第15話 【動き出す歯車 -4-】


 ―――七月某日・終業式。


 今日は快晴だ。

 校門を抜けると先を歩く海鳴の後ろ姿が見えた。

 声をかける。

「海鳴、おはよう」

 海鳴は振り向き亜結樹の顏を見る。

「はよ……あ……」

「?」

 彼女の目を見て、窓から突き落としたときの事を思い出した。

「傷……もう大丈夫なの?」

「うん……ていうか今更変に優しくしないでよ、怪我させといてさ……」

「あ……ごめん」


 ――え? まだ怒ってる?


「海鳴、すぐ謝るね。何かあったの?」

「え? 特に何も変わった事ねぇけどさ……。ほら、海行く予定あんじゃん? それ気にしてる」

「ふーん。それとあたしにすぐ謝る事と、どう関係してるの?」

「それは……。お前気になんねぇの?」

「え?」

「八束の事。学校の帰り道で、海行く約束した時、Wデートとかほざいてた人」

「あー……うん。ちょっとだけね。気にはなってるけど、あたしにはミネが居てくれるから「大丈夫」だよ」

 海鳴はその大丈夫と言った亜結樹の言葉のニュアンスをむ。

「大丈夫……ね。俺は全然大丈夫じゃないんだけど」

「そうなの? あ、海鳴……もしかしてミネのこと気にしてるんでしょ?」

「うーん……。それもあんだけど……それだけじゃねぇんだ」

「そっか」


 海鳴は、自分が考えている事全てが亜結樹には伝わっていないと思った。

 亜結樹は眼帯を外していた。瞼の傷は塞がっており、空気に触れてももう滲みることは無かった。


「あのさ……今日こそ、立花来てたらさ、アイツにも伝えておいてくんねーかな……『俺は、本当に亜結樹の事が好きなんだ』……って」

「え……?」


 突然の「告白」というものなのかどうか、一瞬耳を疑った。亜結樹はその場で立ち止まってしまう。


 先を越して歩いてしまった海鳴は後ろに振り返り――

「どした? 何だお前、知ってたんだろ? それともフリだったの?」

 と満面な笑みで告げた。

「え……理解してるつもりだったけど……、いやそうじゃなくて……――」

「……?」


 亜結樹は黙り込んでしまった。特に苦しさや辛い表情を浮かべることなく。

 亜結樹が驚いたのは、自分が海鳴と恋人という形を象っていたことではなかった。

 海鳴の言葉を聞いたとき、改めて、「立花友美香という彼女に自分が海鳴のことを本気で好きかどうか」を、彼女本人に伝えなければならなかった。

 海鳴は「先行っちゃうぞ」と亜結樹を呼びながら前へと進む。後を追いかけるように亜結樹は考え事をしながら海鳴について行った。海鳴と一緒に廊下を歩いている間に、彼女は頭の中で立花に対する答え方――返事の仕方が途中でわからなくなってしまっていた。


 ***


 二人は教室に入った途端に足を止めた。

 ここ数ヶ月、普段と変わらない光景が一転して違和感を感じた。

 ある彼女の姿が目に飛び込んだからだ。

「――!……友美香?」

 小声で彼女の名を呟くと、席に座り込み、大人しく読書をしていた立花に亜結樹は足早に歩み寄っていく。

 海鳴は僅かに眉間に皺を寄せ、つんとした態度で立花の後ろ姿を眺める。

 亜結樹の後に続いて頭を掻きながら、大人しく自分の席に着いた。

 二人の気配に気づいた立花は本から目を離し、目の前にいた亜結樹の顔を見上げる。

 亜結樹の背後には、背を向けて頬杖をついていた海鳴が、静かに沈黙を続けていた。

 立花は本を閉じ、長く肩まで垂れた髪を耳に掛ける仕草をする。耳元が朝日に照らされ、一瞬光った。


「……!」


 ――あ……ピアス?


