第21.5話【悲愴に浸る、夢を見て】
亜結樹は目を覚まし、隣で眠る氷峰の寝顔を暫し見つめた。
上半身を起こし、彼の前髪に少し触れた。
彼の顔には一滴の涙が滴り落ちた後があり、肌が微かに濡れているのを感じた。
彼が目を覚ます前に、食パンでも焼きながらコーヒーでも飲んでいようか考えた。
「きっと悲しい夢でも見たのかな……」
ベッドからそっと降りて服を着る。カーテンを開けると、曇りがかった空が広がっていた。
トースターの音が部屋の中でジリジリと鳴り響いている。
「待っていると長く感じるな。お湯も沸かさなきゃ……」
亜結樹はあくびをしながら台所に立ってやかんに水を入れ火を点ける。
やかんがカタカタ音を立て始めると同時に、食パンの焼きあがる音がした。
「あ、焦げちゃったかも……しれ――」
トースターを開けると、案の定薄黒く表面が焦げた食パンが顔を覗かせた。
食パンの焦げ臭い匂いが部屋に充満した。
「あーあ。やっぱり焦げちゃったー……」
亜結樹は食パンの焦げた匂いを嗅ぎながら嘆いた。
「あ、お湯が――!」
慌てて台所の方へ振り返ると、そこには彼がやかんの前に立っていた。
「……おはよう、亜結樹……」
火を消しながら上半身裸の彼は亜結樹に静かな声で言った。
「あ、おは……ごめん」
「何で謝んだよ」
「だって食パン焦がして、その……いや、そうじゃなくて……泣いてたから……」
「え? 俺が泣いていた?」
給湯器にお湯を注ぐ手が一瞬止まり、亜結樹の顔色を伺った。
また注ぎ直して、やかんを空にするとシンクの奥の棚に置いた。
「うん……もう秋なのに、顔が濡れてたからさ……」
亜結樹はそう言いながら、トースターを開けて二枚の食パンを取り出しお皿に並べる。
「そっか……。こんなに肌寒い朝がいつの間にかって感じだな……」
氷峰は亜結樹から食パンの乗った皿を受け取りながら呟いた。
二人は昨夜、初めて一緒に同じベッドの上で寝た。
今まで同じ部屋で寝なかったのは、彼の気持ちが亜結樹の精神的な負担になるかもしれないと、蔀が彼に前もって話していたからだ。二人の感情が友情ではなく恋だと知りながらも、蔀は見守ることしか出来ない。そして彼の頭の中では、蔀から新たに聞いた言葉が
――『――允桧の下半身と付き合っている』
「悲しい夢だったのか……」
氷峰は独り言を呟いて軽く溜め息をついた。
「俺……いや、あたし、さ……ミネより早く目が覚めたの初めてかも」
彼の脳裏に允桧の肉体が亜結樹と結びついていることなんか、亜結樹自身は知る由もない。
彼が話す訳無いからだ。それなのに――。
「そうなのか? まぁそれはよくて……。俺の頬が濡れてるって何でわかったんだ……」
「そ……れ……は……――」
亜結樹が顔を赤くしながらよそ見をしていると、急に彼はすっと立ち上がって中腰になり、亜結樹の頬に軽く触れた。
「こんな風に俺のこと触っただろ?」
真顔で亜結樹を見つめる。その数十秒後――。
「え……う、うん」
ゆっくり微笑んで見せた。亜結樹も自然と段々と笑顔になっていた。
自分の頬に触れている氷峰の手が悴んでいた。
乾いた砂に触れるかの様に――。
それは朝焼けに照らされた海を眺めて、日の出に手を翳しているかの様に――。
それなのに――允桧の夢を見ていたのは亜結樹も同じだった。
夜の海へ出掛けたのは、二度目だ。亜結樹と海鳴と八束を連れて行った時が、二回目の海だった。
過去に允桧が海へ行きたいと言ったにも拘らず、なぜか俺と二人っきりで行くのを拒み、華木も付いて来る事になったのを今でも憶えている。
それが今、夢となって現れた。泣いていたと思われても仕方の無い事だと思った。もしかしたら、允桧が今も夢となって現れてくるのは、悪夢なのかもしれない。
「俺は、言葉で言うより先に体で覚えさせたって事なのかもな……」
「別に、嫌な気分じゃなかったし……でも何で泣いてたのかなって……」
「お前はきっと人恋しいとか、そういう気持ちがまだ足り無いんじゃねぇの?」
「そうなのかな……」
「ごめん、ちょっと言い過ぎたか……。そうだな……夢の話するよ」
そう言うと彼は、インスタントコーヒーを淹れた。亜結樹の分を一緒に注ぎながら、自分が見た夢の続きを話した。
「暗闇の中、ずっと長い砂浜を歩いていて、何故かあいつが目の前に立っていたんだ。恨めしそうに目が合うと、いつの間にか擦れ違ってて背中を向けていたんだ」
「その人はもしかして……」
亜結樹が目を見開いて、息を呑みながら口を開いた。氷峰は彼女の表情に動じることなく、冷静に話す。彼女が言いたそうにしている人物の名を否定した。
「……違う。浜辺に座って海に背を向けていたのが允桧だった……」
コーヒの香りが漂う中、氷峰は頭を抱え込むように頭を搔き上げた後、亜結樹の焼いたパンを一口齧る。
――夢の中で見た恨めしくも儚げな華木の顔を、はっきりと見たのは…またどっかで会いたいと思ってるからなんだろうか。
「……允桧は海に背を向けてたんだね……。ねぇ、允桧はどんな髪型をしてる人なの?」
