〜3章〜

第27話 【妄言解離して】

 ―――夜・氷峰宅。


 彼の部屋でたった一人ソファに座り込んでいた。彼に留守番を頼まれていたからだ。

 彼女と呼ぶに相応しいかどうかはわからない。氷峰弓弦自身もまた、彼女を彼として抱いているかもしれない。

 氷峰の義理の父親である柊司秋が病で倒れた時、彼女は彼に付いて行くのをやめ、家に残ることになった。正直な所キュプラモニウムに戻っても、自分の生まれ育った過去を振り返ることになりそうだからと、彼に返事を交わしたことも理由の一つだった。

 彼女はソファで氷峰の帰りをただ待つことしか、今はできなかった。

 静寂に包まれる中、一本の電話が鳴り響いた。

 手元の携帯電話の画面を見ると、柊蔀ひいらぎしとむからだった。


 ――『もしもし。急な話で悪いんだが……――』


 蔀の声のトーンがいつもより深刻そうだった。何故なら――、


「……え? 今日は帰って来ないかもしれないって、どういうことですか?」


 氷峰が帰って来ないという知らせを、突然告げられたからだ。

 亜結樹は躊躇なく彼の答えを問い詰めた。


 ――『いや、君も知っていると思うが、あいつは今、みささぎという男に直接会いに行くと言いだしてな……』


「陵……さん……」


 ――『俺も一度は止めようとしたんだが、お前の事よりそっちを優先するなんてよっぽどだ』


「蔀さん……私の心配はいいですから。一人でも大丈夫です。それより何で陵さんに会いに?」


 その一言に、蔀は一瞬先を読まれたと思って動揺した。だが即座に言葉を返した。


 ――『その事なんだが……お前に話せる理由はないんだ。すまない……』


 蔀は、彼女ならすぐに理解してくれるだろうと期待を込めて、氷峰が陵に会いに行く理由を語るのを柔和に断った。


「そう……ですか。そんなに時間のかかる話なんですか? 陵さんに会うのって」


 ――『病院から施設までそう遠くはないが、距離だけの問題じゃないからな……』


「そう、ですよね……」


 亜結樹もすぐに勘付いたことがあった。氷峰の父親が倒れたのと、その病院内で交わされたであろう話。その二つとこれから会いに行く陵さんとの間に氷峰が深く関わっているのかもしれないと。

 今は何も口出しすることはできないかもしれない。蔀に今何かを問い詰めたところで、自分はただ氷峰弓弦のそばにいることしかできないのだから。


 ――『俺も一旦施設に戻ってやらなければならない仕事が残ってる。ミネに何か伝えたいことがあれば……話しておく』


「……えーと、ううん、大丈夫。今は何も伝えておくことはないから……」


 ――『そうか。わかった。用件は済んだ、切ってもいいか?』


「あ、待って!」


 蔀が電話を切る合図を電話越しにすると、咄嗟に亜結樹は慌てて声を上げた。


 ――『どうした?』


「……陵さんはまだあたしのこと……覚えてるのかな」


 ――『……嫌でも忘れはしないだろう。イフ・クローンだったんだからな……』


「……そう……ですよね。ごめんなさい、変な質問しちゃって……」


 ――『いや、構わないよ。あの人も施設で育ったクローンの一人や二人、把握してるはずだ』


 流れるような会話が続いた。そして本当に、今度は電話を切ってもいいかとお互い確かめ合うと電話は切れた。


「ミネ……陵さんに……」


 亜結樹は未だに忘れられないでいた。施設の中で生活をしていた頃、陵のあの鋭い凍てついた眼差しがあった事を。眠たい目を擦りながら、窓の外の夜景を少し見ながら、そんなことをふと思い出しながら彼女はこう呟いた。


「今日は、もう寝よ……。ミネ、おやすみ」

 今は亜結樹の傍に居ない彼にとって、長い一日になりそうだ。



 ―――キュプラモニウム施設内・廊下。


 柊司秋ひいらぎしじゅうが倒れてから、もうすぐ一夜が明ける。その頃に彼は一人、赤い車を走らせ施設に立ち寄った。正門を通り抜け、車を所定の位置に止めると施設の戸をカードキーを使って中に入る。まだ日が昇らない施設内は暗闇に包まれたままだった。彼の足音だけが静かに響き渡る。どこへ向かおうとしているのか誰も知る由もない。わざわざ誰も来ない時間帯に向かう先は、施設の最下層に眠っているクローンのもとだ。薄暗い部屋の中で白衣を翻した彼は、青白く不気味に光る水中に浮かぶクローンの様子を見に来ていた。

 2メートル程の高さのあるメスシリンダーの装置の動作を点検しながら、彼は独り言を呟いた。


「君は、誰になるのかね?」


 その明かりは、まるで沈んだ夕日が月へと生まれ変わる様だった。

 単なる深海を連想するものではなかった。


「俺はこの子を生み出したら、終わりにしようと思うんです……司秋さん……」


 ――どこまでも追いかけてくる月からは逃れられないな……なんてね。

 ――允桧まさひが言いそうな言葉だ。


 窓の外に目をやると、もうすぐ朝日が昇る頃だと感じた。

 この時間に誰かが訪問してくる人物といえば、心当たりはある。

 司秋の見舞いで訪れた病院ですれ違った彼のことも、この朝日を見ればなんとなくわかった。



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