「……おはよう」

 亜結樹は立花の一声を聞いた後すぐレスポンスをする。その方法は――

「友美香……おはよう――!」

 上半身を抱き寄せることだった。

「――!?」


 ガタガタと椅子は立ち上がった勢いで後ろに引き、机は少し前にずれた。

 仰々しい振る舞いに、周囲の視線は一瞬二人に移る。

 その一人、立花とは正反対の廊下側の席に座り携帯電話を眺めていた小北エミも彼女に視線が向く。

 小北は前日、立花とメールのやりとりを交わしていた。


 ***


 Re : そろそろ学校来たら?》》》

『いつまで家に籠ってる気なの?あたしらもう氷峰さんに謝ったし…ていうか友美香がちゃんと面と向かって本当のこと言いなよ。友美香が今、何に悩んでるのかあたしわかんない』

 Re:Re: 》》》

『エミ、メールありがとう。あたしが亜結樹にしてきたことは本当は悪いってすごく反省してるの。もう亜結樹を傷つけるような真似はやめるから、エミもあたしのことはもうほっといて。お願いだから……』

 Re:Re:Re:》》》

『何言ってんの? あたしらもさ友美香と一緒にいたからさ、今まで言わなかったけど先生に呼び出されたり、色々あったんだから! この間なんか柊が亜結樹を窓から突き落とそうとして大騒ぎになったし、いい加減氷峰さんに会いに来てよ! 氷峰さん会いたがってるんだから!』

 Re:Re:Re:Re》》》

『え? 何その話。亜結樹と柊君て仲良かったんじゃないの? わかった……。明日必ず学校に行くから、エミにも話しておかなきゃならないことあるの』

 Re:Re:Re:Re:Re:》》》

『絶対来てよね。約束だよ? あたしらも友美香に伝えたいことあるから』


 ***


「ちょ、ちょっと…!」

 と言って、立花は亜結樹の手を引いて席から離れ、教室を早足に出て行く。亜結樹は突然の彼女の行動に驚く間もなく――

「ど、どうしたの?」

 と言いながら、立花に腕を引っ張られて廊下を歩いていた。


 立花は曲がり角の階段付近で足を止め、その場で一呼吸する。そして――

「亜結樹……びっくりさせないでよ」

 と振り返って微笑んでみせた。


「ごめん……嬉しくて、つい……」

 立花の笑顔を一瞬見たが、すぐに視線を逸らしながら呟いた。今までの――立花友美香の怖い表情を覚えていたから、今目の前で微笑んでいる彼女を、素直に見つめることが出来なかった。

「ねぇ、気づいてる?」

「え? ……あぁ、うん」


 立花が長く垂らしていた髪の毛を、耳にかける仕草を見せると耳元が白く光った。

 亜結樹は片耳にしかピアスをしていない彼女を不思議そうな目で見つめ直した。


「今日、お昼一緒に食べよう?」

「うん、いいよ! ……あ……」

 亜結樹は何かを付け加えようとして口ごもった。その様子に立花は沈黙を続けたままでいて――

「……」

 何を言い出すのかわかりきっていた様子でいた。


「海鳴も……一緒でいい?」

 亜結樹は立花に向かって堂々と海鳴の名を出してしまった。

 当たり前のように彼の名を。

 立花はもう今までの自分の殻を投げ捨てていた。ふっ切れていた。明るい声で――

「いいよ! 三人で仲良く食べよ」

 と言い放った。彼女は「あること」を気にしていた。エミに相談したこともあったが、エミは無関心でいるんだと返事が来なかったときにもう諦めていた。


『海鳴は亜結樹の事が本当に好きなのかどうか、あたしも知りたい』


 ――そんな内に溜め込んでいた悩み事を、友人に暴露していた。だがもうその答えを亜結樹から彼女は既に感じ取っていた。


 教室内では、海鳴が廊下側の席に座っているある集団の元へ近寄って、会話を交わしていた。


「なぁ……俺のこと最低って言うのは構わねぇけど、立花に何か伝えたの? あいつの耳、見た? 俺内心ビビってんだけど。ああいうの苦手なんだよ」

 と言ってエミの机に手をついて、彼女の顔を覗き込むように話しかけた。

「見たよ……てか今更、あたしもクラス中みんな知ってるし、そういう理由でつけ始めたんじゃないの?」

「ふーん。お前って冷てぇな……。知ってる? 無関心な奴が一番情が浅いってこと」

「何でそう思うの? てか考え過ぎじゃない? セクマイに無関心とか別に思ってないし。ていうか友美香がもうあたしらとは友達じゃないって切り出したの。友美香はもうこっちには来ない……」

