第9話 【見えてくる形 -2-】


 亜結樹はいつものように、下駄箱で海鳴に「おはよう」と挨拶をした。

 だが、海鳴は亜結樹に対し語尾だけ聞こえるように呟くと、上履きを履いてさっさと教室へ歩き出してしまう。

 亜結樹は海鳴に昨日の放課後の立花との件を話し掛けようとしたのだが、海鳴は足を止めることはなかった。

 教室へ向かう廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。


「氷峰さん……」

 亜結樹は振り返る。

「小北さん……?」

「話があるの……。今すぐじゃなくていいから、休み時間になったらちょっと……」


 声をかけてきたのは立花からエミと呼ばれていた彼女だった。彼女以外にもう一人、立花と共に行動していた子もいた。

  

 教室へ入り、亜結樹は海鳴に視線を送るが、彼は亜結樹の顏を見向きもしなかった。ただずっと、窓の外をぼんやりと眺めていた。

 海鳴の後ろの席に、立花の姿はなかった。二人は授業が始まるまでの間、会話を交わすことはなかった。

 休み時間になる。亜結樹はエミの所へ行く。エミは付いてきてと声をかけ、人気のない廊下に亜結樹を連れていく。すると突然向い合わせになり、亜結樹に向かって深々と頭を下げた。

「今まで本当にごめん」

「――!?」

「あたし、本当は……氷峰さんじゃなくて、友美香がレズビアンだって気づいてた。勝手に噂広めてごめんなさい!」

 エミの隣にいた彼女も一緒に頭を下げた。

「小北さん……頭……上げてよ」

「違うのあたし、氷峰さんが友美香のこと振ったって聞いたのに、友美香が本当のこと教えてくれて……でも、あたし……わからない」

 二人は頭を下げたまま、言葉をゆっくり紡いでいく。恐る恐る口にした言葉に亜結樹は怪訝そうな顔をした。だが次に来る一言に目を丸くする。

「?」

「あたしには、同性愛は理解できない……。ごめん」

「……」

 亜結樹はエミの言葉に、鬱いだ顔をして黙り込む。

「小北さん……いいよ……その事は……」

 ――だって……もう終わったから。

 ――友美香とはそういう関係にはなれないって……わかってるから。身体的にも。

 亜結樹はレズビアンという存在を図書室で借りた本を読み、理解していた。


 己の感情を左右するものが何なのか、自覚し始めている。それは畏怖クローンであるという事。亜結樹は、氷峰と付き合うと決めた事を立花に話す必要はないと考えている。そして、身体的にも精神的にも、自分を好きになってくれる相手が、普通の異性愛としてなのか、同性愛としてなのか、答えを求めてしまう時がある。立花の場合、相手が亜結樹の事を女子だと思っていたので、『同性愛』なのだが、亜結樹は氷峰に言われた通り、肉体的にその感情を否定する事になった。

