〜2章〜

第17話 【夏の海での面影 -1-】

『どうして夢の様だと思ったんだい?』

 ある男が、彼の研究資料を飛行機の中で手にして彼の研究資料を読んだそうだ。

 その冊子を閉じて目を瞑り――まばたいて陵に視線をおくる。

 陵莞爾の答えは――。


『それは――……』

 ――ッ!?

「――ッは……ッ!」


 陵はベッドから勢いよく上体を起こした。少々夢見が悪かった。あの時、自分が呟いた言葉を思い出せずにいて……。

 昔の夢を見た。昔と言っても、大人になってからの夢であった。自身の研究の成果を有名な専門誌に寄稿した若い頃の思い出だった。


「ハァ……ハァ……薄気味悪い……ッ!」


 手前にあった目覚まし時計を壁に放り投げた。鐘が歪んでジリジリガシャンと鳴って地に落ちる。この夢は正夢になった。現実となった。ある人の力を借りて――。

 事実、今存在するキュプラモニウムが創設するきっかけになったのは、ある人の声がきっかけだった。

 彼の技術は高く買われた。彼は允桧まさひを産み出して、した。気に障る事実を迎え入れる事に思い至った。彼はマイノリティを理解するべく、禁忌のクローンを作り出してしまった。意図的に――。


 しかし允桧の誕生後、陵莞爾という男は彼の言動に少なからず感化されていた。

 五年経った今現在、速水紫苑というあの女に、允桧について嘘を吐いてしまった。  彼は、誰よりも允桧について知り尽していた。

 観察していただけではなく、允桧の友人関係も把握していた。

 允桧の担任に何度もあの男とは関わらせるなと言い放った時期もあった。

 あの事件後、允桧の言動に動揺した彼は焦りを感じ始めた。

 だからこそ、允桧が死を選ぶ数ヶ月前にクローンはいを使って分身である子を産み出した。

 允桧の生命は彼にとって彼自身の為の通過点に過ぎなかった。


 陵莞爾は――海鳴を作り出し、彼を一個人の人格を持ったクローン人間として育て上げ、自分のある目的の為に、彼を息子の様に可愛がっている。計画は着々と進んでいたかのように思えた。

 三年前に、分身である海鳴を自分のある目的の為に動かすべく、柊八束――蔀の弟に海鳴を託した。だが、二年前――柊蔀、あの男が亜結樹を生み出してしまった。この事実は、彼の中ではタイミングが悪かったそうだ。

 何故なら、海鳴と亜結樹が同い年に育ってしまうことで、不都合な事が起こりうるからだ。


 何せ今現在、二人は同じ学校に通っている。

 何故不都合であったのか――不都合である理由を陵莞爾は当時練り出した。

 彼は、司秋の私情をけなすためだけに、亜結樹という存在を産み出してしまったのだと位置づけた。これは予期せぬ結果だった。禁忌のクローンは允桧だけで十分であったという結果だった。

 何故なら司秋の愛弟子である蔀という名の青年がいるからだ。彼の目の前にいつもの研究室の傍らに。

 蔀は枝燕の息子でありながら、父親にあまりなつかず、司秋の世話になってばかりいた。


 司秋のことを俺の最愛の人がこう呟いていた。


『あの人は、他人の子を自分の子のように接しているけど……まるでコウノトリの様だわ……。あたしには洗脳にしか見えない。ああいう人に限って愛情を見棄てたりする瞬間てあると思うの。蔀君は背中に運ばれてきて、弓弦君は口にくわえられて運ばれてきた子供だよね。あの人絶対そう思ってるよ』

  

 ――慈悲は平等に有るべきだ。そう言いたかったのかもしれない。

  