「へぇ……、こっちとかあっちとか言ってる時点で超差別的なんじゃないの? 俺もなぁ……亜結樹と付き合ってる事、校内で堂々としてるけどさぁ、噂広めたのってお前らだろどうせ」

「だから何? いいじゃん事実なんだから。てか氷峰さんと柊君が付き合ってる事って友美香と直接関係なくない?」

「そーなの? なんか立花の事苦しめてたのって亜結樹だけじゃねぇよなぁ多分……」

「……!」

 ――ヒーロ気取りかよ。てかお前誰の味方だよ。


 エミは黙ったまま海鳴の言葉を受け止めた。返事をするに値しない人間だと思ったからだ。心の中では本音を漏らしたが、もう自分が海鳴に告げた通り、立花は彼女らと縁を切ったそうだ。

 立花とエミの会話劇は亜結樹と海鳴が教室に来る前――早朝にまだ人気の少ない教室で繰り広げられていた。


 ***


「おはよう」

「おはよう」

「伝えたい事って何?」

「友美香の方こそ何?」

「じゃ……あたしから話そっか」

「うん……」


 友美香は深く息を吸って吐いて……言わなければならないことを話し始める。


「あたし転校します。親があたしの事で揉めちゃって、別居するらしくて、あたしお母さんに付いて行く事にしたから、引っ越すの」

「え!? ……うそ……何で? ……急じゃない? 何で今まで話してくれなかったの? てかいつ決まった事なのそれ」

「えっと……五月の終わり頃。六月に入ってたかな……。休み始めてから、しばらくずっと親にカミングアウトできずにいたんだけど……。亜結樹からあるメール貰って……、その時ちゃんと話さなきゃなって思ってさ……」

「そうなんだ。あのさ……友美香ごめん……。あたしが伝えたい事はさ、あの相談の事なんだけど……。あたし、氷峰さんと実はあまり関わりたくないの……これ、本音だよ?」

 友美香はその言葉を聞いた途端、目に涙を滲ませた。瞳の奥からじわじわと熱くなっていった。

 ――エミなら言うと思った。

「本音……か。なら仕方がないよね。エミの伝えたかったこと、ここを離れる前に知れて良かった……ありがとう」

「え? 何でありがとうなの?」

「フフッ……もう、エミ達とは一生会わない」

「え?」

 友美香は不意にしのんだ笑い声を出した。そんな素振りを見せながら眉間に皺を寄せ、静かに一雫の涙を垂らして見せた。エミは友美香のその姿を目の当たりにして、どうしたらいいのかわからずつい――

「ちょっと何? 怖いんだけど……」

 また本音を漏らしてしまった。

「だからさ……もう、絶交だよ。この言い方ダサいとか思ってんでしょ?本気だから」

「は? ……いいよ、わかったよ……メアド消せば?」

 エミは冷静に言葉を返す。彼女はもう立花とは住む世界が違うとまで考えが及んでいた。そのまま二人は離ればなれになり、友美香は窓際の席に着いて、腕を机の上で組んで俯いていた。エミは廊下側の席で机の上で両肘をつき、両目を両手で覆い隠して深い溜め息をついた。


 ***


 亜結樹と立花が教室に戻ると、ちょうど一限目のチャイムが鳴った。

 夏の始まりを感じさせる日差しが、窓から差し込む。

 窓の戸を全開し、暑さで授業に集中できず、団扇を扇ぐ生徒も現れた。即座にカーテンを閉める生徒も現れた。風邪の勢いにカーテンがそよいで、立花の前に居た海鳴の背中が一瞬隠れた。