 そして――立花は昨日、亜結樹の身体を想像し、気づいてしまった。

 亜結樹の体が半分、男であるという事に。


 ――亜結樹は友達として、立花と向き合いたいと思っていた。


「氷峰さんは、氷峰さんらしくいて。あたし、氷峰さんと柊のこと、応援してるから」

 その言葉を聞いた亜結樹は目を見開いた。亜結樹は考えた。エミはおそらく、立花から亜結樹と海鳴が付き合っていることを聞かされたのだろうと。

「ねぇ、小北さん」

「……?」

「友美香……あたしのこと……何か言ってなかった?」

「……」

 エミは一瞬亜結樹から目を逸らし、また目を見ると――

「ううん、亜結樹に対しては何も。あのさ、あたしたちも、友美香も悪いと思うんだけどさ、でももっと悪いのは――」

 エミはスカートの裾をきゅっと摘みながら――

「?」

「柊だよ。最低だよアイツ……。ねぇアイツのどこがいいの?」

 亜結樹に言い放つ。

「いいって……あたしはただ一緒にいるだけだよ」

 ――海鳴と恋人同士なんて……本当はあまり意識したくないんだ。

 ――多分形だけ。上辺だけ。だってミネの存在の方が大きいから。

 ――あれ……これって浮気……っていうのだよね……。

「だからって普通、手、繋ぐ?」

「それは向こうが勝手に…」

 その言葉を聞いたエミはため息をつき――

「ま、あたしは柊なんか絶対タイプじゃないけど、二人の邪魔はしないから」

「……あり……がと」

 亜結樹は、たどたどしく返事をする。そしてエミは――

「氷峰さん……あたし達のこと許してくれるの?」

 真剣な眼差しで亜結樹を見つめて言った。

「うん……」


 ――許すとか許さないとか……そういうの……考えてなかった。

 ――友美香に会ったら……どんな顔したら良いのかな……。


 チャイムが鳴った。


 ***


 昼食の時間、亜結樹はエミ達とは一緒にいることはできなかった。

 エミの誘いを断り、普段通りに海鳴に声をかけた。

 だが、海鳴は亜結樹の目を見るや否や席を立ち「一人で飯食う」と言い放ち、亜結樹の側から離れていってしまった。


 仕方なく、亜結樹は屋上の入り口付近の階段に座り込み、一人で昼食を摂った。

 亜結樹は海鳴のあからさまに自分を避けている態度に、悩んでいた。


 ――あたしが友美香のこと気にしているみたいに、海鳴はあたしのことずっと気にしてる。

 ――わざとらしいというか、突き放すのって本心かも。だって――。


 机と椅子を取り戻した日の帰り道での、海鳴の伝えたかった言葉を想像してみる。


 ――海鳴は既に付き合っている人がいるんだから、あたしを好きになるなんてことは、あってはならない事実だ。

 ――それに、あたし自身も海鳴と付き合うことは――!


 亜結樹は頭の中で何かに気づく。教室に向かっている足を止めてしまう。

 昼食のゴミが入っていたコンビニの袋を落としてしまった。

 袋はふわりと床に落ちる。

「……――!」

 ――同性愛になる……!

 ――じゃああたしは……俺のこと……もしかして男だってばれてる?

 亜結樹は冷や汗をかく。すると――

「あ、落ちた……」

 誰かが突然、亜結樹の背後から声をかける。亜結樹は慌ててコンビニの袋を拾って即座に振り返る。

 海鳴が目の前にいた。

「か、海鳴……脅かさないでよ!」

「何? そこに突っ立ってたら教室入れないじゃん。俺と飯食いたかったの?」

 海鳴は薄笑いをする。

「べ、別に……じゃあ海鳴はあたしと一緒に食べたくなかったの?」

「ん……ああ、そうだよ。そういう気分の日だってある――」

 海鳴が言いかけたその言葉を伏せるように――

「友美香と二人でいる時、何話してたの? あたしの話してたんでしょ?」

 亜結樹は海鳴を睨んで言った。

「………」

 海鳴も亜結樹を睨む。むくれながら頭を掻くと、黙ったまま自分の席まで歩き出す。そして姿勢を崩して座り込む。

 亜結樹もむくれる。そのまま海鳴についていき、亜結樹自身も自分の席に座り込む。遠くに座っていたエミと友人二人が、遠目に二人の様子を眺めていた。


「あれ、どう見ても仲悪いよねー」

 エミが小声で言う。

「ていうかさ、両思いじゃなくて片思いだったとか」

 エミの隣にいた彼女が言う。


「どっちが?」


 もう一人が疑問を投げかける。

 そしてエミがその疑問に答える。


「柊が氷峰さんのことずーっと好きだって感じじゃない? 一方的に」


 ***


 清掃の時間が来ると、教室や廊下、周囲は慌ただしくなる。 

「それでさ、友美香泣いてたんだ……。昨日、電話が来てさ――」

 亜結樹は廊下の角で立ち止まる。自分から少し離れた所にいる、箒を持ったエミの話し声に耳を傾ける。本人に気づかれないよう、その場に身を潜めた。

「友美香、柊のことビンタしたんだって言ってて、罪悪感は全然ないんだって。でも暴力はちょっとね……」

「柊が立花に殴られたとかマジ?」

「立花さんって強そうな人だと思ってたけど……。そこまで……。そんなことしたんだ……」

「あ、それでね、氷峰さんが柊のことが、本当に好きなのかどうか……知りたくても知るきっかけが作れないって悩んでたんだ。それあたしに相談されてもさぁ……あたしそういうの疎いっていうか――……」


 要するに小北エミは、立花の恋愛相談に乗りたくないという話だった。

 亜結樹はエミの言葉に息を呑む。

 亜結樹は、あの日、教室に戻った時のことを思い出す。

 教室に佇んでいた海鳴の片方の頬が、赤らんでいたのを見たので、『立花が海鳴のことを殴った事実』は薄々気づいていた。息を呑んだ理由はそれではない。


 ――友美香が、あたしが海鳴のことを好きかどうか確かめたい?

