十分だ。


「そう気を落とさないで。決して旅がいけないと言っているわけではありません。あなたの旅路を手伝える人と話は付けています」

「え……そうなんですか?」

「えぇ。向こうの用事もありますので、クリェートの出発日に出会えると思います。信頼できる人なので、大丈夫でしょう」


 そう言って物を口に含む修道長は、ルナリアの顔がパーッと明るくなっていくのを目に焼き付ける。彼女の笑顔は心を安らげてくれる、そんな強い力がある。彼だって、ここまで旅の準備をしているが、彼女との別れが悲しいのだ。

 今彼女が見せる笑顔を忘れないように、ラルドは白髪の下の瞳を細めた。



     【◆】



 ルナリアに寝るように言い聞かせて、旅の準備をする。かつて使用していた、旅のやり方を纏めた日誌の中身を確認してカバンの中へ入れ込んだ。旅人であった彼にとってはもう不要なものだ。

 そうやって準備をある程度終えると、修道院にある聖堂へ顔を出す。彼にとっては十年以上住んでいる場所だ。天井のステンドグラスが月光に当てられて祭壇に虹を描いている。


「さて、この光景も見治めかもしれませんね」


 そう独りごちに呟いて、ラルドは祭壇の上で溜め息を吐く。唯一の心残りである彼女も旅立つ。であればここに残っている必要もない。修道院を営みはしてきたが、結局はそれもついでの事であった。神も決して信じているわけではない。

 しかし、もしも神がいるのであれば、彼女の旅路に間違いがない事を約束してほしい。偽りの修道長は、そう祭壇で祀られている女神像に手を重ねようとして――


「誰だ?」


 後ろへ振り返った。小さな物音、扉が開く音が聞こえたからだ。

 風が聖堂の中へ吹き抜け祭壇にぶつかる。白髪が揺れて、その赤目にはハッキリとその男が映る。


「ほぉ……因果、ここに極まったか」


 黒く長い髪が風に煽られて逆立っているように見えた。ボロボロの茶色いローブは意味を成しておらず、揺れ動く瞳は紅く、爛々と、赤く輝いている。頬はこけて、口は無様に開かれている。

 その風体を、人は浮浪者などと呼ぶのだろう。


「ルナ……リ、あ……」

「……抜け殻か」


 ラルドはその言葉を哀れではなく、驚愕で言い表す。自身の中で映りこんだ幻を、それを再現したその肉体を、彼はただそう表現する。

 その瞳は旧来の友人を見るかのように揺れる――が、いいやと首を振り、眼を見開いた。


「君は何だ? 何の用があってここへ来た?」

「……ル、ナ……」

「今の君はそこにはいない。ルナリアは、君に渡せない」

「……るぅぅぅゥゥゥゥゥゥッ!!」


 ラルドの言葉に殺意を抱く声を吐く。昂るように巻き上がった髪は月光に照らされぬ闇と同化していく。赤き瞳を残して肌は少しずつ影に染まり、ボロボロの茶色のローブは肥大化する肉体によって引き裂かれていく。

 それは変貌であった。聖堂の中の闇が彼に力を貸すように、その身に馴染んで巨人の姿を造り上げる。


「ウォォォォォォァァァァァァッ!!」

「……悪魔」


 影を身に纏いし巨人を、祭壇で見上げるラルドはそう喩えた。聖道教会の教えの中にその言葉がある。神を地に堕した存在、黒き姿をし、人など虫の如く見ゆる巨体を持つ者、それこそが悪魔だと。

 二十メートルほどある聖堂の半分まで伸びた悪魔は、叫び声を上げるのを止めて、ゆっくりとギラギラと輝かせる血の色の瞳で祭壇を見下ろした。


「いや、あれはそんな抽象的な存在ではない」


 御伽話で出てくるような、そんな奇怪にして滑稽な生命ではない。姿形こそ似ていれど、ラルドの目には明確な答えが浮かび上がっていた。

 聖堂を震わせながら前進をしてくる巨人に対し、ラルドはチラと女神が祭られている像を見る。聖堂の奥にはルナリアが眠っているはずで、あまり大事を起こすのはよくない。

 抵抗する手段がないかと言えばあるが、それを起こすほど今の彼に余裕はなかった。


「仕方がありません」


 そう言いながら女神像の下の箱を開け、中にある鋼色の細長い筒を取り出した。引き金がついている持ち手があり、ラルドの上半身以上はあるそれは、あまりにも物々しい。

 かつて彼が旅をしているときに使用した武器であり、人類が作り出してしまった過ちである兵器――無反動バズーカ砲だ。


「弾数は一発……当たって」


 音を立てて近づいてくるその巨体に対し、祭壇の上で弾頭を込めた銃口を悪魔の胸部に向ける。その動きはスムーズで、手慣れて構える様は、祭服を除いては似合っていると言えた。

