第30話 【あの頃と同じ様な気持ちで -1-】

 帰り道の途中、ぼんやりと目に浮かぶのは、涙で焦点の合わない歪んで見える月だった。

 氷峰は帰路に就く。自分の家の戸の前で一旦足を止めた。ポケットに手を入れると、冷たい感触があった。ポケットの中には、先程陵から渡されたサバイバルナイフが入っている。玄関の戸を開ける瞬間――。彼女と目が合った。


「……」

「……おかえり、ミネ。遅かったね……」


 氷峰は昨日の夕方に病院へ行ったっきり、亜結樹の所へは戻らなかった。もうそんなに時間が過ぎていたのかと思うくらいに、彼は疲弊していた。陵とクローンに対する命や愛情のあり方を交わして来たのだが、彼の感情は陵の思うがままだ。何せ允桧まさひの自殺に関して負い目を感じていたから、目の前で出迎えてくれた亜結樹の顔を直視することが出来ずにいた。


 ――繋がっている……なんて考えただけで、俺は……本当は怖いんだ。

 ――亜結樹のことを『心の底から愛することができない人間』なんだ。

 ――あの人の言っていることも、一理あるのかもしれねぇな……。


 亜結樹と目を合わせることなく、氷峰は奥にある自分の寝室へ向かった。


「ミネ、どうしたの?」


 通り過ぎ去る氷峰の後を追う様に、亜結樹は声を掛けた。だが、彼の返事は無かった。

 亜結樹は氷峰の部屋へ向かい、そっと半開きのドアに手を掛けて中の様子を窺う。氷峰は無地のTシャツに黒いラインの入ったボクサーパンツ姿になり、ベットの上で横になっていた。亜結樹は彼の脱ぎ捨てられて服に視線を落とすと、何か不審に思ったのか必死に語りかけて来た。


「どうしたの? 施設で何か言われたんでしょ?」

「……あぁいう言葉に惑わされる俺も、同じ事考えてたんかな……。最悪な気分だ」

「何ぶつぶつ言ってるの?」

「……」


 仰向けになったまま、氷峰は逆さまに映る亜結樹をちらりと見る。亜結樹は、下から流れる様なその視線に、一瞬色気を感じてしまった。昨夕から、たった一日だけ会えなくなっていた寂しさが込み上げて来てしまう。


「そ、そうだ。ミネ……抱かれてもいいよ」

「――ッ!?」


 その彼女の言葉に、氷峰はむくりと起き上がる。

「何言ってんの? 俺がお前を、今抱くだと? 俺は今施設から帰って来て疲れてんだよ。見てわかるだろ」

「だって……ミネ、前に言ってたじゃん。バイだから男同士でもしたことがあるって、初めてした時に言ってたでしょ?」

「……」


 直接的な言葉を言いたそうにしている亜結樹の表情を見て、思わず彼女から視線を逸らす。施設であの男が吐いた言葉が過った。


 ――『快楽は一方的だ――』


「お前……何なんだよ……」

「だって、ミネ元気無いから欲求不満なんじゃ無いかと思って――」

「セックスは遊びじゃねぇんだよ……」

 それは、昔の自分を省みる様な言動だった。

「陵さんが何か言ったんでしょ!? 俺が、あたしで居てくれって言ったのはミネでしょ?」

「お前さ……何で俺の通りにしか動かねぇんだよ」

「それは――ッ……」


 ――クローンだから、だよ……。


 息が詰まった。言葉にしたら、なんて言い返されるのか怖くて口にすることはできなかった。


「……もうイフは抱かねぇって決めたんだよ! 今は部屋から出てってくれ!! 蔀や海鳴、八束の所へでも何処でも行くあてはあるだろ」

「何で? 出会った頃は『友達のままでいたいか』って、ミネから言い出したんだよ? 忘れたの?」

 亜結樹は思わず氷峰の服の裾をぎゅっと掴んで問い詰めた。返事は直ぐに帰って来た。

「あぁ、忘れたよ」

 続けて――

「今はそんな気分じゃねぇんだよ……」

 とあまりにいつもと違う形相で、単調に言葉を返すものだから、この先不穏に思えた。

 氷峰は鬱々とした態度で、亜結樹の肩を軽く突いて部屋のドアを閉めた。

 亜結樹は確かに聞き逃さなかった。カチャと鍵の閉まる音がしたのを。


「ミネ……」


 ――今の俺は、昔の俺じゃねぇのに……――。

 氷峰の片手には冬の寒さで冷え切ったサバイバルナイフが握られていた。


 亜結樹はリビングに戻ると、すぐに蔀に電話を掛けた。蔀は氷峰の唯一の親友である為、彼なら何か氷峰の気持ちを汲み取ることができるかもしれないと亜結樹は考えた。



 ―――同時刻・柊蔀宅。


 ソファでまたうたた寝をしてしまった。マナーモードにしたままの携帯電話が机の上で振動していた。今日に限って仕事以外のことは考えないでおこうと思っていた矢先だ。


「ん……」

(誰からだ? ……亜結樹?)