「ん? あぁ白くて肩ぐらいまでの長髪だ。何だ、允桧のこと気になってんの?」
「その夢みて気分悪くしたなら悪いけど……あたしも変な夢見たんだ……」
「どんな夢?」
「あたしも同じような人物の夢を見たんだ」
亜結樹は彼が見た夢の話を聞いて、思わぬことを口にした。ぼんやりとした表情を浮かべながら呟いた。彼女の言葉に彼は内心驚いたが、顔には出さなかった。彼は、亜結樹が何を悲しいと感じ取ったのか考えた。彼はいつか亜結樹に、辛い思い出を話さなければならない時が来るだろうと考えた。
「そんな允桧が夢の中で出るなんてこと……ないだろ?」
物哀しげにそう言う氷峰の顔には、もう涙は出て来ない。
亜結樹は不安そうに氷峰の顔をまじまじと見つめていた。
――ミネを見ていたあいつって誰のことかな……。
――あたしは知らなくていい人なんだ。でも――。
――允桧のことはあたしも知りたい……同じイフ・クローンとして――。
「でも……見たんだ……」
亜結樹は、允桧の過去を知らない。出逢った事もない。
それなのに彼の見た夢を追う様に、彼女の夢の中で允桧は亜結樹を抱きしめていた。
それを今目の前にいる彼に話そうか、亜結樹は迷っていた。
昨夜、氷峰は亜結樹に允桧という人物と過去に付き合っていた事を話した。允桧が亜結樹と同じイフ・クローンという事も、命を絶ってしまった事も。
裸になり同じ掛布に包まれている中、向かい合わせになり短い会話を交わした。
「ミネ……なんで允桧は、自殺してしまったの?」
亜結樹の淡々とした言い方に、氷峰はくるりと彼女に背を向けた。機嫌を損ねたわけではない。ただ身を寄せ合っているのに、この状態で過去を思い起こしている自分を彼女に見せたくなかった。
「…なんでだろうな…。理由なんて…。ただあいつは…――」
氷峰は何か言いたそうに口を噤んでいた。一息ついて亜結樹の方へ振り返ると彼女と目が合った。
「――…………」
彼は口が開いたままの状態になり、息が一瞬止まってしまう。また亜結樹に向かって小さく息を漏らした。亜結樹が小声で――。
「……ミネと允桧の思い出話……聞かせてよ」
と言った。彼女の言葉に氷峰は真剣に答えたかったが――。
「思い出なんて……」
話すのを諦めてしまった。
――楽しい思い出なんてあっただろうか…。
――あったとしても、亜結樹に允桧の面影を重ねるのは良くない気がすんな…。
彼は瞬きをして、再び彼女の顔を見た。そのままぼんやりと彼女の顔の先を見て、允桧の事を思い出した途端に、目の奥がじわじわ熱くなっていく。瞳を閉じると、一滴の涙が滴り落ちた。
「あ……! 何泣いてんだ俺……」
「ミネ……?」
彼はまた、亜結樹に背を向けてしまった。
「辛い思い出しか、思い出せねぇ……。允桧は……あいつは……陥れられたんだ……。だから――」
彼がもう一人の誰かに怯えるように吐きかけた言葉を汲む様に、亜結樹は強く後ろから抱きしめた。
「だから犠牲になったの? ミネのせいじゃないよ。……過去を責めないでよ」
「……ああ」
「いつか、話せる時が来たら……話して」
「……ああ。それがお前の為になるならちゃんと話すよ……また今度」
「うん……」
一夜が明けて、二人は悲愴に浸る夢を見た。
亜結樹は、彼が淹れてくれたコーヒーを飲み干すと、気を取り直して彼にこう告げた。
「夢は夢だよ」
彼女の言葉に、氷峰はきょとんとした顔になり――、
「そうだ……よな……」
彼も一杯淹れたコーヒーを空にした。
「ねぇ、来年の夏もみんなで海に行こうよ。今度は蔀さんも速水さんも入れて……」
「蔀来るなら八束は来ねぇな……」
「そうなの?」
「ああ……でも、な……――」
氷峰は椅子から立ち上がり、背筋を伸ばしながらあくびをする。しながら――、
「お前が言うなら、みんな連れて行きてぇよなぁ……」
一言、嘆くように話した。
「うん。それで、花火もしたいな」
「ああ、そうだな……」
今は無理でもいつかは――という期待と、昔を誘う気持ちが彼の胸中を傷みつけている。
夏は終わりを迎え、秋がやって来る。汗ばんだ体を透き通った冷めた空気で乾かしていく。
季節は巡る。二人で見た夢は仄暗い夕闇を抜けていくためにあったのだろうか。
〜あとがき〜
9月某日という所までの間に起きた出来事を綴りました。9月某日の亜結樹の台詞が何故こうなったのかという事と、海へ行った翌日の、氷峰と亜結樹の二人の夜の補完です。二人が、同じ様な夢を見るというくだりは後々重要な点になる様な気がします。允桧という人物に亜結樹は出逢った事が無いのに、夢の中で氷峰と同じ様に、夢で逢う(見る)事になるのは、氷峰と初めて体の付き合いをした事がきっかけです。触れ合う事でお互いの心が通じ合い、そのまま眠りについて似た様な夢を見るのは、現実にあったら少し不思議な事だろうなと思いました。
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