「氷峰君は、俺の顔、覚えてるわけないか。それより――」


 ――海鳴が俺に従順でいられなくなる――亜結樹と対話する事で。

 ――あの子は厄介な子だ。

 ――海鳴が亜結樹の存在に引き寄せられている事は知り得た。そろそろ彼女の反応が気になる頃だな。

 ――司秋さんは允桧の死後、俺が二人目のイフを生み出す事はわかっていたのだろう。

 ――だがあの人はどこまで俺の考えを……思惑を理解した気でいるのだろうか。


「ふわぁあぁ……。あーよく眠れなかったな。あー目覚まし時計壊れちゃったかな」 

 陵は欠伸しながらそう嘆いた。



 ***


   

 ―――八月某日。


 内房沿いに国道を走らせる。銀色と赤いラインの入った黒い二台のバイクは、朝日に照らされながら駈けて行く。

 朝焼けの太陽は一日の始まりを告げる。胸騒ぎがする。

 氷峰の後ろには亜結樹が、八束の背後に海鳴が乗っていた。


「……」


 ――相変わらず鈍い音鳴らすな。うるせー。さっさと穴塞げっての。


 氷峰はバックミラーを覗き込み、八束の走らせるバイクを睨んだ。

 おそらく高校の時から乗り回していたものだろう。轟音がして耳障りなのは今だけだ。


「……」


 運転中は後ろに振り向けないそんなのは当たり前だ。

 俺はただ今は前を見て、ハンドルを握りしめていた。亜結樹に背を抱かれながら考え事から運転に集中したかったが――。


 ――今の俺だって……照れたりするもんだろうか。亜結樹への気持ちは……。


 氷峰は海へ行く目的を亜結樹に理解してもらいたかった。

 バイクに乗るときの亜結樹が腰に手をまわす仕草に、少しだけ興奮していた自分を思い出した。

 少しくらい距離を縮めたい――それもプラトニックな関係だけを求めているわけではないことを、亜結樹と共に知る目的であることを理解してもらいたかった。

 そのために今は目的地まで、バイクをただひたすら走らせている。



 ―――数時間前。


「ふわぁ。ねみぃ……」

「じゃ、こっちの荷物全部トランクにつめたから、ミネさん」

「? ……おう」


 海鳴が氷峰の事をミネと呼ぶようになった。理由は――

『ねぇ海鳴は、ミネの事何も知らないんだよね?』

 と亜結樹がちょっと前に尋ねて来た事がきっかけであった。


 氷峰は、海鳴が急にそう声を掛けてきたものだから、一瞬怪訝そうな顔を見せたのだがすぐ平然と返事をした。彼は思っていることすべてが顔に表れない人だ。海鳴のことをどう思っているのか、まだこの場にいる三人は見えていない。


「じゃ、八束はただ俺について走りゃいいから」

「じゃって何だよ……。俺が勝手にどっか行くと思ってんの?」

「思ってねぇよ。ただ先頭は俺が走る」

「わぁかったての」


 そう返事をしてからヘルメットを装着しバイクに跨った。後ろに海鳴も同じように跨ると――、

「っ! ……て、どこ触ってんだよ、首締める気かよ!」

「いや、え、えと……、乗り方わかんなくて」

 苦笑いしながら八束の腰に腕を回していた。八束は咄嗟に海鳴の方に振り返り怒鳴った。


 その様子を見ていた氷峰はくすくす笑っていた。


「ははっ……あいつ面白ぇ……」

 とひっそり呟いた。そんな笑っていた氷峰を見上げていた亜結樹はバイクの前まで走り寄り――、

「ミネ! 私もわかんないよ!」

 と氷峰より先にヘルメットを装着してからバイクに跨って大声をあげた。彼女の顔は少しむくれているようにも見えた。


 海鳴をかばって言ったつもりだと氷峰はすぐ気づいた。それを見た氷峰は――

「お前な……別にお前のことは笑って言ってねぇからな」

 軽くため息をついて、微笑んで見せた。



 ***



 海へ到着した。

  