 ――あたしは……友美香と付き合うことを断った……のに。

 ――でも断られた友美香はあたしのことずっと……引き摺っていたんだ。

 ――あたしは今、友美香に何をしてあげられるのかな……。


「……」


 ――それより……わかった気がする。

 ――小北さんが友美香とあたしの関係には無関心だってことが……。

 ――だから『同性愛がわからない』って言ってたんだ。



 ―――放課後。


「海鳴……一緒に帰ろう?」

「ん……そんなに俺と一緒に帰りたいのかよ」

「海鳴だって……本当は――」

 亜結樹の言いかけた言葉を遮るように――

「――わかったって……。んじゃ帰りますか」

 海鳴は言った。いつもよりお互い元気のない声で話す。彼が元気のない理由は、立花が登校してこなかったことを亜結樹が気にしているからだ。

「……」

「……」

 二人は手を繋がず、平行して歩いている。暫し沈黙が続き――

「昨日の友美香とのこと……別に気にしてないよ?」

 話を切り出したのは亜結樹だった。

「顏に出てる」

「そ……そう?」

 海鳴はため息をついた。亜結樹は続けて話し出す。

「あたし……小北さん達と仲直りできたんだ。仲直りっていうか向こうから謝ってくれてさ……」

「そーなんだ。じゃあもう……お前を守る必要はなくなったみてぇだな」

「え?」

 亜結樹は足を止めきょとんとした顏をする。海鳴も歩くのを止めると――

「なぁ……ミネって人とどこまでいったの?」

 そう言いながら突如、亜結樹を壁に追いやる。

 民家の一角、人通りも少ない所で、海鳴は民家の塀に片手を突き、亜結樹の目を見つめる。

「な……何?」

 海鳴に見つめられた亜結樹は目が泳ぎ、海鳴を直視できずにいた。

「キス、したの?」

「し……したよ?」

「じゃ、俺ともしてくれない? ダメ?」

 顏を近づけてきた海鳴の一言に、亜結樹は海鳴の目をはっきりと見つめ直して――

「だ、ダメに決まってるじゃん!!」

 と言い放ち、海鳴を突き放す。すると海鳴は、亜結樹から断られるのをわかっているかのように――

「……っハハ。あれ? 俺とお前付き合ってるんじゃなかったっけ? アハハハハ」

 返事を期待していた自分に対して可笑しな笑い声を上げる。亜結樹は、お腹を抱えて笑っていた海鳴の姿を見て――

「なにヘラヘラしてるの?」

 真面目に話しかける。

「お前こそ何、堅い顏してさ?」

 海鳴は笑うのを止めたが、にやけながら亜結樹の顏を見る。


「海鳴……付き合ってる人いるんでしょ?」

「そうだけど?」

「実はさ……前から思ってたんだけど……」

 亜結樹は鞄を強く握りしめながら――

「初めからあたしと恋人同士になんてなれるわけないじゃん!」

 今まで思っていた事を言い切った。

「ふ……今更? じゃあ何で手繋ぐの拒否しないの? いじめられてたから俺に甘えてたわけ?」

「それは……海鳴が勝手に……」

「俺が悪いって言いたいわけ?」

「そうじゃないけど……」

「まぁいいや。ちょっとミネって人との関係勘繰り過ぎたかなぁー……ほんとにキスだけ?」

「そうだよ!」

「ふーん……」

「あのね……だから恋なんてお互いしてないんだって」

「……そうなのかなぁ?」


 ――俺はこんな亜結樹を好きで好きでたまらないんだ。


 お互い相手の性格を突っつき合っている。海鳴は亜結樹に惹かれている。

 その感情は時に、貶めたいという思いに変わることがある。だが、亜結樹はまだ海鳴の本心に気づいていなかった。海鳴はみささぎと同じ性格をしている。女性に対して自分が優位に立ちたい――他人を見下したい感情に刈られること。

 海鳴自身は己の性格を自覚し始めている。対して亜結樹はというと――

「かなぁ……ってあたしには海鳴のことがまだ、わからないんだよ」

 性格が浮遊している。亜結樹は蔀の下で育ってきた為に、普段は穏和な性格をしている。だが氷峰や陵の思った通り、允桧まさひという人物と似ていて、感情的にもなりやすく癇癪かんしゃくを起こしやすい。

 亜結樹は自身の性に困惑することがある。

 そして、海鳴は亜結樹が畏怖クローンであることにまだ気づいてない。

「俺の事まだわからない? ははっ……自然にわかっていくんじゃね? そういうの」

「海鳴はあたしのこと……わかってるの?」

「いや、わからねぇよ。全然知らない。だってまだ会ってから一ヶ月しか経ってねぇじゃん」

「そうだね……」

 ――イフである事を伝えるには、まだ早いかな。

 亜結樹は俯く。その様を見て海鳴は声をかける。

「また下向いちゃってさー、お前のそう考え込んでる姿とか見ると俺、気になっちゃうんだよ」

「何が……気になるの?」

「お前がミネと上手くいってるのか? とか、本当にお前が――」

「え――!?」

 海鳴の言った言葉に亜結樹は心臓が飛び出しそうになった。自分から伝える前に、伝えたいと思っていた事が海鳴にわかってしまったようで、身を竦めてしまった。


 ――本当にお前が、女の子かどうか気になっちゃうんだよね。


「さっきの言葉、俺の勝手な想像だから気にすんなよ。ほらお前って女の子っぽくねぇからさ」

「そ、そう……だね。うん、じゃあ、また明日」

「じゃーな」

 亜結樹はいつもの分かれ道で、海鳴と別れた。

 二人の感情が噛み合う時、氷峰や八束がどんな態度をとるのか、想像するのを楽しんでいる人物がいる。

 ――陵莞爾。彼は亜結樹を蔀に作らせ、海鳴を作り出した研究員でもある。その昔、彼は允桧の世話をした医師でもあった。




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