 授業が終わり、昼食の時間を知らせるチャイムが鳴った。

「じゃ、屋上行きますか」

「お弁当、ちゃんと持って来たよ」

「忘れてなかったんだね。今日売店がお休みだったって」

「学校のHPに書いてあったから」

「お前ずっと休んでたくせにちゃっかりしてんなぁ」

 三人は屋上へ続く階段を上りながら会話を繰り広げていた。


 ***


「いただきまーす」

 海鳴は銀色のガゼットパウチを開けると同時に声を発した。

 気怠気な食事そのものに退屈しているような面持ちで。

 その海鳴の態度を見ていた二人はお弁当を開ける。

「あ……」

「どうしたの?」

「これ、何て言う食べ物だっけ? ご飯の上にある……ピンク色の……」

「これは紅生姜よ。てか白いご飯の上に紅生姜だけって……。おにぎりにすればいいのに」

 立花は亜結樹のお弁当の中身を見て、苦笑いをする。

「あはは……おにぎりにする時間がなかったんじゃないの……かな」

「そういえば亜結樹と一緒に住んでる人って何の仕事してる人なの?」

「俺一度見たっつうか、すれ違った時にみた姿……あれ大工だよな?」

「うん……たまに遠い所出掛けたりするから、お弁当なんて毎日は作ってくれないんだけどね」

「じゃぁ……今日は?」

「終業式……だからじゃないかな」

「へぇ……そこに何の拘りがあるの」

「要するに気まぐれな人なんだろ?あの人の顔、俺ちょっと怖ぇなぁ……」

「そうなの? あたしはそうは見えないんだけど」

 亜結樹は海鳴の思いがけない一言に疑問を感じて聞き返した。その所、立花はお弁当の蓋を閉じて――

「ねぇ、二人に話しておきたいことがあるの」

 と、二人の会話を閉ざしてしまう。

「え?」

「何?」

 悪気は全くなかったのだが、これ以上亜結樹と共同生活を共にしている相手の話なんて、聞きたくないのが本音であった。

「実はさ……あたし、今日でここの学校終わりなの。転校するんだ」

「――!?」


 亜結樹と海鳴はどきっとする。顔に出たのは亜結樹の方だった。


「友美香……急にどうしたの?」

「本当に急だな。転校する理由とかあんだろ?どうせ」

「あたし……あの日からずっとモヤモヤしていたことがあってさ。柊君にはもう全部話した気でいるんだけど、もう覚えてないよね? 二人っきりで放課後話したことなんて」

「え? あー……俺覚えてるよ? 何? 今あの時の話振り返んの? なら、俺ここにいない方がいいんじゃね?」

「……」


 亜結樹は二人の会話に耳を傾けると、思い出した。あの日の事を。確かに小北エミの陰口で聞いた話だ。立花友美香は海鳴の頬を叩いたという事実と、亜結樹自身が柊海鳴という青年を好きでいるかどうか知り得たいという事実。二つの噂を聞いて、今この場に二人が隣り合わせでいるのが、自分にとって不都合であるというのを確信したのだ。