「まずは着替えなきゃな」

「だな」

「……」

「あ、お前はその格好のままでいいんだよ……。つーか着替え持ってきてねぇだろ」

「うん。あたしここで待ってる」

「ああ。じゃあ……海鳴と待ってろ。一人にしておくわけにはいかねぇからな」

「!」

「何だよお前が一緒に待ってりゃいいじゃん」

「お前と交代で行ったら、亜結樹が困る。つうか俺も泳がねぇけど水着に着替えたいんだよ」


 ――八束と亜結樹を二人きりには絶対させねぇ。海鳴の方がまだ、ましなはずだ。


「んだよ……。じゃ先行くわ海鳴」

「ああ、うん」

「……」


 氷峰は、八束を連れて近場の公衆トイレへ向かった。


「海……人でいっぱいだね」

「だな……海初めて?」

「うん」

「俺も。ていうかもっと静かなイメージあったんだけど……」

 と言って彼は微笑んだ。


「あはは……、場所によるんじゃない?」


 と亜結樹は彼の隣で相槌を打った。

 氷峰と八束が戻ってきた。海鳴は二人と擦れ違うように着替えをしに行った。


「亜結樹ちゃんの水着姿見たかったなぁ」


 亜結樹は一瞬ドキッとした。氷峰は、彼女の様子を見て、すぐさま八束を睨みながら――、


「お前今エロいことしか考えてねぇだろ」

「ハッ……女の裸より男の裸の方がいいんだけどねェ」

「………」


 氷峰は頭を掻きながらため息をついた。


「あ……海鳴もう戻ってきた」

「――!」


 八束は海鳴の上半身を見るなりゲラゲラ笑い出した。


「改めて見るけどほっせぇなお前」

「人の体見て笑うなよ……最低だな」

「あ? 何だよ……つい昔の癖が出ちまっただけだよ」


 ――昔の癖? 何だろう。


 亜結樹は八束の態度にビクビクしながらも興味を持っていた。氷峰は、バイクのトランクから畳んであるビーチボールを取り出し膨らましていた。

 ボールは完全に膨らみ――、


「……よしっ!」


 ポンと軽く叩いて真上に放り投げた。


「お、イイねぇ……つーか場所取りしねぇとな」

「面白そうだね」

「だな」


 ――バレー……だったっけか。体育でやってたな。


 つまんなそうな顔をして放り投げられたボールを見つめた海鳴は、氷峰に向かってにやけている八束を横目で見た。


 ――あいつが亜結樹に手を出したら――なんてことは考えないで……って何考えてんだ俺は。


「なぁ亜結樹」

「何?」

「覚えてる? バレーのルール。見学してたから実際やんなかったけどさ……」

「あぁ、レポート書かされたことあったね。ルール? あんまり覚えてないな」


 と言って亜結樹は微笑んだ。


「ははっ、そっか。俺なんか今違うこと考えてたんだ頭ん中ではさ」


 亜結樹に向けてそう告げた海鳴の表情は少々ぎこちない笑みだった。八束のいる前で、おおらかな態度でいられないのは何故だろうかと自分自身の中で、考えを巡らせていた。

 四人は浜辺でバレーボールのリレーをしていた。


「ほらよ!」