 ――『もしもし? 蔀さん?』

「どうした? そうだ、ミネは帰って来たのか?」

 ――『それが、その……どうしよう……っ!』

 何かに焦る様に声を詰まらせながら亜結樹は言った。

「落ち着け、ミネがどうかしたのか?」

 ――『あたし……俺、どうしたら……よかったんだ……っ』

「大丈夫だ、亜結樹。落ち着いて状況を話してくれ……」

 ――『ミネが部屋の鍵をしめて、籠っちゃったんだよ。何て声を掛ければよかったんだ……』

「部屋に閉じ籠った? 鍵は内鍵だけだったのか……うん」


 声を聞いただけですぐわかった。亜結樹は心底辛そうな状況に追い込まれている様だった。蔀はこういう状況に慣れていた。四年前にも似たような状況を作ったことが一度だけあったからだ。


 允桧が亡くなったあの日、八束が居場所を無くして彼の家を訪ねてきた。

 八束は無表情のまま家に入れてくれと懇願してきた。蔀はその場で拒否することは出来ず、仕方なく八束を招き入れた。彼は風呂場でずぶ濡れになった体を洗い流し、兄である蔀の邪魔をしないように、一人部屋で過ごしていた。蔀が部屋の戸を開けようとすると、部屋の鍵が掛かっていた。蔀は戸を叩いて彼を呼ぶと、返事がなかった。更にもう一度強く戸を叩いて声を掛けると、鍵の開く音がした。蔀が戸を開けた途端、八束が目の前に立ち塞がりいきなり彼の顔に殴り掛かってきた。

 蔀は殴られた衝動で八束の胸ぐらを掴んだが、殴ることは出来なかった。「勝手に家に上がり込んできたのはお前だろ」と言い返すも、唯一の弟である八束に、拳一つ振り上げることすらできなかった弟に対して、少なからず家族としての愛情を注いでいたのかもしれないと感じた。


 氷峰の場合はどうなるのか、と考えた。部屋のドアを開けた途端、目の前に八束がいたらどんな反応をするだろうか。蔀は想像していた。八束がどんな行動をとるのか……。


「八束を呼び出す。今あいつの心の中には彼奴が必要だ」

 ――『え? 八束さん呼んで、どうするんですか?』

「あとは気にするな。お前には話さなくてもいいくだらない事だからな……」

 ――『そう、です……か。わかった。あとは蔀さんに任せます……』

 蔀が八束を呼び出す理由は、亜結樹にはまだわからなかった。彼が八束を呼び出す理由や考えはもうまとまっていた。

「すぐそっちに彼奴を向かわせるから、お前は今は何もしなくて大丈夫だから――」

 蔀の声色こわいろは少々きつかったが、亜結樹に冷静さを取り戻させてくれた。

 ――『……はい。待ってればいいんだね、うん。大丈夫』

 亜結樹がそう言うと、蔀は電話をそっと切った。


 深く息を吸い込みながら受話器を再び握り返すと、彼は八束に電話を掛け始めた。



   ―――同時刻・柊八束宅。


「なぁ、今日の夕飯何にする?」

「んー昨日と違う味のチャーハンでいい」

「え? また?」

「どうせお前食えねぇんだから、俺の好きなもんでいいだ――……!?」


 些細なことから言い合いになっていた時に八束の携帯電話が鳴り響いた。

 こんな夕刻時に誰からだろうと思うのは当たり前だが、海鳴は不審に思わなかった。

 八束の表情が固まった。ご覧の通り、相手は蔀からだとすぐにわかった。


 ――『もしもし?』

「……なんだよ、何用?」

 ――『今から言うことは絶対に言う通りにしろ。もないと絶交だ』

「は? 何急に。そういう態度全然昔と変わらねェよな、お前」

 会話を聞いている限り、蔀が何か頼みごとをしている様子だった。ソファの上に膝立ちになり、電話中の八束を遠目に見ていた。だが、様子を窺うのをすぐにやめて、無言で台所に向かった。

「はっ、マジで冗談だろそれ。え? 俺がミネの家に? 今から?」

 ――『冗談じゃない。彼奴は本気で死ぬつもりでいるに違いない……だから――』

「だから何をするって? ……――!? っ何ほざいてんだよっ!! うるせーよ馬鹿野郎っ!」


 海鳴はフライパンを片手に八束の怒鳴り声にビクッとした。急に脅かさないでくれよと、三度八束をちらりと見る。そうか……。蔀が八束の琴線に触れるような言動を吐いたんだろうと理解した。