「そう? あたしはもう開き直っているわ。平気よ……」

 そう海鳴に返事をした立花は、 悠々としていた。

「友美香……海鳴と二人で話した事……あたし聞いても大丈夫かな?」

「え? ……どうしたの? 亜結樹……」

「いや……あたし……知らない方が良いんじゃないかと思ってさ……、ほらだってあたし――」

 亜結樹が何か言葉を紡ごうとした時、海鳴が――

「お前も開き直って聞くべき何じゃねぇの?」

 彼女の「言わなければならない事実を」悟って声に蓋をしてしまった。

「開き直って……って海鳴、今あたしの何考えてたの? 知……っ……てるの?」

「ん? いや別に俺の考え過ぎかもしれないし、俺の思っていることはまた後でお前だけに話すから。な?」

 海鳴はそう言うと、立花に視線を向ける。立花と目を合わせたのは数ヶ月ぶりだ。立花は海鳴と不意に眼を合わせてしまった。

「……」

 心の中身を見透かされているようで、大きい眼をしている彼の瞳は、オリーブブラウン色をしていてどこか微かに濁っていた。

「友美香どうして転校しちゃうの? あの時メールしたのに、返事してくれなかったじゃん……」

「うん……ごめんね。あのメールはちゃんと見たんだよ……でもあの時はまだ答えが出せなかったの」


 亜結樹がある日、氷峰の家に帰宅した日のことだ。

 氷峰は亜結樹に向かって、「友達ではいられなくなるかもしれない」と言った日。

 亜結樹はその事が頭から離れられずにいて、数日間友美香の事で頭がいっぱいになっていた。海鳴といつも一緒にいるのにも関わらず。

 そう告げられてからまた暫く経ったある日のことだ。

 亜結樹は一人で密かに友美香にメールを送っていた。彼女はどうして学校に来られないのか具体的に知り得たくて――彼女の言葉が知りたくて、メールを送っていた。


 立花が学校に来られない理由は、海鳴が既に予感していた事である。


 理由を話した海鳴は、一息ついて――

「それでお前がさ……亜結樹の事を好きでいる事に俺は腹を立ててしまったんだよ」あの日、立花に肩頬を叩かれたときのことを語り出した。

「……そう……なんだ」

「あたし、あの日さ、亜結樹に謝らなくちゃいけなかったの。でも謝ろうとする自分が許せなくて……」

「うん……」

「でもあたし、エミにはもう話をしてケリを付けたんだ。あたしはあたしを信じて生きていかなきゃって……」

「友美香……」

「でさ、結局お前の父さんが一緒にいたくないって話だったの?」

「そういうことになるかな……でも、あたしひとつだけ疑問に思っていることがあってさ……」

 昼食を摂りながら三人の会話は穏やかに進んでいた。その会話はなごむというよりかは、静かに立花とのたった四ヶ月の学校生活をかえりみていた。


「え? 何?」

 二人は目をきょとんとさせた。

「どうしてかな……二人と別れる事がそんなに切なくないの。なんでかな……」

 立花は、微笑んでそんな事を二人に告げた。

「……」

 二人は顔を合せて無言に浸ってしまった。立花の心が読めなかった様だ。



 昼食の時間が終わる。――五限目の授業が始まる――終わる。

 清掃の時間が始まった。

 立花は一番下の階段の隅で箒を片手に一人佇んでいた。木製の手すりを乾拭きする男子が滑ってきて立花の肩にぶつかってきた。

「痛っ――!」

 男子生徒は立花の顔を見る事もなく、謝る事もなく通り過ぎ去っていった。

 ――忘れ去られるってこういう事なのかな……。

 立花は無表情になる。掃除なんて面倒くさい。

 早く家に帰りたい――今日、引っ越し屋さんのトラックが来て、明日から母と二人暮らしになる。

 亜結樹にも海鳴にも、自分の正直な気持ちは最後までちゃんと伝わってはいないように思えずにいて。

 この学校にもう自分の居場所はないと思い込んでいるのは自分自身だった。

「早く家に帰りたい」

 亜結樹と海鳴は教室の窓拭き掃除をしていた。

「なぁ……立花の言ってたあの意味わかる?」

「うーん……切なくないって意味と、寂しくないっていう意味の違い?」

「俺、あいつに酷い事言ったって、後悔してたんだ。だけどあいつは今日、何事もなかったかの様なふりして平気な面して教室に居座っていたんだ……」

 海鳴はぼそぼそと窓を磨きながら話していた。そして話している表情はだんだん曇っていき――

「片耳が光ってたから俺は嫌気がさしたけどな……」

 そう呟いた窓辺に写った彼の視線は刺々しかった。

「そんなに嫌なの? ……あれアクセサリーでしょ?」

「うん……。俺はああいうのはしてはならない物って施設で学んできたからな……」

「そう……なんだ」

 静かに返事をした亜結樹は、乾拭きする手が止まってしまった。青いバケツに溜まっていた濁った水を捨てに行く為に教室を後にする。