 と氷峰が声をかけると、ボールは宙を舞う。

 海鳴が駆け寄ってボールを取ろうとすると――、


「わっ!」


 亜結樹が先に手を伸ばしてアンダートスを繰り広げた。海鳴はそのまま砂浜へダイブする羽目となった。ズサァと勢いよく滑り落ちる音がした。


「痛……ってぇ!!」

「わっ! ごめん海鳴!」


 亜結樹は海鳴の傍へ駆け寄った。その間に八束がそのボールをキャッチしてリレーは一時中断してしまう。


「んだよ、そこでずっこける奴があるかよ。じゃ、ミネ!」

 と言って、八束はレシーブを氷峰に向かってする。


「おう」


 氷峰は宙を舞うボールにトスを繰り出した。

 八束は氷峰のトスをアンダートスで受け返す。ボールの向かった先は――、


「あ!」


 亜結樹の方だった。亜結樹は座り込む海鳴をよそに、氷峰に向かって打ち返した。対して――、


「あ……海鳴大丈夫か?」


 氷峰はボールを打たずにキャッチし、抱えながら言った。


「…………」


 海鳴は長い沈黙のまま、むくれていた。自分だけ砂浜へとスライディングして全身に砂を被ってしまったからである。そのまま立ち上がり――、


「大体亜結樹が先に手を出さなかったら、俺がこんな目に遭う事はなかったんだよ!」


 海鳴は亜結樹に向かって指差しをしながら文句を言った。


「だ、だからごめん……って。あたし、自分でもボール打ち返せると思わなかったんだよ」


 亜結樹は海鳴に怒られながらも自分のまぐれな点を両手を見つめながら呟いた。



 ***



「えーっとじゃァ、これからァ、ミネと俺、海鳴と亜結樹ちゃん、二手に分かれます! 文句ある奴手挙げろ!」


 三人は八束のふざけた言い方に一瞬きょとんとした。

 氷峰はその後くすくすと笑い出してしまった。更にその氷峰の態度に亜結樹と海鳴はきょとんとする。


「ミネ? どうしたの?」

「え? 何で笑うの?」

「は? そこ笑うところかよ!」

「文句ねぇよ。賛成だろが。あはははっ」


 腹を抱えながら氷峰は笑っていた。


「ミネが笑う所久々に見た気がすんなァ。じゃ、ちょっと行こうぜ」


 八束の言い方は氷峰の昔の気持ちを擽るようであった。強いて言えば、この状況は氷峰にとっては互いのパートナーについて語るチャンスだと思っていた。


「海鳴!」


 氷峰は振り返って海鳴を呼ぶ。


「あ、はい!」


 おおらかな声で返事をした。


「亜結樹を絶対一人にさせんなよ?約束だ」

「わかりましたって」


 海鳴はへらへらとした態度でそう言った。


「本当に頼むぞ」


 氷峰は不安げな表情をしながらそう言った。

 四人は水着から普段着に着替えを済まし、二手に分かれた。


「なんかモヤモヤすんな……」


 海鳴はVネックの七分袖の服の胸元をクシャリと掴んで呟いた。


「え? どうして?」

「だってミネさんが八束といたらお前がさ……」


 ――可哀想だ。とか向こうは思ってねぇのかな?