「……チャーハンできたよ〜……ってまだ話し中か」

 ――蔀さん何を伝えたんだろう……。もしかして――。


 八束が電話越しに蔀の話を聞きながら、海鳴が食卓にチャーハンを運んできたのを捉えた。

 ――『司秋さんが倒れて、あいつは亜結樹の体の秘密を知って、その陵っていう人にも会った……。それに――』


 蔀が何かを付け加えようとすると八束の話し方が急に大人しくなった。


「亜結樹ちゃんの秘密を知った?」

 ――「あの子をちゃん付けで呼ぶな」

「わかったよ。イフ以外に何の秘密が……」

 ――『それについては話が長くなる。もう彼奴も限界がきているっていうことだけわかればいい』

「……お、おう……。で、何でさっきみたいな話になんだよっ」


 八束の様子が少々赤らんでいるのが伝わってきた。海鳴は八束を横目に水とカゼットパウチを開けて口に咥えている。口に咥えながら八束を面白そうに眺めている。

 ――あーやっぱりそういう話なのか。やっぱ慣れたもんだねキュプラモニウムは。

 蔀の言いたいことが手に取るようにわかっていた。


「んなこと言われても……いや別に嫌いとかじゃねェけど……。てか陵って人、海鳴が世話になってるっていう奴?」

 ――『話をはぐらかすな!』

 八束は受話器を一瞬遠ざけた。蔀が今怒鳴ったんだろう。海鳴は水を一口飲んで一息ついた。やっぱり二人は兄弟なんだなと感じた瞬間だった。


「てか死のうとしてるミネを止めんのにそんな方法ありなわけ?」

 ――『……予感がするんだ。お前、高校生の頃に一度一緒に寝たんだろ?』

「なっ……何でテメェが知ってんだよっ!」

 ――『本人から直接聞いた。文句があるならミネに言え』


 八束は海鳴に視線を一瞬向けると、今度は頭を掻き毟るような態度をとっていた。


「あー、高一ん時に一度だけな(ミネもカミングアウトする相手考えろよ……)允桧のことでむしゃくしゃしてて……一方的だったけど。てか何でまた――」


 前髪を掻きあげながら返事を交わす。そして、また頭を抱える素ぶりを見せる。その様子は電話相手の蔀には伝わらずにいるが、そばにいる海鳴にはよく分かる。


 ――『そうやってまた彼奴を現実に引きずり戻す。友達以上の付き合いをしたお前らだけの絆を亜結樹にも見せつければいい……』

「おいお前……言い方少しは考えろよ」


 海鳴は八束の意外な冷静っぷりを初めて見た。言う時は言う奴なんだな、と。

 電話はまだ続いた。


 ――『人間は昔一緒にいた相手でも、好きだった相手なら本能的にそういう行為を見せしめでもいいからされると喜ぶ。死ぬなんてこと考えられなくなるはずだ』

「あー理屈はどうだっていい。……わかったよ。……はぁ?」

 ――『はぁ? じゃない! 今すぐにミネの家へ向かえと言ってるんだ』

「ったく、はーい。じゃぁもう電話切んぞ」


 八束はソファに座り込み天井を見上げた。更に頭だけ上を仰いで半分逆さまになる。食卓には覚めてしまったであろうチャーハンが置いてある。だが、兄貴に「今すぐ氷峰の家を訪れろ」と命令されている。『絶交』という言葉が頭の中にぎった。


 ――飯食ってからじゃ遅くなるしなァ……。


 そう思いながら、海鳴が何か言いたそうにこちらをぼんやり見ている。


「蔀さんからだったんでしょ? 電話」

「あ? あぁそーだけど? 相手すんのマジ疲れたわ……」

「八束にしては、耐えた方なんじゃない?」

「何それ。誰目線よ……」


 海鳴には『上から目線に決まってるだろバーカ』が顔に書いてあると八束は気づいた。海鳴の顔を見て彼はほくそ笑んだ。


「ちょっとミネん所行ってくるわ」

「……うん」


 亜結樹の所に行くなら、「俺も」と言いたい所だった。だけど言えなかった。氷峰と亜結樹の間には自分の想像をはるかに超えたものがあるんだと思い、亜結樹に何か声を掛けたかったが、何も掛けられずにいる。たった今、海鳴は八束の家で大人しくしていることしかできずにいて、もどかしさを感じていた。八束には氷峰弓弦という存在が過去にいた。海鳴の過去には八束と出会う前までは誰もいなかった。同じ施設にいたはずの亜結樹にも会えていなかった。海鳴の過去には誰もいなかった。

 亜結樹の過去には誰がいたんだろう……。ふと海鳴はそんなことを考えてしまった。


 八束は兄の言葉を信じて言われるがまま兄の言葉に従い、氷峰の家へと向かった。


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