 ――まだ言ってないことが一つあるんだ。

 ――あたしが海鳴の事を好きでいるかどうか、友美香に伝えていない……。

「おい氷峰」

 蛇口にバケツに溜まった水を流していた所、隣にいた男子生徒に声を掛けられた。

「……?」

「お前さ、海鳴の奴が実は男が好きって噂知らねぇの?」

「男が……好き……」

 相手の言葉を微かな声で繰り返してみる。

「アイツがお前と付き合ってんのってさ、お前がそういう……なんつうかメンズっぽい所に惹かれてんじゃねぇのかなってな?」

「へぇ……そうかも、しれ……ないね」

 亜結樹は言葉が途切れ途切れになってしまう。内心隣にいる男子生徒の声に怯えている自分がいた。


 ――身体の秘密がばれているとしたら……。まさかそんなはずないよね。

 ――あたしは誰にもイフだって事をばらしていない。友美香にも伝えていない。


「まぁ、俺らもさ、柊がお前を窓から突き落とそうとしたあの日の出来事忘れちゃいねぇんだ。アイツも顔には出さねぇみたいだけど反省してると思うよ。じゃなー」

 そう言って男子生徒は亜結樹の側を離れていった。

「反省……か」


 ――海鳴もあたしも、他人から再生されたって自覚してるのに……怒るも何もない気がする。


 清掃の時間が終わる。


 ―――放課後。


 立花は右斜め前にいる亜結樹の肩をトントンした。亜結樹は振り返る。

 立花は亜結樹に小さく折り畳んだ紙切れを渡そうとして、手を差し出した。

「ここで待ってるから、絶対に来て」

「あ……うん、わかった」

 亜結樹は紙を受け取り、ポケットに忍ばせた。

 立花は風を切るように教室を走り去ってしまった。かつての親友とも顔を合せずに。

「ん? どした? 帰るの? 今日は――」

 海鳴が亜結樹に声を掛けようとしたその時、彼女は海鳴の目を一瞬見遣ると――

「今日は二人っきりにさせてくれるかな?」

 そう告げた亜結樹の瞳は、少し潤んでいた。これは「嫌な予感」なのか、胸騒ぎがした。

 それが嫌な予感かどうか、不慥ふたしかでまだわからない。立花は、自分に告白する気でいる。

 図書室で握られた両手を突き放してしまったのに、二度目の告白が迫ってきていたということだ。


 海鳴は亜結樹の瞳を暫し見つめていた。

「何でそんな哀しそうな顔すんの? あ、もしかして俺がお前の事『悲劇のヒロインぶるな』って言った事まだ根に持ってたりすんの?」

「え!? ……ち、違うよ! ……そうじゃないよ」

「ふーん。いいんじゃねぇの? イエスかノーか一度目の告白ではっきりしてんじゃねぇか……俺知ってるけど?」

「そういえば……そうだよね」


 ――それは今まで海鳴があたしがいじめられていた事をフォローしてくれていたからだ。手助けしてくれていたからだ。

 ――机と椅子が無くなって、あたしの居場所が物理的に無くなった時に、保健室へ逃げろと言ったのも海鳴だった。

 ――深追いはしたくないけど、海鳴はあたしを強くしてくれた。けど彼にとってはそれは優しさなんかじゃないんだきっと。

 亜結樹は、椅子から立ち上がると、鞄を肩に掛けて教室を後にする。

 海鳴は自分の席の机に腰を掛けて、両膝に肘をついて頬杖をついていた。つきながら――

「俺だって、確かめてぇ事……ひとつやふたつ、あんのにな……」

 翳がかった夕焼け空を眺めながら一人になった教室で、独り言を呟いた。


 ***


 亜結樹は紙に書かれていた指定された場所へ着いた。

「ごめん、待った?」

「ううん」

 立花は、亜結樹の本音が改めて知りたかった。答えは見えているかもしれない、とふと思い返したのだが、納得いかないことがある素振りで話しかける。

「あのさ……亜結樹は海鳴のこと本当に心から好きなの? あたしエミに頼んだの間違いだったって後悔してるの」

「……」

 亜結樹は立花から目を逸らして、黙り込んでしまった。

「渡したい物があるの……」

 そう言って立花は亜結樹に近寄ってきた。

 真正面でまじまじと亜結樹の顔を見つめる。

「何?」

 ――これ……友美香が耳に付けていた物と同じ……。

 立花が自分の制服の右ポケットから差し出した物は、今朝彼女が身に付けていたピアスと同一の物。それの片割れだった。

「もう片方を亜結樹に持っていて欲しい……」

「両耳に付けないの? あたしにくれるの?」

 亜結樹はまだ理解していなかった様子だった。

「うん。大事に持っててくれる? あたしは亜結樹の事……、本気で好きでした」

 立花はそう告げると、ピアスを持っていない方の手で、スッと亜結樹の片方の手を掴み取り、彼女の手のひらを手前に差し向けた。そのまま亜結樹の手の平を包み込み、中でピアスを彼女の手に落とした。