 遠くへ行ってしまった氷峰と八束の後ろ姿を見ながら、亜結樹は海鳴にこう返事をした。


「あたしは、寂しいなんて思ってないよ。だって昔からの知り合いは大事にしなきゃってミネから聞いた」

「んーまぁ、それもそうなのかな。俺さ、友達としてもだけど、お前のこと……」


 ――好きだから……。恋人として好きなはずだから。でも……――。


 海鳴はまたしかめっ面になると胸元を掴みながら下を向いていた。


「……? 海鳴?」

「まだ八束に話してねぇんだ、お前のこと……さ」

「あ、そ、そうなんだ。でもいつかは伝えるの? あたしのこと……」

「ん……。あぁ……そのつもりでいる」

「そっか……あたしも海鳴のことは、クラスメートの一人だって――いじめを助けてくれた友達だって伝えてあるんだ」

「! そ、そうなんだ」


 ――いじめを助けてくれた友達か……。間違ってはいねぇな。言い訳したらキリがねぇし。


 二人は水洗い場で足を洗い流して靴を履いた。

 海鳴は亜結樹と手を繋いで海沿いの道を歩いていた。

 八束に別れを告げられ、今は亜結樹と二人っきりでいる。

 階段を上がると泳いだり浜辺で海水浴を楽しむ若者を見下ろすことができる。

 この場所で疑問に思っていることを呟いた。


「ビーチバレーしてる時は、なんだか夢中になって遊んでたけどさ……」

 そう言いながら両腕を組んで上に伸ばし――

「お前何で水着にならねぇんだ?」

「え……と、それは……」

 亜結樹は頬を指で掻きながら――

「単純に肌を露出するのが嫌なだけだよ」

「あ……、腹の傷を見られるのが……ダメってこと?」

「う、うん……」

「ここに来るまでに何人かクローンの奴見かけたけど、傷痕なんて再生された人間、皆平等に付いてんじゃん。気にすることなくない?」


 海鳴は亜結樹の不穏な表情をよそに、後ろ手に頭を抱えるような体勢で微笑みながらそう話す。その素振りに亜結樹は、淀んでいた気持ちが浄化されていくような気持ちになる。


「うん……そうだね」


 ――海鳴の言う通りかもしれない……けど。

 ――水着になれない理由はそれだけじゃない……。


 他に理由があることを海鳴は察してくれそうにもない。おかしい。わざとらしい。 亜結樹は、いつか海鳴に伝えなければならないと思っている。自分の身体のことを。

 海鳴は本当は気づいているのではないだろうかと、不意に思い出すことがある。


「ん? どした? 手……つなぐ?」


 海鳴の差し伸べられた手に触れる前に、今度は亜結樹が疑問を呈した。


「海鳴には……ないね。傷痕が……」

「ああ……そうだな。俺はさ、体も普通の人間よりも脆い。お前と違って、食べられるものが限られてるし、水しか飲めない」

「うん、知ってる」

「傷痕がない理由、知りたい?」

「え? ううん……。今はまだ……」


 ――お互い様だ。あたしの秘密を話す時が来るならきっと……――。


 潮風がべたべたと肌にまとわりついていても、まだ夕日は沈む頃じゃない。

 氷峰は海鳴のことを知りたがっているに違いないだろう。亜結樹は上を見上げて青空を仰いで再び海鳴の瞳を捉える。

 亜結樹の表情に海鳴は目を見開いた。どくどくと心臓が脈打つ。

 再び潮風が吹くと、二人は真面目な顔をして見つめ合う。


「海鳴はいつもどこか哀しそうな目をするよね? 晴れた日なんかいつも学校の窓際で遠くを眺めてる」

「そう? 気のせいだよ」

「あたしが水着にならない理由……、傷痕が見られるのが嫌なだけじゃないんだ」

「ああ、うん。……ていうかお前何焦ってんだよ。別に無理に言わなくて――!」


 そう言い寄る海鳴の方が、気持ちが焦っているのが目に見えたが、亜結樹は冷静な態度で――、

「本当は知ってるんじゃないの? 気づいてるんでしょ?」

 海鳴の手を両手でしっかりと握り返した。


「……」


 ――確信がねぇけど。もしそうなら俺は――。


 亜結樹に握られた手が夏の日差しに照らされて熱くなっていく。

 握られた手を振りほどくことはできなかった。


 何故なら――。


「俺だって言いたくないことあるから、お前も言いたくないなら言わなきゃいいじゃん!」


 海鳴は亜結樹に恋い焦がれているからだ。彼はそう叫んだ。海鳴は亜結樹と付き合っているという事実を八束に話せずにいて――。


「――!」


 亜結樹は大声を出した海鳴に驚き、はっとなって握りしめていた海鳴の手を放した。

 いつの間にか空は橙色に染まっていた。


