5:覚醒―Awasense―

 少女はただ、起きていただけであった。旅への興奮もあったし、いつもより激しい右腕の痣の主張もあった。中々寝付けなくて、溜め息交じりで三日月を見つめていたのだ。

 そんな静寂を壊す振動が聞こえれば、ルナリアだって気づく。彼女はおじの言いつけ通りに一目散に逃げ出そうとした。ただ、気がかりに感じたのはおじの存在である。なまじ、良い子に育てられた彼女は、自身の命だけではなくラルドの危険も救おうと思考しただけにすぎない。

 おじの部屋を見ても誰もいなくて、振動は強まるばかり。聖堂の方向であるのは確かで、彼女の中で嫌な予感は募るばかり。


「キャッ!?」


 強烈な爆音が彼女の耳を襲う。鼓膜が破れたりはしない。それでも、不安は爆発した。

 簡単な想像だ。音が聞こえる聖堂。その現場に修道長がいるのではないか、という子供ながら飛躍した想像。それでも、確かめなければいけない。もし本当にそうであったならば、助けられるのは自分だけだから。

 その培われた正義感と、自立し始めた精神を、現実は叩き潰す事となる。


「ルナリアーッ!!」


 聖堂への入り口にたどり着き、覗き見た瞬間だった。紺碧の双眸に映ったのは、黒い巨大な存在と、祭壇でこちらを見て叫ぶ大好きな修道長の姿。黒い巨大な存在はその右手に持つ何かを振り下ろしており、その下には修道長がいるのだ。

 何が起こっているのか、ルナリアにはすぐには理解できなかった。あの巨人は何なのか。なぜそれがおじを襲うのか。そしておじはなぜ怒っているのか――

 解るのは一つだけ。ラルドは死ぬ。


「生きて――」


 その声だけを残してルナリアの瞳から生きた彼の姿は消えた。祭壇に振り下ろされた一撃が大雑把に大地にめり込み、粉塵と風が巻き起こる。強烈な風圧が彼女の揺れる瞳を襲うが、現実だけを理解した少女にとってそれは些細な事だった。


「おじ……様……?」


 それを認める勇気は無かった。ただ、小さな希望だけが燻る。おじ様が死ぬはずがない。あの人が死ぬなんてありえない。おじ様はとても凄い人なんだから――根拠のない確信が、彼女の足を前に歩ませた。

 身体を縛る恐怖心よりも悲哀が勝った少女は、斬撃によって破壊された祭壇から舞う粉塵の中へ飛び込む。影の刃がすぐ側にある事も、何よりも悪魔が自身を見つける事も恐れずに、大事なあの人の元へ。

 祭壇の上にその姿はあった。白髪の黒色の修道服を来た老人だった物が倒れこんでいる。右腕は千切れてなくなっていて、右半身は肉を削がれていた。


「ぁ……ぁぁっ……」


 おずおずとルナリアは彼の手を握りしめ、そしてその命が終わった事を知る。ただ冷たかった。本当に、そこに人の命などない事を肉体が示していた。


「おじ……様ぁ……っ」


 粉塵が晴れていく。背後の巨大な気配がこちらを見ている気がして、瞳から漏れ出す滴を頬に垂らしながら恐る恐るそれを見た。

 赤い瞳を輝かせている、闇と影で構成された揺らめく巨人。その姿はどこか曖昧で、しかしそこにそれがいる事は確実で――ルナリアもまたそれを悪魔と思う。教会の教えにある、『エアの落日』で神を地に落とした悪魔と同じ存在だと。


「あぁっ……」


 吊り上った目がルナリアを見ていた。右手には修道長を殺した剣が握られている。

 その絶望を前にして、少女は恐怖に満ち溢れていた。育て親を殺した相手は、次にルナリアを殺さんと睨んでいるのだ。身体が竦んで動けない。震える脚がいう事を聞かない。

 逃げたほうがいい。逃げないと死ぬ。そうだと解っているのに――


「動いて……動いてよ……!」


 あの悪夢の中で見た女性は、こんな気持ちでその最期を迎えたのだろうか。そうおぼろげに思う。動く事も出来ず、抵抗する力も持たず、ただ死に行く様をただ見つめるだけ。途端に先程から走っている悪寒が凍りついた。

 死ぬ、とは。それはこの世界から自分がいなくなるという事だ。自分の命が燻り消えるという事だ。誰もが自分を忘れるという事だ。そこに、自分がいないと知ってしまう事だ。


「――ァッ」


 それがどんなに怖い事か、十二年間、考えたことも無かった。ただ漠然と起床して、おじと朝食を食べて、家事をして、隣町へ行って、本を読んで、夕食を食べて、床に就く――それが如何にかけがえのない幸福で、永遠ではない日常であった事か。

 自身の死の予感を感じ取り、涙は止まってしまった。死ぬのは怖い。消えたくはない。まだ生きていたい。朝起きて、おじ様と笑い合って、色んな物語を読んで、そして――何よりも、彼女はまだ知らない。自分の生まれた理由も、自分を選んだくれた世界の事も、自分が生きていく未来をッ!!