 物が与えられた――手に物が当たる感覚を身に滲みるのは何故か。

 今度は、亜結樹が彼女に告げる番だ。亜結樹は深呼吸をしながら手に握り締めているピアスを胸に当てる。


 目を深く閉じて、また開く。立花の瞳を見つめ直す。


 ――今度は目を離さないで、面と向かって話そう。

 ――会うことができただけで嬉しい。


「別れのキスをしよう? そしたら、あたし友美香の為に思いっきり泣ける気がするんだ」

「え?」 


 亜結樹は立花の身体を引き寄せると唇にフレンチキスをした。そして強く抱擁した。

 片方は拳のままだった。片割れのピアスを握り締めているからだ。

 立花は泣き出してしまった。静かに目から涙を垂らしていた後――


「亜結樹……。ごめん……ね。あたし……亜結樹の体のこと……」

 言葉が途切れる。立花は本当の事が伝えられなかった。

 釣られて亜結樹も静かに立花の背で涙を垂らす。

 ――気づいていたんだ。

 お互いの鼻を啜る音がぐすぐすとする。

 ――あたしは保健室で確かめたかったんだ。酷い事をしようとしたんだ。

「亜結樹……」

「友美香、言わなくていいの」


 ――いつ気づいたかなんて今はどうだっていい。

 ――そんなこと大っぴらに吐かなくていい。


「友美香……いいの……あたしも今まで隠していたことだから……さ」


 ――いつかは伝えなきゃって思ったけど。身体の秘密なんてすぐに曝け出せるものなんかじゃないんだって、施設で蔀さんが言っていたんだ。


「でもね、あたしは、そんな亜結樹に恋をしてしまったの」

「うん、図書室で二人っきりの時に聞いたよ。手を握られた時に、そういう気持ちなんだってあたし気づいてたよ」


 自分の心と身体のバランスが乱される様な、錯覚は起こりうると感じて、最初の友美香の告白を受けた後、図書室で本を借りて読んだ。


 自分の事は自分で調べるんだ。施設で学んだ事が、僅か二年間の高校生活の中で何を活かせるのか考えなくてはならないと――悩みながら一学期を過ごして来た。

 友美香は海鳴に言われた言葉に酷く傷ついた。でも海鳴がそれを言った理由は、自分があたしと同じクローン《再生された人間》という存在だから、単なる性的な目でしか見られない存在になってしまった人も過去にいたからという事を施設にいた頃知っていたからだそうだ。

 友美香が亜結樹をいじめているわけを知ったとき、自分の置かれた環境を思い返して怒鳴り散らかしてしまったそうだ。海鳴はあたしに貸した傘は、自分の同居人の物だという事も屋上で話してくれた。


 夕陽が徐々に沈んでいく。青紫色の空に風変わりし始めて来た。海鳴はもう一人で家へ帰っていたのだろうか。二人の時間が、刻々と削り取られていく。亜結樹は立花に自分自身のマイノリティについて今思っている感情を話した。


 亜結樹が立花にメールをした時の話だ。


『学校に来れない理由の件』》》》

 友美香、元気ですか?あたしは相変わらず女子の皆から無視されていて、海鳴と二人っきりでいます。

 昼食の時間も、清掃の時間も、いつも海鳴と一緒にいます。

 友美香の悩みに答えてあげたいと考えてみたんだけど、あたしにも答えがわからない。

 あたしも実は自分のマイノリティについて施設にいた頃、担当の医師と話をしていた時期があります。

 もし友美香の悩みが、あたしをいじめる理由と何か性の悩みが交錯しているのであれば、

 出会って面と向かって話がしたい。あたしは知った気でいるから、ふわふわしているから……いつかまた会える日を待ってるね。


 亜結樹からのメールには、自分の気持ちしか伝えていない。そんな気がした。自分しか見えていないから、相手の気持ちを反射的に跳ね返してしまう力があるのかもしれないと立花は、メールを見て感じた。