「ご、ごめん……。俺さっき自分のこと話そうと思ったけど、やっぱり無理だった」


 海鳴は下を向きながらそう嘆いた。


「あたしの方こそ……、あたしだって自分のこと話そうと思ったけど言えなかった」


 亜結樹は、なかなか顔を上げようとしない海鳴を見つめながら話す。

 互いに距離を縮められずに、もどかしい平行線を辿っている。


『氷峰と八束に会う時間までには、上辺だけでも穏やかでいよう』


 二人はそう口約束をして、人気の多い海の家まで手を繋いで再び歩き出した。


「……」

「……」


 ――海鳴はあたしと二人でいることが、好きなんだって――

 ――知っているけど、あたしは、海鳴と恋仲でいることはきっと――

 ――ミネが許すわけないんだ。


「なぁ……もう一つ聞きてぇことあった……んだけど」


 握りしめていた手をそっと離した。あと少しの距離で、海の家までたどり着く。

 そこで二人はまたその場に立ち尽くす。


「何?」

「俺とお前は、やっぱり恋人同士になれない気がすんだ。お前は俺のことどう思ってる?」

「どう……って……それは――」


 ストレートな聞き方しかできないのには理由があるのだろうかと、言葉を返すのに少し間が空く。

 亜結樹はできる限り海鳴を傷つけないようにこう返事をした。


「あたしにはミネがいるから……。あたしは『海鳴を好きになる気持ち』が『ミネを超えていない』って言えばいい?」


 素直に口を開いてみる。浜辺で遊んだ時の四人の表向きな感情が、ひっくり返されるようなことだけは避けたいから、亜結樹は海鳴に自分の今の思いをぶつけてみた。

 結局は差を付けているだけだった。他人同士を比べることになってしまった。そう一瞬思い立ったとき、海鳴が頭を掻きながらくすくすと静かに笑い出した。


「わかったよ。お前は俺の本当の気持ちにまだ気づいてねぇんだ。それでいいんだ。あはは」

「本当の気持ち? なんなの? 教えてよ」

「それはさ、俺があいつに話せた後に、きっと……」


 ――八束に亜結樹のこと話したら、気が晴れんのかな。


「きっと……?」

「俺はお前のこと……あいつ以上に好きなんだ。本気だからな……。けど――」


 海鳴はそう言うと、両手で亜結樹の片手をきゅっと握って自身の胸に押し付けて見せた。


「お前にはミネさんがいて、俺には八束がいる。その関係は切り離せねぇんだ。だから、その……」

「海鳴……ありがとう。言いたいことわかった気がする……」

「え? 本当に?」


 海鳴は胸に押し当てていた亜結樹の手をそっと手放す。


「……うん。だから、ミネに好かれることが愛につながるって話でしょ?」

「愛……か。そう……。俺もあいつを好きでいる気持ちがなぁ……って事か」


 ――好きでいる気持ちが、一人で勝手に恋を終わらせんなって自分に言いたいのかもしれない。

 ――八束に話したら、俺の恋は終わっちゃうのかな……。

 ――俺は亜結樹に対して愛を求めてんのかな……。どうなんだろう……。


 海鳴の冷え切った手が、亜結樹の手を握りしめていたことで、温かくなった。手のひらに熱を感じた。

 亜結樹は海鳴の手を握り返す。そして海鳴より先に階段を一段降りながら――、


「考えすぎたら頭熱くなっちゃった。かき氷でも食べよ?」


 と明るい声で彼に話しかけた。


「あぁ、そうだな」


 そっと笑みを浮かべながら話しかけてくる亜結樹に、内心は解けない紐を一生懸命解こうとしていた。

 思い悩むのは一旦やめにしよう。亜結樹が立花のことで悩んでいた頃は、身勝手な言い訳をしてきた自分が、今度は亜結樹のことで心がもやもやしていた。

 今は亜結樹の傍にいることができて、それだけで嬉しいはずなのに、お互いに秘密を抱えたままだ。


 二人っきりでいられる時間はあと少しだけ。

 本当に聞きたいことは、お互いに知った。ただ話せずにいるだけだった。

 海鳴と亜結樹は同じ施設で生まれ育った。十七になる頃に亜結樹は海鳴の通う高校へ転校してきた。それ以前に海鳴は、クローンであることを隠して高校に入学していた。だが、その話は今の二人には関係のない事実だった。二人は当たり前のように人間と同じように高校に通い、学校生活を送り、友達として出会い、恋人同士だと言い寄り添いながら、一学期を過ごしてきた。


 不思議な縁だった。海鳴の亜結樹に対する暴動から、氷峰と八束は運命的な再会を果たす。海鳴と亜結樹のそれぞれのパートナーが、互いに昔から付き合いがあった知り合いであったこと。