「生き……なくちゃッ!」


 少女の瞳は、そんな闇に浮かぶ光によって恐怖を消し去った。剣を引き抜いて、その視線を向けてくる悪魔を睨みつける。決して負けない。その刃が振り下ろされた瞬間であろうとも、その瞳は決して揺れないだろう。彼女の瞳には確かに絶望以外の感情がある。

 修道長に生きてほしいと願われた。それこそが彼女の今を作り描くとなれば――世界は彼女を祝福する。


『生きたいか?』

「えっ……」


 誰かの声が聞こえた。どこか聞き慣れているように感じられる男の声。決してあの浮浪者のような邪悪な雰囲気ではなく、確かに人の意志を感じる芯の通った声が、彼女の頭の中に響き渡る。

 突然の問いかけに、ルナリアは擦れた声を漏らしてしまう。死に際の幻聴――にしてはあまりにも人間味を感じる声であったから、尚更混乱してしまう。


『生きたいのか、と聞いている』


 その声は彼女の発言に期待しているように、そう再び問いかけた。そこには決定的な意志があった。

 心臓が鼓動する。それが何かは解らない。でも確かに聞こえた。それが自身の内なる声であっても、それが死に際の幻聴であったとしても。その問いを答える心はまだ残っている。


「……生きたい」


 それはどうしても、どうしようとも、求めるべき本能。人が、動物が、生物が、少女が祈るべき当然なる願い。この胸に宿る炎は、まだ死んでいないのだから。


『ならば呼べ――お前が知る、その名を!』


 眼前の悪魔はその巨大な刃を振り上げる。今ならまだ逃げ出せるかもしれない――だが、彼女はその選択をしない。彼女の心はただ前を向いていた。

 右手が強く疼く。熱を持って、興奮を露わにする生命のエネルギーが、右腕だけではなく彼女の肉体全てに広がっていく。嫌悪感を覚えるべき赤い魔力が自身の肉体に順応していくのに、彼女は不思議と嫌ではなく、むしろ足りなかった何かを取り戻したかのような充足感を覚える。


「あなたの名を呼ぶ――そう、私の罪を、私の想いを寄り辺に、私はあなたを選ぶ」


 言葉は自然と馴染んで口から出た。自身の心がそのまま言葉になっているような、それほど流暢に、淀みもなく。彼女は破壊された祭壇の上で、神ではなく悪魔へ、手を重ねて瞳を閉じる。


「恐怖と正しき意志を持つ唯一の騎士、暗澹あんたん曙光しょこうに変える者――」


 ルナリアの周りに巨大な魔法陣が広がる。それはどこか巨大な一つ目のように見えるし、二つの円が重なり交わっているようにも見える。身体に走る血液の如き赤光が、彼女を守るようにその陣を作り上げた。

 風が逆巻く。聖堂の中にあった空気が奔流となって彼女の金の髪をなびかせる。その風に恐れを抱いたのか。それとも、もはや名を呼んでいた浮浪者の意識はないのか。悪魔の剣は実体を持って、天井のステンドグラスを破壊しながらも、縦に大きく振り下ろされた――


「――来なさい、ラグナスッ!!」


 大きく見開かれた瞳は、もはや恐怖に堕ちた涙の色などではなく、目の前の悪魔を打倒するために見出した生命の赤に染まっていた。赤き虹彩が青を塗りつぶした瞬間、彼女の全身に走る痣も全て瞳に帰着する。

 先程よりも近くに迫る刃に怯えなどなかった。ルナリアは魂に刻み込まれていたその名を呼び、男は満足げに笑みを浮かべて、彼女の声に応える。


「ならば来よう! 我が契約者、ルナリア・レガリシア。今こそが、贖罪の時だッ!!」


 ルナリアを中心とした魔法陣の中から、その歓喜の声は確かに聞こえた。

 瞬間、その振り下ろされた刃はある巨大な右手によって受け止められる。赤き魔法陣から浮かび出た、黒き鎧を纏った右腕を折り曲げて、左方から来る刃を受け止めたのだ。ルナリアの頭上で剣を受け止め、落ちてきた色とりどりのガラスの破片から彼女を守る。

 斬撃を受け止めた黒の右手は、ガラスが散り終えた瞬間にその闇の刃を握りしめて粉砕する。


「悪いが、質の低いなまくらでは、俺を裂く事はできん」


 四散する闇の刃が月光に溶けていくのを見つめるルナリアの背後から、そのような男の声が聞こえてきた。嘲笑、もしくは嘲弄。嗤笑でもいい。人をバカにする、そのような声音。

 少女が後ろを振り向くと、そこには胴体までが魔法陣から抜けだした黒の騎士の姿が存在していた。


「あなたが……ラグナス」


 兜で顔を隠すその黒騎士は、慈しむようにルナリアを見た。



     【◆】



 かくして、碧眼の少女は緋眼の悪魔と邂逅した。

 生きるために悪魔を呼んだ少女と。

 その少女の言葉に応えた悪魔の如き騎士。

 これは、二色の運命が重なり生まれた、『軌跡』なのだから。

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