 ――だったら、亜結樹の気持ちがわからないあたしはどうしたらいいの。断ったり突き放しているのはあたしの方かもしれないけど。


 ――どうしてなのか。なんでなのか。恋をしたのか。考えを巡らせる。


 ――亜結樹の為に……。


「亜結樹はこれからどう生きてくつもりなの?」

「あたしは……」

「あたしはどちらの性でもあるけど……。今は……どちらでもないと思ってる感じかな」

「そうなんだ……」

「友美香……悲しい……んだよね? あたし、友美香の友達でいられるよね?」

「悲しくないよ……亜結樹……。別れのキスしてくれたじゃん。あたし嬉しい…嬉しい気がしてる。でもね……本当は……」

 そう言うと今度は立花が亜結樹の手の甲に口づけをした。

「――! 友美香……」

「友達でいられるかどうかって自分自身で決めることだと思うの……」

「……」

「だからあたしは亜結樹の友達でいられるかどうか……。あたしは……亜結樹に恋をしたって言ったでしょ?」

 ――……難しいんだよ。だって恋をしたんだから。

「遠く離れていても……忘れはしない」

「友美香……」

「会える日がいつかはわからないけど、きっとあたしは忘れたりしない。このピアスの片方を亜結樹に渡したことで……」

 ――亜結樹には大切な人がいるから。また気軽に会おうなんて……思えないんだ。

「じゃあ聞き返すけど、亜結樹はあたしの友達でいられる?」

「友達……だと思わせてくれないならきっとそうじゃない……って言えばいい?」

「え?」

 亜結樹の言葉の扱い方に立花は目を点にしてしまった。その言い方はまるで、自分を客観視しているような言い方だった。亜結樹がどちらの性でもないと立花に正直に話してくれた事――それを知った立花は理解したい気持ちに苛まれた。

「いや、そういう言い方をすれば、友美香は潔くあたしと別れられる気がするんだ」

「そっか……」

「そろそろ帰ろう?」

「そうだね」

 二人は鞄を抱えて体育館裏庭を後にした。正門の前まで歩く途中、亜結樹は――

「……――!」

 四階の窓際から誰かに眺められていた様な錯覚を起こした。

「亜結樹、どうかしたの?」

「あ、ううん、何でもないよ」


 ――まだ誰か帰ってない人がいたのかな?


 ***


「何で俺、亜結樹に嫉妬しねぇのかな……」


 ――好きだから。……いや、それだけじゃない気がする。


 女同士、男同士なんてのは綺麗なんかじゃない……。ピアスを開けようが、いい香りのする香水を身にまとおうが、美しく飾ってるのは見た目だけじゃんか。


「心から好かれたいからなんだろうけど……」

 俺が八束に好かれてんのだって……見た目が七割、心が三割ってところだろう。

 そんなことを思いながら海鳴は、四階の南側の廊下の窓から、立花と亜結樹のキスを目撃してしまった。

  

「……そっとしておこう」

  

 ――亜結樹は……アイツは、お別れのキスをしたんだ。

 ――立花に会うのはこれが最後になるから……って。

  

 海鳴は一旦目を伏せる。顔を片手で覆い隠し、指先で目を一筋なぞって擦った。その動作をしながら考え事をぼんやりとその場で。

 亜結樹から漂うのは、無自覚な性愛感情なのだろうか。取り繕ってないあからさまな本性が見えていると、海鳴は亜結樹の容姿に再び目を向ける。ふと、自分と同じ男子の制服を着ているという事実に焦点を合わせた。薄々感じていたこと。


 お前は、本当は――。

「嫌だなぁ……、まさかね……」


 ――混乱してる……。変だな……なんだこの感じ。

 ――俺は好きなはずなのに。


 海鳴は畏怖クローンを知らない。勿論、允桧まさひが過去に存在したことも知らない。

 それでも彼は、自覚した上で亜結樹の存在に引き寄せられていた。

 海鳴は、亜結樹の見た目が男性的であることに魅力を感じている。立花友美香が女性に恋い焦がれて、いじめに走ったこと――それを、止めた理由は、自分の身勝手な言い訳である。

『女子は男子と付き合え』と怒鳴りつけた言い訳。

 それは、『己が男と付き合っているクローンだから――クローンを同性愛に引き連れないでもらいたい』という心の叫びでもあった。

 立花にそこまでの意図は伝わらなかったかもしれない――。

  

 しかし、亜結樹の存在は海鳴のネガティブな――マイナスな気持ちを打ち消した。

  

 亜結樹が立花にキスをした姿を海鳴に見せたことによって、彼の性別に対する思いの境界と偏見を曖昧にしてしまった。


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