 海鳴と亜結樹が引き合うと同時に、八束と氷峰も互いを引き寄せ合うのだろうと、四人でいる時に感づいていた者がいる――。



 ―――同時刻・キュプラモニウム施設内。


 ――泳がせたいのは君の方だというのに。


「あー海なんて、幼い頃に一度行っただけだよ。羨ましいなぁー」


 陵はロッカーから白衣を取り出し、ワイシャツの上から羽織ると蔀に向かってそう呟いた。


「本当にそう思ってますか?」


 蔀はいつになく不機嫌そうに相槌を打った。顔は無表情だったが、陵は声の質で理解した。


「思ってるさ。俺のいた学生時代のゼミやサークルの仲間のほとんどが遊びに興味を示す集団じゃなかったし、俺もアウトドアな方ではなかった。第一、勉強や研究で忙しかったし……って昔話は置いといて。君も行けばよかったのに、残念だなぁ」


「残念? 私が行くわけないじゃないですか。二十過ぎて兄弟揃って海へなんて……」


 ――恥ずかしいに決まってる。しかも幼馴染とそのパートナーがいて尚更だ。


「あはは。俺からしたら弟がいること自体嬉しくて一緒について行きたくなる方なんだけど。君は仲良くしてなかったのかい? 弟の八束君と……」

「弟の名を口にしないでください。迷惑です」

「どうしてそう言うんだい? 俺は君の父親とも知り合いなんだからさぁ。それに司――」


 そう上から蔀の吐いた言葉を覆い塞ぐ。次に何か言いかけた時、蔀は――


「確かに私は伯父さんの希望に従ってこの組織に入りましたけど、あいつは違うんです! あなたには一切関係ない!」


 と怒鳴ってロッカーの戸を勢いよく閉めた。


 弟のことを思ってこその発言だったのか、蔀は冷静になれなかった自分に息を切らす。陵の言い方にはいつも棘がある。だからこそ心の奥底に眠る感情を掘り起こそうとして穴を開けようとしてくる。逆手に取ってみれば、陵が昔の思い出に自ら棘を刺してるかのように思えた。


 八束のことを野蛮だと思い込んでいるだけなのかもしれない。蔀は昔を振り返りたくなかった為、氷峰と八束が一緒にいることに対して素直に喜べずにいた。何故なら、亜結樹と海鳴が傍にいるにも拘わらず、二人が過去に戻ろうとするならば――彼らを止めさせなければ、それぞれの関係性が辛くなると気づいたからだ。


 陵は、蔀が怒鳴ったことに対して、少し目を見開いて驚きを表わした。彼は蔀の熱を冷ます様に静かに声をかける。


「……その通りだね。言い方がきつかったか……。本当は、俺も願っているよ」


 ――もっとも仲良くしていきたいのではないかと父親が望んでいるだろうに……。


「願っているですって? ……時間のかかる話だと思いますよ」


 ――父親との関係は……。母さんに会う気も今は無い……。


 陵の言葉の意味を頭の中で括った。蔀は頭の中で理解していた。

 父親に会わずとも、兄弟の溝を深めていくのは本人同士――父親の手で修復できる問題ではない事を。ロッカーの戸を押さえて下を向いていた蔀は、その手をそっと下ろしてため息を吐いた。部屋から出ようとした陵は、出口のドア付近で速水とすれ違った。陵は思い立って彼女に耳打ちした。


「貴女がキーマンなんだろうね」


 クリアファイルを口に当てながら、普段言わない言葉遣いで――。


「……!」


 速水は耳を疑った。いつもなら『君』と呼ばれる自分が陵という男に『貴女』と言われたのだから。


 目を見開きさっと振り向くと、肩に掛けたクリアファイルを手にした男の後ろ姿が優美に見えてしまった。


「その言い方……正直やめてもらいたいんですよね」


 彼女はそう呟き、蔀のいる部屋へ入った。




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