 ギリっという音と共に、引き金を指にかけて引く。瞬間にラルドに襲い掛かったのはバズーカ特有の反動だ。無反動と言っても砲塔を扱うのだから、身体全体に後方への重圧がかかる。

 闇を切り裂くように進む弾頭は、見事その反動に邪魔されずに悪魔の胸部へと進み行き――ラルドは老体に響くのか、ガコンとバズーカ砲を床へ落とした。着弾音が聞こえる。弾頭が何かにぶつかって爆発したのだ。


「おいおい……」


 問題は、赤い瞳が映した錯覚が、その音によって現実になった事だ。


「亡霊にまで果てたかッ!」


 いつもの物優しげな声音はもはやなかった。視界が起こした光景で、彼の素が現れてしまっている。

 着弾はした。しかし、悪魔の奥――斜角的には聖堂の天井に大穴を生み出したのだ。躱されたわけでもなく、されど外したわけでもない。通り抜けた、これが一番正しい。

 彼はそれを亡霊と言ったが、聖堂の身廊にある椅子は音をたてて踏み潰されていっている。存在は確かにそこにいる。しかし、攻撃は当たらない。少なくとも、彼が放ったバズーカでは。


「存在が曖昧――大気中の魔が、人の意志を依り代に構成したのであればこうにもなろう。しかし」


 祭壇の上から老人は動く事ができなかった。ラルドの推測であるが、あれは執着の塊である。ルナリアという少女を追い求める、悪魔の姿を借りた亡霊。彼の頭の中に、一人だけ該当する人物がいた。魂などと言う原理をラルドは信じないが、それに酷似した現象なら彼の記憶にある。

 ならばこそ、自身の価値は囮以下であり、逃げ出してしまえばこの修道院を更に破壊してルナリアを探そうとするだろう。

 それだけは許されない。だからこそ男にできるのは、彼女が逃げるまでの時間稼ぎだ。


「ルナリア……逃げてくれましたよね?」


 ゆっくりと、しかし確実に近づいてきていた悪魔は、右手に剣のような自分の肉体と同じ闇の塊を作り出していた。得物としてはあまりにも粗末であるが、悪魔の手にも満たない大きさのラルドにとっては十分な凶器だ。

 彼が死を覚悟する中、想うのは育てた彼女の事だ。十年……たった十年とは言え、彼は彼女への愛を持って育てた。血は繋がっていないし、性別も違うから苦戦する事もあったが、彼なりに良い子に育てたつもりだ。


「寝坊はしますけど……彼女は、やる時はやってくれますから」


 だからこそ、彼は信じられた。修道院に何かあればすぐに逃げるように言いつけをしている。隣町の宿屋まで逃げるように。ただでさえ非正規の修道院を営んでいたのだ。それぐらいの備えはしてある。

 悪魔の行進による振動、先程のバズーカによる爆音でなら目を覚ます事も可能だろう。あとは、彼女が逃げ切るまでのたった数秒を自身の死で賄えればいい。時間にしては数分。それだけあれば、一人の命ぐらい守られたであろう。

 死を恐れる事はない。元より死人に等しいラルドは、ルナリアを旅に出せばここを去るつもりだった。彼の役割は終わり。そう思っていたのだから、相違ない。


「今、そちらに行きますよ――」


 この地に眠るかつての伴侶に声をかけて、振り下ろされた剣を見上げ――そしてその最中、見てはいけない物を見てしまった。


「えっ……?」


 彼の過ちは、あまりにも親でありすぎた事か。ルナリアと言う少女は確かに礼儀の正しい、良識のある子である。だが寝坊はするし、二度も大人に絡まれるという失態を犯す。決して、完璧というわけではない。

 言いつけを言って、それだけを鵜呑みに行動するのは機械のやる事だ。人はそこで、不安と困惑、動揺に迷いを覚える。その心をラルドは完全に失念していた。


 聖堂と彼らの住まう住居の区切りである扉。そこに見慣れた金髪が目に映った。碧眼は揺れて見開いて、ただただ自分を見ている、そんな彼女を。


「ルナリアーッ!!」


 修道長は必死に彼女の名前を呼び、右手を差し出した。逃げなさいと言いたかった。でも言葉よりも身体が勝手に動いた。

 早く逃げて。逃げないと死んでしまう。自分の事はいいから……

 思い浮かぶ単語はたくさんあった。それでも、死の間際で彼が浮かぶ言葉はたった一つ。


「生きて――」


 鈍い音が、聖堂に響いた。

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